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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

異文化の理解

2018-12-12 22:27:05 | 学問
>異文化の人間を理解するとき、よく自文化の考え方を押し付けるのではなく、相手の文化をまずは認めよう、というスタンスがとられることがあります。

ありますね。文化の多様性を認めることですね。

>しかしこれは、自文化の正しさを押し付けようとする、絶対主義に対抗するための相対主義に過ぎないように思います。

現実の内容は、ただ一つであります。
だがしかし、非現実 (考え) の内容は、無数にあります。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示しています。ですから、あえて自文化の正しさを他民族に押し付ける必要はないでしょう。

>世の中には、絶対的に正しいといえるような、普遍的なものは存在しないのだから、それぞれの文化の価値を認めましょうということなのでしょうか。

そうですね。日の下に新しきものなし。されど、人は自己の考えを改めることができる。だから、学問は限りなく進歩する。

>私も、以前はそういう相対主義的なスタンスがいいと思っていました。>しかし、よくよく考えてみると、そういう相対主義的なスタンスではまったく相手を理解することもできないし、受け入れることもできないのではと思うようになってきました。

相手を理解していないことを前提としての相対主義のことですね。それは、受け入れられないでしょうね。

>それは、相対主義とは、「人はそれぞれ」「自分は自分」「相手は相手」ということになってしまうからです。

それは、相互理解以前の相対主義のことですね。相互理解は必要ですね。没交渉の態度では、相手の文化を認めたことになりませんね。

>何か、様々な価値観の渦巻く世の中で、「対立を起こさないようにうまく生きていきましょう」という処世術の一つ、そんな気がします。

それは、無理解を前提としているからでしょう。様々な価値観の渦巻く世の中で、無理解に起因する対立は避けなくてはなりませんね。相互理解が大切ですね。理解への努力は、文化人類学の道に通じていますね。


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科学と空気

2018-12-07 04:11:02 | 学問

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(略)
>現代の日本社会には、「本音」、「建前」の他に「空気的事実に基づく」という方法があることが判ったのです。

日本人の空気 (雰囲気) に関する考察が進んだのですね。

>つまり「本音」というのがその人の本当の考えとすると、「建前」は社会の規則や表面上の言動で、建前というのは「本音」があって初めて成立するものです。

本音 (恣意) を実現するために、建前 (口実・言い訳) を使うのですね。

>それに対して「空気的事実」とは「本音がない」ことが前提、つまり自らの意見がなくて、その時その時に応じて周囲の空気を読み、それに応じて事実を創造してそれに基づいて話すことを指しています。

つまり、日本人が付和雷同することですね。

>たとえばリサイクルですと、「分別したもののほとんどは燃やしている」、「焼却をリサイクルに入れているのでリサイクル率が高い」ということをすべて知っているのに、「周囲の空気はまだリサイクルがよいということになっている」ということを読み、「リサイクル率は60%もある」などと言います。
>このとき、科学的事実(焼却を除くとリサイクル率は5%以下)ということを知っていても、空気的事実(リサイクル率は60%)と言うことになりますが、これは建前でもなく、空気的であっても事実ですから本音でもあるのです。

空気 (雰囲気) は日本人にとっての事実であり、本音 (恣意) でもあるのですね。恣意は、私意・我儘・身勝手なことですね。

>その人と面と向かって1時間も話せば、間違っていることが明らかになることでも、短い時間、テレビのスタジオのようの限定された場所では「何を言っても逃げ切れるから、空気で行こう」ということです。

気分・雰囲気に酔うことを得意としている人たちですね。何が何でもその場を逃げ切る達人たちですね。

>つまり私の相手をしていた人は「本音も建て前も無い人」だったのです。バカらしい!!

本音 (恣意) も建て前 (口実・言い訳) もない人たちだったのですね。議論にならない。歌詠みのようなものか。

>被曝限度もそうで、原発の事故直後、みんなが「被曝など大丈夫。法律はない」と言っている時には空気的事実は「法律はない」ということになりますし、1年も経ってどうやら法律は1年1ミリを基準にしていることが判ると、「法律にある」というのが空気的事実になるのです。

心情的なイメージが重んじられているのですね。

>実は、本人は1年20ミリでも1ミリでも0.1ミリ(ドイツ)でもなんでも良く、その時の空気だけで事実を決めているのです。

カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

>・・・・・・・・・
>このことに気がつくのが遅かったのは、科学者としての私は「事実」からスタートしますので、他の人も事実に立脚していると思ったのです。>またお医者さん、工場の人、営業、農業など「実業」をしている人も事実が最初です。

