鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

生と死(4回シリーズその2)

2013年02月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 死は突然に来るのではなく、生との連続性の中にあり、生と死の割合が徐々に変わり、死の割合が多くなり、身体全体に死の割合が100パーセントになったときが死である。
つまり、生きていても、生とともに死があり、生と死は共存しているといえる。

 人の死は、事故等にあわなければ、また、自ら命を絶たなければ、そう簡単には死なないだろうと思っているのだが、果たしてそうであろうか。肉体と精神に分けてみたときに、肉体は老化するが、精神も老化するのか、肉体とともに同時に老化するのであろうか。病気の原因が病(やまい)は気からといわれるように、精神が肉体を蝕むこともあるようだ。

 ストレスが続き、ストレスを発散できないと細胞分裂が正しく機能せず、細胞核の分裂で、二重螺旋による情報の伝達がうまくコピーされないため、いびつな細胞(DNAが正しく配列していない、染色体に異常があるなど)が生まれる。通常、異常な細胞はアポトーシスによって取り除かれる。そして、マクロファージによって食されるので、問題ないが、マクロファージが食しきれない異常細胞が体内に残ると、ガンを誘発するといわれている。

 寿命とは、平均余命のことを言うが、生誕時の平均余命のことを、特に、平均寿命と呼んでいる。平均余命は、生まれた時点の医療・衛生水準を示す指標として用いられている。
 医療・衛生水準や、食生活、環境等が継続することを前提としているため、社会の状況が良ければ、余命は延びることになる。自分が生まれた昭和20年代では、50歳後半であった。78歳が男性の平均余命といわれるのは、今年生まれた幼児のことで、我々がその年まで生きられる保証はない。アフリカや東南アジアでは我が国に比べ、平均余命が低い。その理由は、乳幼児の死亡率が高いためといわれる。決して老人がいないわけではない。自分は56歳を遠に過ぎたが、その意味では何時死が訪れても不思議ではない。(次回へ続きます)

生と死(4回シリーズその1)

2013年02月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 生きている実感は、目覚めたときに、今日もがんばるぞと気合いを入れるときである。また、一日の活動が終わり、寝床に入るときである。明日の予定を確認し、目をつぶると睡眠にはいる。睡眠は、小さな死であると何かの本で読んだ記憶がある。夜中に、あり得ない夢を見て起き、再び寝ると、継続した夢を見ることがあり、目覚めて、現実ではないことにほっとしたりする。夢は日常経験する多くのことを睡眠中に、脳の中で整理しているようである。脳のすべては眠っていないのである。その証拠に寝ていても呼吸や体温は維持されている。
 夢を見ないときもあり、たぶん、夢を見ているのだが、目覚めたときに記憶から去ってしまうのかもしれない。では、小さな死が大きい死になれば、そのまま起きずに死の世界にはいることになる。普段はそのようなことを考えずに床につくが、同年代の死亡記事を見ると、年齢を経るに従い、他人事ではすまされず、余命を確認したくなる。果たして自分の余命はどれほどか、ロウソクの火があとどのくらい灯り続けてくれるのか、燃え尽きるそのときのことを想像することができない。自らに訪れる死を意識的に考えず、むしろ避けてきた。

 気休めに言ってくれる友人の話では、老衰による自然死は痛みを感じないはずだ。そのわけは、爪や、髪の毛と同じで、細胞が死んでいくからだそうだ。細胞の通常の死はアポトーシスといってプログラム化された細胞死のことで、約60回の細胞分裂後に死滅する。
 死んだ細胞はマクロファージによって食べられる。細胞分裂は生まれ変わる細胞と死滅する細胞がある。痛みはない。痛みは神経が行き渡っている部位に打撲や、切り傷等を受けると神経が脳に伝達し、脳の細胞が痛みを感じるので、脳が機能しなくなれば痛みはないという。また、アポトーシスという細胞は死滅細胞と呼ばれていて、オタマジャクシのしっぽが無くなり、蛙になるときや、おなかの中にいるときの赤ん坊の手足の指は、始めは繋がっているそうで、あるホルモンが作用するのであるが、スイッチが入ることでアポトーシスが働いて、指に分化する。この死滅細胞は、痛みを伴わないそうである。
 このことから分かるように、生きていることはすなわち、細胞が再生をしているからで、死滅する細胞と共存しているのである。再生が止まれば死であるが、正しくは脳死を死としている。 一方、ネクローシスという死滅細胞は、壊死を起こす細胞で、血行不良で酸素不足になり、細胞が死んでしまう。この場合は痛みを伴う。(次回へ続きます)

