gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

横山英幸氏  

2025-03-02 22:10:01 | 文化

>読売新聞   >市長は「横山さん」大阪市、職員同士の呼び方を役職・年齢関係なく「さん」で統一   >読売新聞によるストーリー・   >4時間   

> 大阪市は、働き方改革の一環として、市役所内での職員同士の呼称を、役職や年齢に関係なく「さん」付けで呼び合うよう推奨すると発表した。   

 

責任の所在を明らかにするために、職場内に役職名は大切ですね。問題は、役職名があっても当人が責任感を感じない所にありますね。   

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。責任の所在を求めて職員がうろたえる所に問題が在りますね。   

日本人はため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができません。我々は人間が真に平等であるという実感を体験したことがありません。

 

>ハラスメントのない、風通しのいい職場づくりを実現することで、市民サービス向上を目指すという。

> 横山英幸市長が、民間企業による「さん」付け呼称の取り組みを知り、職員同士のフラットな関係性の構築を進めるため、導入を決めた。   

 

市役所内で、職員がさん付けで呼び合うだけで、相手と対等な立場を実感することは無理でしょうね。   

 

>すでに全職員に通知しており、市長自身も率先して取り組み、「横山さん」と呼んでもらっているという。   

> 横山市長は2月20日の定例記者会見で、「『さん』を付けることで、丁寧なコミュニケーションにもつながる。   

>義務化とまでは言わないが、この方向を目指していきたい」と語った。   

 

残念ながら今回の試みは横山市長の気休め程度にしかならないでしょうね。   

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。高等教育機関において自己の個人的見解示せば学位 (博士号など) が得られる。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても国家目標に到達しない。だから、わが国の政治家は若者にも夢と希望を与えない。    

 

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’ を追求する学問がない。相手の信用を得ることが難しい。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


田中弦氏  

2025-03-02 14:37:15 | 文化

>東洋経済オンライン   >「会社員のスキル=企業のもの」が時代錯誤の訳 会社が提供した能力・スキル誰のもの?    >田中弦によるストーリー・   >1週間・   

>国内外5000社以上の人的資本開示情報をすべて読み込み、「人的資本経営専門家」として活躍する田中弦氏。    

>その田中氏が、「人的資本経営」について、「いつ」「どこで」「誰が」「何を」すればいいのか、全ノウハウを解説した新刊『5000の事例から導き出した 「人的資本経営大全」ー日本企業最後の伸びしろ』が発売された。   

>今注目されている「人的資本経営」について、「会社員のスキル=企業のもの」と考える"時代錯誤"という観点から、田中氏に解説してもらう。   

>個人が持つスキルは「個人のもの」か「会社のもの」か   

>前回の記事(「人的資本経営=人を大切にする経営」は勘違いだ)では、意外に多くの人が混同しがちな「人的資本経営」と「人を大切にする経営」は、実はまったく違うものであることを「コスト」と「投資」の視点から解説しました。   

>もうひとつ、「人的資本経営とは何か」を考えるうえで押さえておきたい大切な視点があります。   

>それは個人が持つ「スキル」「ノウハウ」「能力」は、はたして「会社のもの」なのか、それとも「あくまでもその人個人のもの」か、という視点です。   

>ここが、これまでの従来型の経営と「人的資本経営」の本質的な違いとも言えます。   

>従来の日本企業は、少なからずそれらを「会社のものである」と捉えてきました。   

>会社が「スキル」「ノウハウ」「能力」獲得の機会を提供したのだから、当然、会社がコントロールできるものである、と。   

>たとえば、終身雇用や年功序列が色濃く残る会社であれば、「社員はなるべく辞めさせない。   

>離職率は低ければ低いほどいい。   

>できるだけ長い間、働いてもらいたい」と考えるかもしれません。   

>・そのために、会社の人事部や事業部トップが強い権力を持って社員のキャリアを設計していく   

>・新卒一括採用で入社してきた社員には、集合研修を通じた基礎教育を行う   

>・そして、まずは誰もが立場的に平等に「上」に昇進できる可能性を整える   

>・そのなかで、昇進試験などの画一的なプロセスを経て、その会社固有のノリやきつい業務やパワハラめいたことにさえ耐えてきた「出世コースに乗った人」が、「上」に昇進していく   

>・他方、本社にポストがないジェネラリストは、子会社へ転籍するか、名ばかりの管理職になる   

>・また、強い人事権を持った会社は、 5年ほど育成した社員に対し、「君、そろそろいい機会だから、地方で修業してこようか」などと呼びかけ、個人のキャリアを「うまいこと」動かしていく   

>このような人事戦略においては、「人的資本=個人」が持つスキルや能力は、「会社がコストをかけて与えるもの」であり、会社が自由にコントロールできる「会社の持ちもの」であると認識される傾向にありました。   

>また、多くの企業カルチャーは、「上」に忠実に従い、自分の意見を積極的に言うことはない「上意下達」を是としたものでした。   

 

そうですね。日本人には意思がありませんからね。上からの昇進、上からの賃上げ、上からの改革など何でも上からでしたね。受け身一方の社員は社畜の生活をしていました。      

 

