古代エジプト文明のミイラが精神(魂)は永遠に生き、死体は復活の時の魂が戻るところと考えていたようである。多くの古代文明でミイラ作りが行われていたようで、肉体が滅びても精神は生き続けることは輪廻転生をいう仏教でもそうであった。仏教においては出生率が変化しない時代には説得力を持ったが、人口が大幅に増えることで、疑わしくなる。輪廻転生は必ずしも人間だけではないようなので、絶滅種が増えれば、との考えもあるが、あまり突き詰めても意味がない。最近流行った歌の中で、死後は千の風になるようで、墓参が大幅に減ったようだ。
そればかりではなく、樹木葬や散骨が話題になった。死後の世界観が多様化してきたことは、かつては考えられないことであったが、時代とともに葬儀や死者への形代(かたしろ)の在り方についても変化してきている。決して死者への追悼の想いは変わってきたわけではなく、形代の在り方の変化だと思われる。
在職中岩手県に赴任していたとき、古い時代に、こけしは「子消し」であり、生活が困窮時に親が子供を間引きし、その形代が人形として祀られたと聞いたことがある。残酷であるが、亡き子供に対する親の慚愧に堪えない思いが伝わる話である。核家族化が進み、檀家制度も崩壊の危機にある。また、宗教色のない葬儀、葬儀の規模や方法が変わってきたのも最近の流れである。死後の世界観に関する諸説の批判はタブー視されてきたが、直面する死の問題を残された者に任すことが果たして良いのか疑問が残る。残された者へは何らかのメッセージを送る方が、むしろ良いのではないかと思われる。
お遍路で四国八十八箇所の寺に巡礼することは、現在も続く習わしの一つであるが、自らが精進し、死後の世界へ向かう心の準備が巡礼となっている。巡礼衣装はそのまま死装束であり、死者への道標なのであろう。釈迦如来信仰が仏教にはあるが、読んで字のごとくで、「来るが如し」が如来である。精進すればするほど相対的に如来が来てくれるまたは如来に近づくことができることを意味するそうである。(次回へ続きます)