実学 (技術) 関係の人は、事実が最初でしょうね。

>でも、考えてみると「東京に住んでいる評論家」は「客観的事実」が事実ではなく「みんながそうだと思っていること=空気」が事実なのです。

事実が露見すると、彼らは ‘だって本当にそう思ったのだから、仕方がないではないか’ と言いますね。
彼らは、現実直視をしていない。忖度・推察をしているのである。鐘の声・蛙の声に耳を傾けるようなもので、自分勝手な解釈に耽っているのである。彼らは、伝統的な歌詠みである。

>だから、「空気に従う」ということは彼らにとって事実を重んじていることになります。

そうですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

>たとえば、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは「科学的事実」とは反しますが、「空気的事実」には合致しているのです。>だから、事実認識が違うことになります。>実に奇妙な時代になったものです。

わが国では、昔から事実は一つではなかったのですね。科学的事実と空気的事実の二本立てか。

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>以上です。


利己・利他・あるべき姿

2018-12-01 10:00:15 | 学問


>利己から利他へ、夢から志へ
>個人の夢や生きがいとしての仕事は、「自分の会社を作りたい」「家族を守りたい」など、自分の利益のための仕事です。>社会貢献としての仕事は、「困っている人を助けたい」「地域を元気にしたい」など、他者と社会の利益のための仕事です。>自分の利益の追求を「利己」、他者の利益の追求を「利他」といいます。>自分の夢や生きがいとしての仕事は「利己」、社会貢献としての仕事は「利他」です。

現実の世界は、利己・利他の綱引きですね。

>人間は、社会との関わり合いの中で充足感を得る社会的な生き物ですから、より多くの人の役に立ち、より大きな社会貢献ができるほど、働く喜びも大きくなります。
>「お金持ちになりたい」といった利己の行動だけでは大きな喜びは得られないでしょう。>夢もまた、自分のことだけを考えた利己的な夢では、たとえ実現できても大きな喜びは得られないでしょう。

そうでしょうね。

>最初は小さな夢、利己的な夢で構いません。

そうですね。子供の時は、皆が利己的ですね。危急存亡の折ですからね。

>ただ、そこから視点を上げていくことが大切です。>視野を広げて、自分の他に家族・友達・周囲の人々・地域の人々・社会・世界・地球……という具合に、より多くの他者を視界の中に入れていきましょう。

そうですね。世界観 (world view) を持ちましょう。’あるべき姿’ の世界には、利己・利他の相克は無い。

>そうして、社会貢献につながる利他の大きな夢を描きましょう。

未来社会の ‘あるべき姿’ を語りましょう。利己・利他の綱引きはやめましょう。

>利他の大きな夢が描けたとき、「夢」は「志」になります。

わが国には、何でも存在するが、ただ夢と希望だけがない。日本人は、脳裏に未来の内容が描けない。日本語には、非現実 (考え) の内容を持つ構文が存在しない。日本語文法には、時制というものがないからである。

>すなわち、「自分はこんなふうになりたい」という自分中心の夢から、「自分の人生を社会のためにこんなふうに捧げたい」という利他の志が生まれるのです。

‘自分は、どのような世界に住みたいか’ を考えるべきでしょう。世界観をもつことが大切でね。

>利己から利他へ。

‘あるべき姿’ は、’利己’ か ‘利他’ かではなくて、’win-win’ (どちらにも利益がある) の関係が理想 (あるべき姿) でしょうね。

>夢から志へ。

志とは、resolution (決心) のことですか。夢も志も、日本人のものは、その内容がはっきりしませんね。日本語には、未来時制の文章内容が存在しないからでしょう。

