>既存の学校教育では教師の進める授業をなぞるだけという暗記が殆どだと思いますが、その結果増える人間は言われたことだけに従うロボット人間です。
同感です。学校教育は ‘なぞるだけの暗記’ と ‘ロボット人間’ ですね。
>勿論、言われたことに忠実に従うことが全て悪いことだと言うのではありません。
その通りです。特に初等教育ではね。
>状況を自分自身で把握し、自ら考えて動くと言うプラスアルファの素養が欠けた人間が育ちやすいということです。
日本人には意思がない。だから、能動的態度が取れない。それで、主体性がない。
>・・・・・・・・・・、とにかく私が今思うにはこうした主体性の無さというのは学校の授業や基本方針が長年染み付いているからこそだと感じます。
アメリカ人のように ’Independent!’ (自主性がある.) といった褒め言葉はないですね。さりとて、恣意 (私意・我がまま・身勝手) は固く禁じられている。’不自由を常と思えば不足なし’ ということになっている。だから、労働も滅私奉公になりがちである。
>教師という支配者が決めたとおりに動く事だけが善とされ、命令されたことと違うことをする人を悪とする風潮が学校では今も根強いはずです。
正解はただ一つに定められている。教師という支配者がそれを持っている。そして、上意下達する訓練に明け暮れている。
>そして正解至上主義で間違うことが一方的に悪いことだとみなされるので、失敗を前向きに捉えて次に生かすにはどうすればいいのかという発想自体が非常に希薄なのです。
正解は、教師という支配者が握っている。生徒は、それを教えとして乞う受動的態度に終始する。
意思のあるところに方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way.) 意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だが、英語にはある。だから、日本人には解決方法を発想する知力に乏しい。
>そうした命令に従うことだけを強制され続けた結果育つ人間というのが、失敗に過敏になり指示されたことに従うだけで自分から色々と考えることが出来ない人間ではないでしょうか。
同感です。生徒にあるのは罰を受けたときの被害者意識だけ。これは、アニマルも同じです。アニマルは調教により、訓練するしか方法がない。我々は、そうはなりたくないですね。
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同感です。学校教育は ‘なぞるだけの暗記’ と ‘ロボット人間’ ですね。
>勿論、言われたことに忠実に従うことが全て悪いことだと言うのではありません。
その通りです。特に初等教育ではね。
>状況を自分自身で把握し、自ら考えて動くと言うプラスアルファの素養が欠けた人間が育ちやすいということです。
日本人には意思がない。だから、能動的態度が取れない。それで、主体性がない。
>・・・・・・・・・・、とにかく私が今思うにはこうした主体性の無さというのは学校の授業や基本方針が長年染み付いているからこそだと感じます。
アメリカ人のように ’Independent!’ (自主性がある.) といった褒め言葉はないですね。さりとて、恣意 (私意・我がまま・身勝手) は固く禁じられている。’不自由を常と思えば不足なし’ ということになっている。だから、労働も滅私奉公になりがちである。
>教師という支配者が決めたとおりに動く事だけが善とされ、命令されたことと違うことをする人を悪とする風潮が学校では今も根強いはずです。
正解はただ一つに定められている。教師という支配者がそれを持っている。そして、上意下達する訓練に明け暮れている。
>そして正解至上主義で間違うことが一方的に悪いことだとみなされるので、失敗を前向きに捉えて次に生かすにはどうすればいいのかという発想自体が非常に希薄なのです。
正解は、教師という支配者が握っている。生徒は、それを教えとして乞う受動的態度に終始する。
意思のあるところに方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way.) 意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だが、英語にはある。だから、日本人には解決方法を発想する知力に乏しい。
>そうした命令に従うことだけを強制され続けた結果育つ人間というのが、失敗に過敏になり指示されたことに従うだけで自分から色々と考えることが出来ない人間ではないでしょうか。
同感です。生徒にあるのは罰を受けたときの被害者意識だけ。これは、アニマルも同じです。アニマルは調教により、訓練するしか方法がない。我々は、そうはなりたくないですね。
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