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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

吉国幹雄氏 2/2

2019-10-03 15:34:16 | 日本語脳

>これが欧米人に言わせると「無口」「無愛想」ということなのだが、実は心が通っていないから(本源性が解体しているから)いちいち言語化しないといけない欧米人なのである。

そうですね。言語は、思考と伝達の手段ですからね。欧米人は、低文脈文化の国々住んでいますから正しい言語が必要ですね。 

>⇒もっともこれは、深い共認(その多くは規範)関係の成立を前提にしているので、この規範がガタガタの現代において、一語文で済まそうというのは無理があるか…

そうですね。一語文は、非言語ですね。

>ただ、相手が一語文で発話したときにそれは何も不精なのではなく、信認関係を前提にして発話していると捉えた方がいいのではないか。

そうですね。それは、アニマルにも通じる習慣ですね。

>聞き直すことで改めて共認関係が強まるだろうから、それをいちいち言いなおさせる必要もないだろう。

言語は、思考と伝達の手段ですね。全ての考えは、文章になりますね。文章にならないものは、考えではないですね。

> 「お茶!」「お茶?」「そうお茶。」というのはあまりにも淋しい言語生活のようで、潜在レベルでは同化が始まっていると考えて。

それは、なあなあ主義ですね。

>(もちろん、答え=構造認識を言語化しないということでは決してない)
>●題目の「は」
> 「ぼくはうなぎだ」(うなぎ文)や「象は鼻が長い」、などの「は」の文法的な解釈を巡っては国語学者の間では今でも喧喧諤諤の議論のあるところ。>詳しい文法的な解釈は国語学者達に委ねるとして、ここでは「は」の持つはたらきに注目したい。>我々は無意識に「が」「は」を使い分けているが、「は」の用法は他国語には見られないものである。> (参考『日本語はどんな言語か』小池清治、筑摩書房)

そうでしょうね。
日本語の ‘私 “は”、ジョン・スミスです。’ は、英語の (I am John Smith.) ですね。
‘私 “が”、ジョン・スミスです。’ は、英語では、アクセントの位置の違いにより表されるのでしょう。(I am John Smith.) 

> 小池は「は」の文を「題説構文」と呼び、「は」の前を題目部、「は」の後を解説部とする。>「桜は 春の花だ」を言い換えると、「桜の花は何かといえば、それは春の花だ。」となる。>「桜は」は問いであり、「春の花だ」は答えなのである。

要するに、[桜=春の花] ということですね。

>「桜は」の御題提示は多義的であり、その答え「が」のように発話者の行為(叙述)に引きずられない。> 「桜が」と言われると聞き手は沈黙して述語を聞くしかないが、「桜は」と言われると、聞き手もその答えに参加できる。

そうですね。考えの内容は、人それぞれですからね。

>つまり、大和構文の場合には一文を二人で掛け合って完成させることが可能であり、日常的にも容易に行われる。

日本語の文法には人称 (person) がないから、作文に人称にかかわる混乱は生じないのでしょうね。

>例えば、「恋愛が長続きしないのはなんで?」は、「恋愛が長続きしないのは」でも十分であり、これを「恋愛が長続きしない」であれば主張にすぎなくなる。
> 「桜は」「八分咲きというところだったわ」「道路は」「ひどい渋滞だった」
> 日本人はこのようにしてまどろっこしいようで、実は相手と掛け合いながら一文を作り上げ、豊かな対話(まさに共認言語)を成立させているのである。

それでは、個人の考え (非現実) が浮き彫りになりませんね。実況放送・現状報告の内容 (現実) しか、文章にできないでしょうね。日本人の話は、事の次第につきますね。

>⇒ただちに、「が」でなく「は」を使えといっても状況や文脈によって無理な場合があるだろうが、例えば「恋愛は」「あなたは」という類のお題を露店に用意しても面白いかもしれない。

それは、歌詠みになりますね。

>あるいは、というように、共認形成上「は」で切ってマをとるというのも相手の参加を促す手法になるかもしれない。>あるいは、二人または複数で実際に掛け合ってみるのも面白いかもしれない。

