> 普通であるという事に自信を持たせるのは、大変に難しい。
そうですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
>しかし、普通、平凡な人は、平衡感覚が優れていることを意味し、重要な役割を果たしている。 >思考で重要なのは、平衡感覚である。 >平凡や普通を求めるのは、当然のことなのである。
そうですね。それは、中庸 (the middle of the road) の徳というものでしょうね。
> 個性、個性と、個性を重視し、その個性が独創性に基づいて説明され、更に、独創性という事が、人と違うことだという風に結びつけられると、人は、自分が周囲の人と同じ行動や発言をする事に居心地の悪さ、不快感を持つようになる。 >その上、恥をかかされたり、罰せられたりすると、人と同じ行動をすることは悪い事だと思いこむようになる。
反対の為の反対をすることになるのですかね。
>個性的と繰り返し言われ、それを不快な感情に結びつけられると、人間は、その行動を回避する判断を下すようになる。 >そして、個性は、自主的に意図して出すものだと教え込まれると、意識して人と違うことをしようとするようになる。
それは天邪鬼 (あまのじゃく) ですかね。
>この様にして、論理の道筋はつけられていく。 >しかし、その原因は、論理の道筋を辿るだけでは理解できないのである。
どうも、そのようですね。
> 大体、個性というのは、人と変わったことやることを指すのではない。 >その人が、もって生まれた属性である。 >故に、意図的に、意識的に出そうとして出せるものではない。 >その人が平凡であれば、平凡であることが個性なのである。
そうですね。
>そのような、人間が、意識的に人と違うことをしようとすれば、本来の個性という意味とは、違うから、必然的に常に満たされない感情を持ち続けることになる。
そういう事になりますね。わざとらしい自分に嫌気がさしますね。
>言葉による教育・動作による教育①の続きです。
> 幼児教育をする際、暴力はいけないといって、理由の如何を問わず、暴力をふるった側のみをしかる事が教育であろうか。 >それは、暴力が振るわれた状況や背景に対する考察に欠けている。 >その状況を無視した瞬間、教育を放棄したのである。 >犯罪は、ただ取り締まればなくなるというのに似ている。>仮に暴力を振るわれた側が、暴力をふるった子の玩具を取り上げたり、壊していた場合はどうなるのか。>暴力をふるった事のみで物を奪ったり、壊した者の行為が不問にされれば、子供は、人の物を奪ったり、壊したことは認められたと錯覚するであろう。
そうですね。
>また、暴力をふるわなくても泣いただけで同じ効果が得られたとしたら、子供は、泣くことだけで自分の行為を正当化するであろう。> 泣かれることを怖れて、自分の権利や正義を譲ることになりかねない。
残念な結果ですね。
>それはいじめである。 >それも陰湿ないじめである。 >ある意味で、先生が作り出したいじめである。
‘いじめ’ ということになりますかね。
>それで、一時的に表面は、納まったように見えても、抑圧された感情は、捌け口を求めることになる。>それによって感情や価値観は、歪められかねない。
そういうことは、有りますね。
> 子供にも、子供なりの自尊心や言い分がある。 >それを無視して、ただ暴力反対という理念だけで子供達の行動を規制すれば、子供達の正しい発育は期待できない。
そうですね。子供達は、理由なき反抗に出るでしょうね。暴力反対という徳目の暗唱だけでは、問題の解決には至りませんね。
>価値観や行動規範は、その置かれている状況によって左右されることを忘れてはならない。
そうですね。状況内容の分析と解決に結びつく結論が必要ですね。
(略)
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