>教育条件も日本は経済力からみて非常に劣悪です。
> 欧米では小中学校は1クラス20~30人なのに、日本では35人学級すらいまだに完全実施していません。35人学級は関係者の一致した要求で、民主党政権時代に国会の全会一致で順次実施することが決められました。>安倍政権はこれに背を向け、文部科学省は35人学級推進の予算を17年度の概算要求に 盛り込むことさえ3年連続でやめてしまいました。>ゆきとどいた教育を願う国民の声に真っ向から反しています。
安倍政権は、行き届いた教育の追求には、興味がないのでしょうね。だから、成し遂げるべき使命感が湧いてこない。教育は序列順位の争いのための単なる手段であって、国民が平等でありさえすればお相子さまです。教育条件の優劣にかかわらず、序列順位は定めることができますので、現政権は心配をしてないのでしょう。教育は、序列人間の製造過程というものか。
日本人は、無哲学・能天気であって、哲学・非現実には縁がない。
非現実の内容を主張する者に対しては、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’と言って現実肯定主義者は反撃する。天下の真理を述べているつもりになっているのかもしれない。
理想・非現実の主張に対しては‘そんなものは、夢物語だ’ともいう。
意思のあるところに方法がある。日本人には意思がない。意思がなければ、夢の実現は他力本願・神頼みじゃ。
日本人と西洋人では、夢に対する価値観が違う。
日本人の夢は見ることはできても、触れることのできないもの。はかないもの・当てにならないものである。夢の内容は、実況放送・現状報告とはならない。だから、日本人は夢に対して否定的である。その内容を日本語で語ろうとすれば、空想・妄想となる。
西洋人の夢は哲学である。希望の源である。夢は脳裏に存在する。非現実の文章内容として存在する。だから、肯定的である。
日本人にとって学問とは実学 (技術) である。’実社会に出なくてはダメだ’ という。無哲学・能天気の日本人は実学を励んで技術立国の道を歩んだ。この世では実現されることは無くても、正しい考え方というものは存在するものだという考えはない。
日本の国は天皇制 (序列制)、日本人は天皇製 (序列人間) である。序列があれば、問答無用。後は裁量でやらせてもらう。上意下達で恣意がはびこる。説明責任など、取れるものではない。
日本の礼儀は序列作法、礼儀正しい日本人は序列人間である。序列は社会生活を通して我々の強迫観念となっている。
‘All men are created equal.’ (全ての人は平等に作られている) と T. Jefferson が言えば、それはphilosophical (哲学的) である。非現実・理想で、高尚である。
Emperor Hirohito が ‘The war situation has developed not necessarily to Japan’s advantage.’ (戦局必ずしも好転せず) と言っても、philosophical ではない。現実・事実であり、高尚ではない。
‘見栄と外聞’ は、日本人の判断基準である。日本人論である。
自己 (内) に基準 (哲学) が無いから、外 (現実) に基準を求める。実況放送・現状報告の内容が基準となる。これを ‘見栄と外聞’ という。他人の考えを聞いても、自分の考えを述べない。あるべき姿を持たないからである。気分・雰囲気についてなら述べる。だが、文章にはならない。歌詠みのようなものか。小言・片言・独り言なら表現できる。だが、文章が無くては論理体系ができない。過不足ない世界を表現させる手段がなくて、空想・妄想・雑念の類になる。ああ、むなしい。
頭の中に基準を置くか。頭の外に基準を置くかである。哲学の内容は、自分の頭の中にある。が、残念ながら無哲学・能天気の日本人にはない。見栄と外聞の内容は、頭の外にある。哲学の内容は非現実、見栄と外聞の内容は現実である。見栄と外聞を丹念に集めれば、日本人論になる。自分に意見を求められても困る。’ああでもなければ、こうでもない’ と知識の多さを披露する。これは詰め込み教育の成果であるか。
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> 欧米では小中学校は1クラス20~30人なのに、日本では35人学級すらいまだに完全実施していません。35人学級は関係者の一致した要求で、民主党政権時代に国会の全会一致で順次実施することが決められました。>安倍政権はこれに背を向け、文部科学省は35人学級推進の予算を17年度の概算要求に 盛り込むことさえ3年連続でやめてしまいました。>ゆきとどいた教育を願う国民の声に真っ向から反しています。
安倍政権は、行き届いた教育の追求には、興味がないのでしょうね。だから、成し遂げるべき使命感が湧いてこない。教育は序列順位の争いのための単なる手段であって、国民が平等でありさえすればお相子さまです。教育条件の優劣にかかわらず、序列順位は定めることができますので、現政権は心配をしてないのでしょう。教育は、序列人間の製造過程というものか。
日本人は、無哲学・能天気であって、哲学・非現実には縁がない。
非現実の内容を主張する者に対しては、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’と言って現実肯定主義者は反撃する。天下の真理を述べているつもりになっているのかもしれない。
理想・非現実の主張に対しては‘そんなものは、夢物語だ’ともいう。
意思のあるところに方法がある。日本人には意思がない。意思がなければ、夢の実現は他力本願・神頼みじゃ。
日本人と西洋人では、夢に対する価値観が違う。
日本人の夢は見ることはできても、触れることのできないもの。はかないもの・当てにならないものである。夢の内容は、実況放送・現状報告とはならない。だから、日本人は夢に対して否定的である。その内容を日本語で語ろうとすれば、空想・妄想となる。
西洋人の夢は哲学である。希望の源である。夢は脳裏に存在する。非現実の文章内容として存在する。だから、肯定的である。
日本人にとって学問とは実学 (技術) である。’実社会に出なくてはダメだ’ という。無哲学・能天気の日本人は実学を励んで技術立国の道を歩んだ。この世では実現されることは無くても、正しい考え方というものは存在するものだという考えはない。
日本の国は天皇制 (序列制)、日本人は天皇製 (序列人間) である。序列があれば、問答無用。後は裁量でやらせてもらう。上意下達で恣意がはびこる。説明責任など、取れるものではない。
日本の礼儀は序列作法、礼儀正しい日本人は序列人間である。序列は社会生活を通して我々の強迫観念となっている。
‘All men are created equal.’ (全ての人は平等に作られている) と T. Jefferson が言えば、それはphilosophical (哲学的) である。非現実・理想で、高尚である。
Emperor Hirohito が ‘The war situation has developed not necessarily to Japan’s advantage.’ (戦局必ずしも好転せず) と言っても、philosophical ではない。現実・事実であり、高尚ではない。
‘見栄と外聞’ は、日本人の判断基準である。日本人論である。
自己 (内) に基準 (哲学) が無いから、外 (現実) に基準を求める。実況放送・現状報告の内容が基準となる。これを ‘見栄と外聞’ という。他人の考えを聞いても、自分の考えを述べない。あるべき姿を持たないからである。気分・雰囲気についてなら述べる。だが、文章にはならない。歌詠みのようなものか。小言・片言・独り言なら表現できる。だが、文章が無くては論理体系ができない。過不足ない世界を表現させる手段がなくて、空想・妄想・雑念の類になる。ああ、むなしい。
頭の中に基準を置くか。頭の外に基準を置くかである。哲学の内容は、自分の頭の中にある。が、残念ながら無哲学・能天気の日本人にはない。見栄と外聞の内容は、頭の外にある。哲学の内容は非現実、見栄と外聞の内容は現実である。見栄と外聞を丹念に集めれば、日本人論になる。自分に意見を求められても困る。’ああでもなければ、こうでもない’ と知識の多さを披露する。これは詰め込み教育の成果であるか。
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