>職業という窓から社会を知り、世界を広げ、志を持った未来の自分を思い描いてください。

日本人には、世界観がない。世界観は、非現実 (考え) の内容です。
日本語の文章の内容には、現実 (事実) があって、非現実 (考え) がない。
現実は、見ることができるから ‘本当’ の事である。非現実は、見ることができないから、’嘘’ である。わが国においては、嘘を語る者は排斥され、事実を語る者だけが生き残る。日の下に新しきことなしで、無哲学・能天気の社会が実現している。
英語の文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章は、過去・現在・未来の (非現実の) 三世界を表すことができる。日本語文法には時制がないので、非現実の世界を表す世界観 (文章) はない。文章がなければ、話の筋を脳裏にとどめおくことはできない。だから、日本人は無哲学・能天気でいる。
非現実 (考え) の内容を語ることは、非常に重要なことである。
たとえば、恐竜時代には人は誰も生きてはいなかった。にもかかわらず、恐竜に関する事柄をこと細かに語る人物が出現する。日本人の見方によれば、彼は見てきたような嘘をついているのだ。このような人は、学者である。考えることの専門家である。哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) の称号を持っている。
ただ今の日本は、深刻な人手不足である。だが、頭脳不足という話は聞いたことがない。わが国では、仕事を頭脳労働よりも人手により補おうとしているのではないか。資源不足のわが国では、人はもっと頭を使うべきである。
そのためには、非現実 (考え) の内容を文章にする方法を習得しなくてはならない。非現実の内容の文章は、英語ならできる。時制を使った文章をつくればよい。だが、この作業は日本語ではできない。日本語には、時制がないからである。我々日本人に、英米流の高等教育が大切な所以はここにある。この点に焦点を合わせて勉学に励めば、我々の未来は必ず拓ける。

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記憶・創造

2018-11-19 05:30:19 | 学問


>論理は記憶の道具、記憶は創造の源泉
>米原:恐らく日本人がロジックが苦手になったのは、教育もあるけれども、紙が余りにも潤沢に手に入り過ぎたせいだと思います。

我々日本人の論理的でない原因を紙のせいにするのですか。

>糸井:おもしろいなぁ、その考えは。
>米原:結局ロジックって何かというと、私、通訳していてわかるんだけど、日本の学者はロジックが破綻しているのが多いんです。

日本人は文章にして話さないことが多いからでしょう。ばらばらな単語で話せば、言っていることに意味も矛盾もありませんね。わが国の話者は、聞き手の忖度 (推察) に大きな期待を掛けているのでしょうが、こうした態度では欧米の学者には通じないでしょうね。

>基本的には羅列型が多いんです。

そうでしょうね。わが国には、連歌の伝統もありますからね。

>それでヨーロッパの学者は非常に論理的なんです。>現実は、世の中そんなに論理的じゃないんですよ。

そうですね。現実と非現実 (考え) では内容が違いますからね。現実の内容は、頭の外にある。非現実の内容は、頭の中にある。両者は所在が違うから、内容も同じにはなりませんね。

>論理というのは何かというと、記憶力のための道具なんですよ。>物事を整理して、記憶しやすいようにするための道具。

そうかもしれませんね。筋の通った話は、頭にすっと入りやすいですね。乱数表のようなものは、暗記の材料には向いていませんね、

(略)
>ところが、紙が発達した国は書くから、書く場合には羅列で構わないんですよ。>耳から聞くときには論理的じゃないと入らないんです。>覚え切れないんです。

論理に関してあまり紙にこだわるのは、良くないですね。ペーパー (パピルス) は西洋のものですしね。昔からアレキサンドリア (エジプト) やペルガモン (トルコ) には、大きな図書館がありましたね。中国やわが国にも大きな国際的な図書館はあったのでしょうかね。

(略)


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白川英樹氏 1/2

2018-11-11 04:32:49 | 学問




>ノーベル化学賞(2000年)を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授は、科学や芸術などの学問を日本語で学び、考えることの大切さを説いている。

日本人には、日本語以外では科学や芸術の考えを発展させることは無理でしょうね。これにより日本人の良さを保ちます。

>「言語にはコミュニケーションの道具としてだけでなく、考えるための道具としての役割がある。人は母語で学ぶことによって、より核心に迫った理解ができる」と語る。

しかし、母語の文法に欠陥がある場合には、考える道具としても不自由することになるでしょう。

>日本人は古来、大陸の漢字文化を学び、江戸期以降は欧米の科学知識を意欲的に日本語に翻訳して学問体系をつくり上げてきた。

そうですね。わが国の文化は翻訳 (受け売り) によるものが主ですね。昔から、受け売りの励みには余念がありませんでしたね。

>現代の日本人が、世界の学問を容易に母語である日本語で学ぶことができるのは、先人たちによるこうした血のにじむような努力のおかげなのだ。

その通りですね。わが国は、他人の受け売りに成功した実例でしょうね。

>白川氏はノーベル賞を受賞後、「日本語で自然科学を学べる幸せ」についてずっと考え続けてきた。

そうですね。幸せですね。しかし、日本語にはそれ相当の難点もあるはずですよ。だから、英米人を頼らなくてはならないでしょう。

>日本人が日ごろ気付いていないこの恩恵は、歴史上どのようにして可能になったのか――昨今の英語教育早期化への見方なども含め、その思いを伺った。

日本語で学べる幸せが、日本人が海外留学を熱望しない原因になっているのではないでしょうか。日本語が便利すぎて、日本人は自己の蛸壺から抜け出いことが難しいのでしょう。日本人は、本職の移民にはなれないでしょうね。