米国雑感

2013年02月19日 00時00分01秒 | 旅行

カリブ海の人と共に

 ワシントンでのオリエンテーションの間にAFL-CIO(米国労働組合総同盟・産別会議)の第17回全米大会に出席する機会を得た。

 ワシントンの朝は黒人婦人警察官のてきぱきとした交通整理で始まる。我々は大会のゲストとして参加するカリプ海沿岸の労働組合幹部と大型バスでアトランテツクシティに向った。片道5時間の旅はカリブの人々の緊張をとくのには充分ではなかったのであろう。
 我々は言葉の壁を越す努力をしたが、彼らの心の窓は容易に開こうとはしなかった。しかし2日後の帰路はすばらしかった。これこそ米国上陸後始めて体験した国境をこえての心のつながりだった。

 どうにも止まらない、この言葉がピッタリする彼らだ。次から次に出る南国特有のビートのきいたリズム、身体が自然に動き出す。始めに我々の抱いた異国人のイメージはそこにはなかった。口笛、拍手、リズムはリズムを呼び、我々は未だに見ぬカリブの夜の陶酔に落ちた。数時間はまたたく聞に過ぎ、バスに同乗したすべての人々の心は互いに強い粋で結ぼれていった。今もあのパスの中のすばらしい光景が眼に浮んで来る。
 
 某日
 シカゴよりミネアポリスを経由してボーズマンにくる途中 , ロッキー山脈の残雪を見た。ノースウエスト航空DC10型機の大きさからすると米粒としか云いようのない小さな窓から眼下を見ると、まさにそこには広大な牧草地が広がっていた。数分後には眼前をおおうけわしい山なみ、頂をすっぽりつつむ雪渓は数日前に降った新雪と濃淡を異にしていた。アメリカは合衆国であり多数の人種の雑居地である。そこに生じる複雑な問題はロッキーの残雪と新雪のように、次第に同化し、銀色に光る山頂のように美しく、人々の胸を打つと思う。

 ローカル色の強いポーズマン空港に着く。ニューヨーク、シカゴ、デトロイトで感じたアメリカとこの地の光景はまさにアメリカの多面性を示している。秋を感じさせる紅葉、広々とした牧草地にのんびりと草をはむ牛馬、直線道路、その端は地平線の中に消える。すべてスケールが大きい。イエロストーン公園入口の町のあかりが見えた。

国際交流業務(4回シリーズその4)

2013年02月18日 00時00分01秒 | 旅行

米国雑感「女性解放について」

 数年前より白人女子集団から口に出されたウーマンリブについて少々ふれる。
 ウーマンリブを唱えさけんでいるのは白人女子である。黒人女子が口にすることはあまり聞かない。なぜなら、黒人女子はすでに解放されているからである。ではどんな意味での解放か。おそらくそれは米国の奴隷制まで遡らなくてはならない。当時、白人家庭は通常、奴隷を持っていた。黒人男性は今でもそうであるが、オールド・ブラック・ジョーでもわかるように、白人にかいならされ骨抜きにされた。

 しかし、黒人女性は白人男性の相手を務め、白人女性よりも影の力を持ったのであろう。混血が多いこともそれを示している。これがおそらく黒人女性のウーマンリブたらしめた原因なのであろう。つまり米国の社会が始まった時にすでに黒人女性のウーマンリブは経験済みなのである。
 ウーマンリブをロにする女性はどことなく欲求不満な面があるようだ。骨抜きにされた黒人男性と亭主を寝取られた白人女性のカップルは、体制に対する抵抗のように見える。白人女子も黒人男子もお互い昔は、とうてい考えられなかった一線を犯すことによってお互い体制に反発し、それによって存在を認め、喜びを感じることにより、解放と同一視するのではないだろうか。この点ヒッピ一社会の考え方と同じような過程をふんでいるように思える。

 翻って、我が国の状況は微妙である。女性の職場進出とともに、経済的に豊かになり、ウーマンリブのかけ声も薄れた感じがする。もっとも財布を握っているのは女性がほとんどなので、米国の状況とは全く異なっている。ほとんどの米国男性は財布を握り続けているとの話であった。(このシリーズ最終回です)

国際交流業務(4回シリーズその3)

2013年02月17日 00時00分01秒 | 旅行

米国雑感

 偉大な国アメリカが日本、または東洋にある歴史的習慣・風俗を重んじ、真似ている所も各所で眼についた。結婚年齢が上昇しつつあるのもそのーっと言えるだろう。
 結婚年齢上昇の背景には次のようなことが原因している。両親は子供の教育について自立心、独立心を早くから教え込む結果、親の暖かみを忘れさせられる。それが一人前となる16歳-18歳頃に今までおさえて来た親の暖かみを思う気持が異性に向けられ、早期結婚ということになる。しかし、このような心を持った男女の道はその後すぐに離婚という結果になるという。

 日本で行われ、我々の知っている結婚するまでは親元で生活する様な事も最近は米国内でしばしば聞く。さらに見合い結婚のようなケースも聞いた。また、しつけについては、公衆の面前で子供をしかるような事も少なくなっている。恥という思想は米国には、罪によって存在しているが、子供をしかる場合も最近は個人主義の強いアメリカでさえも、他人の眼を気にかけるようになったようだ。

