>OTONA SALONE >中学で学年トップ→日比谷高校→東大。「やっぱりみんな頭いいんだ」生粋の秀才の胸の内は >OTONA SALONEの意見‣ >22時間・
>さんきゅう倉田です。
>日本大学の附属の高校から日本大学理工学部に進学し、建築を学んで東京国税局に入り、法人の税務調査などを少しやって退職し、芸人になりました。
>昨年から東京大学に通い始め、現在2年生です。
(略)
>英語に強い日比谷高校
>日比谷高校では、2年の11月に文系と理系に分かれます。
>それまではすべての生徒が生物も物理も化学も地学も世界史も日本史も地理も勉強しているため、学び始めが遅い科目では中高一貫校に遅れをとってしまうこともあるようです。
>しかし、英語では負けていません。
>日比谷の英語の授業は、①教科書の読解②プレゼン③英語表現の3つに分けられ、アイデアの発表や質問、グループディスカッションなどの機会があり、英語で話す力が常に求められていて、英語力は私立の上位校に遅れを取っていません。
>ぼくが高校の頃は授業中に他の生徒と話す機会などありませんでした。
>クラスメイトの意見を聞くことはなかったし、知識を共有することもなかったし、授業の予習や復習をすることもなかった。
>ましてや英語で会話をしたことなんてありません。
>日比谷高校特有のカリキュラムが、彼らの英語力を伸ばすのかもしれません。
>今回取材に応じてくれた東大の先輩以外にも日比谷高校出身の友人がいます。
>彼女の作ったプレゼン資料を見たときに、ぼくは心を揺さぶられました。
>その資料は外資系コンサルが持つような巧みさとは異なるアプローチで、具体的には20歳前後の学生の内面から滲み出た可愛さによって洗練されていて、「どうしてこんなに上手なの?高校でプレゼン資料を作った経験があるの?」と聞かずにはいられないほどでした。
>日比谷の英語の授業が生徒の多様な能力を伸ばしていると感じる資料でした。
>私立専願は珍しい
>日比谷高校では、学期の始まりや終わり、模試の結果が発表された後に集会が行われます。
>「学年集会では頻繁に東大の話をされる」
>模試の科目ごとに先生の話を聞き、開成高校などの結果と比較されるそうです。
>しかし、ここで西や国立など他の都立校の話が出ることはありません。
>東大進学率の高い私立校と常に比較され、東大進学を推奨する校風に晒されることで、「東大合格」という気概が醸成され、私立専願で受験勉強をする生徒は少数派になります。
>「私立専願と聞くとびっくりする。
>それくらい珍しい」
>放課後の講演会やワークショップ
>日比谷高校では、授業以外にも学びがあります。
>例えば、医学部専門塾の先生が出入りしていて放課後に数学の授業をしているとか、OB・OGの外交官や野村総研の人が来て話をしたり、オードリー・タンがオンライン講演をしたりするそうです。
>あのオードリー・タンが日本の一高校で講演をすることに驚きました。
>しかし、そのような素晴らしい行事であっても学校から積極的にアナウンスがあるわけではなく、生徒が自分で掲示板を見て情報を集めます。
>例え留学制度があっても先生は知らせてくれません。
>そのため社会に出る前から積極的に情報を集める姿勢や情報が集まってくるネットワークが大切であると学びます。
>各教室には前、横、後ろに3つの黒板があり、後ろの黒板はこのようなお知らせの張り紙で埋め尽くさています。
>横の黒板では休み時間に、生徒が思いついた数学の美しい解法を書くなどの使い方をするそうです。
>どうしてもぼくの高校の頃と比較してしまうんですが、黒板を生徒が使うことなんてなかったし、稀にぼくが黒板を使って授業の振り返りをしても関心を持つ生徒はいませんでした。
>勉強に関心がある仲間がいる環境を羨ましく思います。
神は死んだ。もはや我々は上からの指導を必要としない。我々は、自分自身の指導者でなくてはならない。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.
英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに言語能力の発達する頃を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。
日本語は現実の内容だけを表す言語である。哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実ばかりの言葉 (日本語) を話す人が非現実の内容を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っていては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。それで日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国の有権者はあらかた高等教育の真価を体得していない。だから高等教育の無償化は国民の総意が得られない。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗し続けているので、何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制の下にある。個人の哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。彼等の出世は高等教育の賜物である。
当の日本人の若者はいまもなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。これは日本語文法に階称 (hierarchy) がある為である。’上と見るか・下と見るか’ の判断に囚われざるを得ない。 難関出身者が序列社会でどれほど優位に立つているかの話ばかりで持切りである。それで入試地獄が存在する。世界に関する注意力の不足で日本人は井の中の蛙になっている。国際社会で印欧語族の知識人を相手にして苦戦を強いられることになる。
グリム童話に ‘オオカミと七ひきの子ヤギ’ という話がある。
オオカミは大人であるが、子ヤギは子供である。
大人には現実 (事実) と非現実 (考え) の内容がある。子供には現実だけがある。日本人も現実だけがある。
子ヤギは現実の内容を調べて、オオカミが自分達の母親であるかどうかを判断しようとしている。
オオカミは、現実の内容を誤魔化して、非現実の目的を達成しようとしている。つまり、子ヤギたちを食べることを考えている。
オオカミは、白い手ときれいな声を出してかれらの母であると言い、ドアを開けさせる。
ドアを開けるとオオカミが小屋に入って来て子ヤギを食べるという話である。オオカミは非現実の内容をついに実現したのである。
賢い人は ‘純粋によく観察する’ が、そうでない人は ‘自分の期待したもの’ しか見ようとしない。子どもには非現実の推察まではできない。だから子供は現実を信じるしかない。日本人も現実しかない。
グリム童話はドイツ人の童話である。桃太郎や金太郎の内容とは次元が違う。
1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結され、平沼総理大臣は8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した。
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。公文書のフリガナを ‘振りローマ字’ に変えるだけでも、それ相当の進歩に成りますね。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。
'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
日本人は思考を停止している。それで、自分自身の意見を持たない。マスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら情報を流しても、それが社会の木鐸 (世人を教え導く人) の役割を果すことはない。 ‘
‘それがどうした、それでどうした’ の問いに答えが出せない。我々日本人は自分自身の見解を述べる訓練をしてこなかった。だから日本人は個人として価値が低い。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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