>■意表突かれた質問、「なぜ日本にはノーベル賞受賞者が多いのか」
>――白川先生がこの問題への関心を深められるようになったきっかけは、ノーベル賞発表の際のある出来事だったとお聞きしました。
(略)
>その取材があらかた終わった後、香港の経済誌の特派員が帰り際に、「ところで」と1つ追加質問をしました。「欧米諸国に比べると、日本人の受賞者は少ないけれど、アジア諸国と比べると断然多い。それはなぜだと思うか」というものでした。

アジア諸国と欧米諸国とでは知的能力に差があって当然と考えられているのでしょうね。その根拠は何でしょうかね。

>意表を突かれた私は、とっさに「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えました。

それは、以前から日本人自身により指摘されている事実ですね。それで、日本人には海外に出て得られる生身の経験に乏しくなります。

>頭の中にあったのは、アジアではインド、シンガポール、マレーシアなどは英国の、ベトナムはフランスの、インドネシアはオランダの植民地になったことから、各国はそれぞれの旧宗主国の言葉を使って学校教育をしているということでした。
>つまり学ぶための言語と、ふだん生活で使う言語(母語)が違う。

それは、そうですね。だから、昔から外国留学の長所が認められているのでしょう。英米人でも高等教育を受けていない者は、アジア人と似たような状態に置かれているはずですよ。

>この2つの言語は本来、学問を究める上で別々であっていいはずがないのです。

英米では、高等教育を受けた者とそうでないものでは、話し方が違いますね。ですから、彼らは高等教育の普及を特に重要視しているのでしょう。

>日本は欧米の植民地にされずにすみましたから、母語で学問ができるアジアでは珍しい国なのです。

そうですね。しかし、わが国においては、教育を受けた者とそうでないものとの話し方に顕著な差はないですね。
大学の四年間を遊んで暮らしたためなのでしょうね。わが国の高等教育は、日本語の再教育を目的にしていませんね。つまり、大人になるための国語の勉強が存在しないのでしょう。だから、退屈男・退屈女が一杯できます。

(略)
>■「教科書は英語、日常生活は母語」というアジアの高校生
(略)
>高校生に「あなたの国では物理・数学・化学を何語で習っていますか?」と聞くと、インドの高校生は「教科書も先生の講義も英語です。>でも、ふだん友達や家族とはヒンズー語で話します」と言います。>学問のための言語と生活のための言語が別々なのです。>マレーシアもシンガポールもブルネイなどもそうでした。

野球をするときには、野球用語を使うようなものでしょうね。この言語の使い方はコミュニケーションの道具としてであって、考えるための道具としての役割を果たしていませんね。

>しかし、生活に立脚した言語ではなく学問のための言語で、新しい学問を創造することができるのだろうか。>ただ浅く理解するだけで終わってしまうのではないか、と疑問に思いました。

そうですね。浅く理解するだけでは、無哲学・能天気の人間になりますね。教養のない英米人のようなものでしょう。
英米人の場合、高等教育を受けた人とそうでない人の話し方は違いますね。高等教育を受けた人は、英語の再教育を受けた人であるという感じがします。英米流の高等教育は、大人になるための教育でしょう。

>科学や芸術を創造し実践するということは、生活と一体化した行為なのではないでしょうか。

非現実 (考え) の内容を現実の中で実現に成功すれば、それは創造力を発揮したことになります。考えは、人ぞれぞれ違いますからね。個性の表現であれば、科学・芸術の創造に応じたことになります。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣になります。受け売り文化 (模倣文化) は没個性の過酷な激しい競争を展開することになります。この状態は、特亜三国 (日本・中国・韓国) に著しく見られます。

>――先生は米ペンシルバニア大学で1年間研究生活を送られ、その間に受賞対象になった研究成果を上げておられますが、思考する時はやはり日本語だったのですか。
>白川 会話は当然、英語ですが、その内容は頭の中で日本語に翻訳していました。話したことを日本語で覚えているのに、英語のセンテンスは覚えていないという奇妙な経験をしました。

それは、普通にある経験でしょうね。人は、一番重宝している言語で脳裏に考え (非現実) をまとめるのでしよう。

>バイリンガルでない人は、どうしても無意識に翻訳というひと手間かけて母語で考えているのだと思います。

何か国語話せても、結果は同じになるでしょうね。


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