>「○○さんらしさ」という言葉は確かによく聞きますね。
そうですね。
>しかしそれは現代教育の中でことさら「個性」を尊重する個人主義の影響だと思います。
そうでしょうかね。
>その点は、「“個性”第一は生命原理に反している」(194853)を参照していただけると、分かりやすいと思います。> 「らしさ」とは、他人(若しくは自分)が勝手にその人のイメージを作り上げた固定観念だと思うし、その点は八幡さんの元上司の方の意見にまったく同感です。
‘らしさ’ は、個人的な勝手な解釈ですね。趣味には、論拠がない。There is no accounting for taste. 議論にならない。
> 追求すべきは自分のあるべき「らしさ(≒個性)」ではなく、「如何にして相手に喜んでもらえるか」ではないでしょうか。
追及すべきは、私は、自分自身の ’あるべき姿’ の内容だと思いますね。
相手次第の内容では、自分がいくらあっても足りません。人人により、考えは違いますからね。
>例えば、おとなしい人がいつも人にあれこれかまって貰わずそっとしてもらうのが嬉しいとは限りません。
それは、そうですね。
>相手を注視し、相手に同化し、なぜその人は普段一人でいることが多いのかとか、わがままなのはなんでなんだろうとか、痴呆症になるのはなぜなんだろうとか、根本的なところの原因に迫るよう追求してゆけば、かならず相手に充足してもらう為の答えが見つかるのではないでしょうか。
相手の満足は、考えなくてもよいでしょう。なにしろ、相手は無数ですからね。
>そこには同化すべき相手(=対象)がいるだけで、こうあるべき「自分」は必要ありません。
不特定多数の人間を相手にしていては、とりとめがないですね。こうあるべき自分が提示できなければ、つかみどころのない人間になってしまいます。民信無くば立たず。
>八幡さんの場合、事例で出されたように、よくみんなに向かって「元気ですか~」と言うのは、無意識のうちに場を明るく元気にしようとの思いからでてくる行動だと思います。
気分・雰囲気の問題ですね。
>そのように、どうしたらみんなを充足させられるだろうかという思いを常に持たれているぐらいなので、もっとまっしぐらに、根本原因に向かって追求してゆけば、今までのように観念的な迷いに嵌らず、高い成果を出せると思います。
観念は、考えですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) 内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章内容を理解しなければならない。考えなければならない。だから、人間は、考える人になる。
気分・雰囲気に自分の神経を集中するか、理詰めの議論に集中するかで、その人・その国の運命が決まる。だから、この集中力の方向の選択は、非常に重要であります。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを以下のように指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
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