 黒人の割合は数年前とほとんど変っていないそうである。しかし都市部において何と黒人の多いことか。特にワシントンでは、黒人専用のカフェテリア・バーも開かれている。夜間は白人の姿を見ることは稀である。この理由は一般に白人は黒人より所得が多いことに起因している。特に一般といったのは理由がある。大企業 , 中小金業では人種問題にこだわると今では経営がむずかしいらしく、黒人をどんどんスタッフに入れている。少々学歴がある黒人は引っ張りだこだそうで、上院下院議員の中にも黒人が多くなっている。そのような人は中流以上の生活をしている。大部分の白人は郊外に家を持ち、都市部にあるオフィイスに通勤する。黒人は都市部に生活圏を持っているので夜間は黒人の天下になる訳だ。(次回へ続きます)

国際交流業務(4回シリーズその2)

2013年02月16日 00時00分01秒 | 旅行

米国雑感

 アメリカ合衆国というのは変な日本語訳と思う。United State of Americaはアメリカ合衆国ではなく、合州国と訳すのが本当であろう。もちろん「衆」というのは人種の多様性の面からかもしれない。
 アメリカには、三つの種族があるという。白色人種(コーカソイド)、黄色人種(モンゴロイド)、黒色人種(ネグロイド)であるが、決して単一民族の集団ではない。アメリカ人の中には、アングロサクソン系、アイリッシュ、プエルトリコ、中国、朝鮮、日本等から渡米した人々の多民族国家である。だから米国ではアメリカ人と外国人とを区別することができない。
 ボストンで夕食後、町を散歩していた時にホテルを聞かれた。それも我々をアメリカ人と見なしてかスラスラとした英語である。私は彼がたずねるホテルなど知るよしもない。

 このように日本人の我々も米国では日系のアメリカ人と何の区別の方法がないのではなかろうか。日本人の感覚からすると妙な事であるが、また、合州国と考えれば50の州はすべて独立的な意味を含み、独自の法制度をもっている。特に税金についてはほとんどの州で税率が異なっていた。また、州によっては禁酒の州があるとのことで、列車を使って旅行する場合、禁酒の州を通過する時は、今まで飲んでいた酒もやめねばならないとのことである。丁度、日本の都道府県と同じような 地方自治体と考えると良いのであろう。

 人種問題については出発前にもっていた知識は少々危険であったように思う。深刻な面ももちろんあるが、私が思うに、現在はいたしかたないものとして個人の胸の奥深くにしまわれているかのように見えた。しかしウーマンリブと同じよう にブラックイズビューティという黒人の思想、日系3世、4世は自分の両親のことをバナナと呼び、表面の黄色と内心の白色を批判し、白人は結婚相手に対し、将来生まれる子供の皮膚の色を気にしながら一抹の不安をもっているという。しかし徐々にあらゆる面で成長している人種問題も今や過去の遺物として同化の方向が表われている。(次回へ続きます)

国際交流業務(4回シリーズその1)

2013年02月15日 00時00分01秒 | 旅行

 古い話であるが、大学校を卒業して、5年目の秋であったが、本部の国際交流担当専門役から電話があり、青年技能労働者交流事業で、米国へ幹事補佐として行ってくれないかという内容であった。直ぐに返事をくれとの急いでいる様子であったが、子供が1歳に届かなかったので、ワイフと相談するので1日考えさせてくれと返事をした。翌日、詳しい話を聞くとともに、承諾する旨を伝えた。この事業は、昭和43年度(1968年)から日本と米国、および日本とドイツとの間で、青年技能労働者を双方で派遣し研修する制度である。筆者は制度が発足して6年目に行くことになった。昭和56年度に制度の対象者が変わり、企業内教育訓練担当者となったが、昭和60年(1985年)日本と米国との交流事業は中断した。ドイツとの間の交流は平成12年までの32年間に亘り継続していた。現在は事業としては廃止となったと聞いている。
 この事業の目的は、国際交流として、両国の職業訓練施設、企業における生産現場等の視察や、企業内教育訓練指導者、経営者、関係機関の関係者等との意見交換を通じて国際的な視野を広めるとともに、相互に相手国の教育訓練等の現状について、理解と認識を深めることにより、教育訓練の発展および、技能水準の向上に寄与することであった。毎年派遣と受け入れを行ってきた。

 派遣団の概要は、団長、幹事、幹事補佐と団員15名であった。団員は国内の企業に所属し、もちろん企業の推薦が必要で技能検定の1級を保持しているか、全国技能競技会の経験がある者であった。
 約1ヶ月間の研修旅行は、羽田空港からアンカレッジ経由、ニューヨークJFケネディ国際空港に到着。ニューヨーク・ワシントンに2週間滞在し、南回りと北回りに分かれ2週間後にサンフランシスコで合流する。合流後、ハワイ経由で羽田に帰国する長旅であった。米国内を11回、飛行機を乗り換え、市内はバスやタクシーに分乗して移動した。
以下、当時メモ書きを残していたので、手を加えずに掲載することにした。(次回へ続きます)