>「失われた30年」に入り「キャリア自律」の考え方   

>ところが、時代が平成に入り、「失われた30年」に入っていきます。   

>さらに令和に入ると、不安定な将来を憂慮するビジネスパーソンたちは、「キャリアは自分でつくるもの」といった「キャリア自律」の考え方を持つようになります。   

>そうなると、もはや「ひとつの会社に入れば人生安泰」とは、ほとんどの人が思わなくなります。   

>一方で、会社側も、この状況に鈍感というわけではありません。   

>「われわれが身分を長期間にわたって保障してあげているのだから、社員はコントロールされて当然」「われわれの考えどおりにスキルを身につけさせ、異動させることができる」といった考えは、とうに通用しなくなっている。   

>それに気づいている人も少なくはないのですが、従業員個人が持つスキルやノウハウ、能力は「会社のもの」という前提で、人事・教育制度がずるずる運用されてきました。   

>また、 360度評価や1on1コーチングなどの新しい制度や方法論も導入されてきているものの、まだまだ「組織カルチャー」には旧態依然としたものが残っている、という企業も少なくないはずです。   

>はたして、このままでいいのでしょうか。   

>いま日本の経営は「昭和型の経営」から「人的資本経営」に変わるべきときを迎えています。   

>そこで重要になるのが「人的資本は『個人の持ちもの』である」という発想なのです。   

 

我が国にも個人主義が到来したのですね。   

 

>会社は個人の能力を「借りる」立場にある   

>人材のスキルやノウハウを「会社のもの」とするのではなく、あくまでもそれらは「個人のもの」であるという考えにシフトせよ、というマインドシフトにはポイントがあります。   

>それは、個人のスキルやノウハウを会社は「借りる」立場にあるのだという認識を持つことです。   

>会社は個人の持ちものである人的資本を「借りる」立場で、人材の能力について、企業は「レンタルしている」つもりでいろ、というわけです。   

>ここはとくに大切なところなので、理解の補助線を引かせてください。   

>慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授であった高橋俊介氏は、人的資本経営に言及した講演のなかで、次のようにわかりやすく解説しています(日本の人事部「HRカンファレンス2023─春─」講演レポート「『人的資本経営』とは何をすることなのか」)。   

>(会社にとって、人は)資産なのか、資本なのか。   

>実は重要なポイントです。   

>企業のバランスシートで言えば、資産(アセット)は左側にくるもので、資本(キャピタル)は右側にくるもの。   

>例えば、株主が投資してくれたお金は資本で、借り物です。   

>借り物を元手にビジネスを行うことで左側の資産が生まれ、企業の持ち物になります。   

>ですから、従業員を資本(借り物)として大切にするのか、資産(持ち物)として大切にするのかで、意味が大きく異なってきます。   

>すなわち、人的「資本」経営なのか、人的「資産」経営なのか、この違いを踏まえることが大切だということです。   

>改めて問います。   

>「資本」とは何でしょうか。   

>それは「利益を出すための元手」を指します。   

>資本は、株主などから調達するものです。   

>それは、いわば「借りもの」とも表現できるでしょう。   

>ほかから借りて、それを元手に経営をするわけです。   

>他人から「借りているもの」ですから、資本についてはもちろん、企業側の思いどおりにすべてをコントロールしていいということにはなりません。   

>一方の「資産」は、「金銭的な価値があり、換金可能な財産全体」のことを指します。   

>こちらは企業の「持ちもの」と言えるでしょう。   

>経営とは、「借りもののお金(=資本)」をもとに「企業の持ちものとなる財産(=資産)」を増やすこと、と言い換えることができます。   

>そんな経営において、人材をどう位置づけるべきでしょうか。   

>企業は「個人からスキルを借りる」という考え方   

>人材は「借りもの」とすべきか「持ちもの」とすべきか。   

>これからは「借りもの」とすべきだというのが私の主張です。  

 

そうですね。それが正当ですね。   

 

>人的資本、つまり個人のスキルやノウハウ、能力は、個人から企業が「借りているもの」だと考える。   

>借りものですから、やはり、それをすべて企業側の思いどおりにしていいということにはなりません。   

>活用するには、より大きな責任をともないます。   

>その一方で、活用次第で大きなリターンが得られる可能性も大いにあります。   

>これまでの日本企業の多くは、会社の都合で、会社の意向に沿うように人材を育て、育った能力を事業のために使ってきました。   

>ですが、これからは、そのような「個人の能力を『会社の意図に沿って』成長させる」経営から、「『個人の意思に沿って』成長を続ける個人の能力を会社が借りる」経営へとシフトすることが求められているのです。   

 

そうですね。個人の意思が大切ですね。しかし、日本人には意思がない。   

個人はリスキリング (再度職業訓練をほどこす事) が必要になりますね。   

 

過去の内容は変えることができないが、未来の内容は変えることができる。それには未来の内容を自己の意思として示すことが必要である。しかし、日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文の内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、その内容は構文もなく文にはならず、日本人には意思がない。 つまり、意味も無く無心である。ものを言ってもそれが行動には繋がらないから、結果的に ‘うそぶく’ 人ということになる。これが、相手に不信の念をいだかせる。考えがあり、その実現に強い意思を示すという手順がわが国人には存在しない。    

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないので仕方なく無為無策でいる。それで、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足しているから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)     

どうやら 我々は '指示待ち人間' として育成されていたようです。このやりかたに習熟すると、他人の受け売りと後追いの専門家になりますね。我が道を行く人にはなりませんね。未来を先取りしないから他人を唱道する人にはなれません。