連歌のようなものかな。考え (非現実) の内容ではないので、議論の対象にはなりませんね。


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吉国幹雄氏 1/2

2019-10-03 14:30:30 | 日本語文法

>78548 次代に繋がる言葉の用法、
>吉国幹雄 ( 52 講師 ) 04/09/28 PM10 【印刷用へ】
(略)
> 日本語の用法の特徴は三つある。
>●言語中心 ●一語文 ●題目の「は」
>まず、前者の二つについて
>●述語中心
> 「日本語の特徴(16269)」にもあるように、西洋言語が主語中心の文脈であるのに比して、日本語の文はしばしば主語が省略される。

そうですね。日本語は、高文脈文化 (high context culture) の言語ですからね。

>主語が発話者であったり、文脈から予想されるのなら主語は不要である。>本源社会の日本人にとっておそらく必要な共認内容は行為そのもの(どうする)にあるのであって、元来「誰が」に力点はない。

そうですね。日本語・日本人には、個人主義の理解が行き届いていませんね。

>大主語(行為の主体)は「みんな」なのだろうから。

‘世の中は、、、、’ という発想法のようですね。

>⇒匿名社会(名ナシ・顔ナシ)をこじ開ける転換期には明確な主語は必要とされる場合も多いだろうが、少なくとも共認充足の場では発話者の主語など使わないほうがいいだろう。

困ったものですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>●一語文
>かつて「サンゴ族」と称された人々がいた。 >仕事で疲れて帰宅するや「お茶!(または酒!)」、次に「めし!」、食事を済ませると「風呂!」と宣言し、入浴が終わると翌日に備えて就寝。

‘サンゴ’ とは、’茶 (酒)・飯・風呂’ の三語のことですね。

> 今時、こんな旦那達は稀有の存在となっているが、何も新社会において奨励する気は毛頭ない。>ただ、よく耳にすることだが現在、「お茶!」というのは息子娘達で、そのたびに「お茶がどうしたの? 人にものを頼むならちゃんと言いなさい!」と嘆き指導するのが世の中の主婦達(場合によっては主夫達)のよう… >「お茶!」「お茶。」「お茶?」「お茶…」 > 上記はちゃんとした文の構造を呈している。

そうではないでしょう。文 (sentence) には、主部 (subject) と述部 (predicate) が必要ですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えの内容は、人様々である。だから、正解も無数にある。

>日本語では一語文は幼児だけのものではなかった。>子供も大人も頻繁に使う文型である。 >日本人は生まれたときから死ぬときまで日常的に一語文を使いつづける世界でも特徴的な民族だそうな。

そうでしょうね。わが国は、高文脈文化 (high context culture) の国ですからね。

> 一語文は共認関係(期待・応合関係)なしでは成立しない。>潜在思念や深層部分(期待)を、表層的な一語発話から聞き手は言語化されない文脈をわかっているからこそ応合できる。

それは、忖度 (推察) によるものですね。聞き手の勝手な解釈ですね。現実直視になっていないでね。これでは、議論にならないですね。

>阿吽の呼吸とは何も夫婦間の話ではなく、日本人はもともと備えているものなのだろう。

そうですね。日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。だが、日本人には、恣意がある。
意思は文章になる。だから、意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するから、文章にならない。だから、意味がない。
英文法には、時制がある。だから、英米人には、意思がある。意思には意味があるから、議論の対象になる。意思疎通も可能である。相手の理解が得られる。相手との連帯感ができる。
日本語文法には、時制がない。日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意 (self-will) には意味がないから、議論の対象にならない。相手の理解が得られない。相手との間に疎外感ができる。意思疎通はないが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意思決定 (理性判断) はないが、恣意決定 (盲目の判断) がある。これは、非常に危険なことである。リーズン (理性・理由・適当) が無いので、説明責任が取れない。兎角、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。
自由とは、意思の自由のことである。欧米人は、自由を求めている。だが、恣意の自由は、認められない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ として、禁止されている。だから、わが国においては、’不自由を常と思えば不足なし’ が現在においても通用している。