>日本で「心理的安全性」の確保が難しいのは、全会一致を目指すから >コミュニケーション会社の人間関係会議生産性 >雨宮紫苑2021/8/31
>ブログ:『雨宮の迷走ニュース』 Twitter:amamiya9901 著作:日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)
(略)
>先日安達さんが寄稿した『「心理的安全性」という概念は、まだ、日本人には早すぎる。』という記事がよく読まれていた。
日本人は遅れがちですね。
>みなさんの反応を見てみると、どうやらこの一文が多くの人の心を捉えたようだ。>日本人は、反対意見と、人格攻撃を区別できない人が多い。
そうですね。敵か味方かの判断しかありませんね。
>だから、知識労働者に必要とされる「率直な物言い」が、そのまま対人トラブルにつながる。>わたしもずいぶん前に『「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。』という記事を書き、大きな反響をいただいて新聞にまで転載された。
我々日本人にも議論する技術は必要ですね。
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
>どうやら、「日本人はちがう意見の人とうまく付き合えない」というのは、多くの人が抱いている思いらしい。
違う意見の人とは馴れ合いが難しいですからね。
馴れ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
>でも日本でそうなるのはある意味当然で、理にかなっているのだ。>だって日本は、「全会一致」を目指すから。
現実の世界には唯一の正解しかないですからね。非現実 (考え) の内容は日本人にはなじまない。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
>「異なる意見を出しても拒絶されない」という心理的安全性 >「心理的安全性」という言葉は安達さんの記事を読んではじめて知ったのだが、どうやらこういう意味らしい。>心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。
それは、他力本願・神頼みですね。 知的作業から逸脱していますね。
日本語には現実を表す為の構文はあるが、非現実 (考え) を現す為の構文がない。だから、日本語で非現実の内容を表そうとする人の内容は、哲学にはならずして、空想・妄想の類になる。だから、英米流の高等教育は成り立たない。だが、わが国は漫画・アニメの大国になることができた。わが国は、世界唯一の被爆国である。これは現実である。この発言は日本人にできることである。だが、核廃絶をして実現する理想の世界を日本人は世界に説いて回ることはできない。これは非現実であるからである。
>出典:「効果的チームとは何か」を知る >つまり、「人間関係が悪くなるかもしれないけど、モノゴトをよくするためにこういう行動をしたい。 >このチームのメンバーならそれをわかって受け入れてくれるはず」という信頼感、安心感のことを指すようだ。
我が国には学問愛の人がいない。だから、学問愛の話をすれば受け入れてもらえない。根強い不信感がある。
国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。
'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
) '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。' (ウスビ・サコ)
>チームの心理的安全性を調べるのには、以下の7つの要素が評価軸になるとのこと。 >わたしは英語が不得手なので、心理的安全性を提唱したエドモンソン氏の説を紹介している、前述のGoogleのページから引用したい。 >1.チームの中でミスをすると、たいてい非難される。 >2.チームのメンバーは、課題や難しい問題を指摘し合える。 >3.チームのメンバーは、自分と異なるということを理由に他者を拒絶することがある。 >4.チームに対してリスクのある行動をしても安全である。 >5.チームの他のメンバーに助けを求めることは難しい。 >6.チームメンバーは誰も、自分の仕事を意図的におとしめるような行動をしない。 >7.チームメンバーと仕事をするとき、自分のスキルと才能が尊重され、活かされていると感じる。
>今回注目したいのは、3つ目の「チームのメンバーは、自分と異なることを理由に他者を拒絶することがある」という部分だ。
日本人は現実の人である。現実の正解は唯一である。個人的な考えは認めることができない。現実の世界には個人がない。
フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。
日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)
>「異なる意見を出しても受け入れてもらえるという信頼」が心理的安全性のひとつの要素なら、反対意見=人格攻撃として否定されがちな日本は、「心理的安全性が低い」と言えるだろう。
そうですね。日本は権威主義の国に近いですね。
>「んじゃいろんな意見を出しやすい環境にすればいーじゃん!」と思うのだが、そうもいかない。そうはならない。 >なぜなら日本では、心理的安全性が低いほうがうまくいくから。
子供が親に頼らなくてはならないようなものですね。
>全会一致を目指すなら異分子排除が効率的 >日本では主に、「全会一致」を目指す。
そうですね。現実の世界には異なる内容などありませんからね。
>みんな同じ意見をもち、みんなが賛成し、みんなが「自分だけで決めたんじゃない」と安心できる状況が「良い」のだ。
>率直な意見は、波風立てるだけのジャマなもの。
そうですね。考えの内容は人により様々ですからね。日本人にとっては率直な意見は邪魔なものです。
>そんなのないほうがいいのに、なんであの人は余計な反論をするの? >ほーら、空気が悪くなった。あの人っていつもそう。 >わかるわかる、前からデリカシーないと思ってたんだよね。空気読めって感じ。 >この前だってわたしの化粧に文句つけてきたんだよ。 >なにそれサイテー……。
我が国は、無哲学・能天気の人の世界ですね。
>こんな感じで意見と人格がごちゃまぜになり、反対意見=こっちを否定した悪い人として、「協調性なし」の烙印を押される。>それがイヤだから、たいていの人は余計なことは言わず、多数派に流れていく。
日本人は、一億一心の人ですね。
>異なる意見を出す反乱分子は「オカシイ人」としてちゃちゃっと排除、平和に、滞りなく、「全員賛成」に着地して大団円。
>みんな一緒で安心安全、最高の結果である。
万事が安心安全で気が付いてみたら、一億人の国民全員が奈落の底に突き落とされていたということもあるでしょうね。言霊は空しい。
>もし「異なる意見を出しても大丈夫」なんていう心理的安全性を保証してしまったら、せっかくの「和」が乱れてしまう。
日本人には世界観が無いので、インテリは受け売り専門の人となっている。この状態で議論になったら、’ああ言えばこういう’ の状態に陥って収集がつかない。 つかみどころのない人間は議論が出来ない。>全会一致から遠のいてしまう。>それはイカン。
>全会一致に対する手段として考えれば、心理的安全性は低いほうがいいのだ。
自分の頭で判断するのは恐ろしいことですね。日本人は反知性の民ですね。物言えば唇寒し秋の風。
>自分の意見がいかに優れているかをプレゼンするドイツ >では、「いろんな意見をバンバン出そうぜ!」という環境ではどうなるのか。>例として、わたしが住んでいるドイツを挙げたい。>ドイツの大学でゼミに行ったとき、みんなが口げんかしているように思えた。>みんな自分の言いたいことばっかり言って、他人の意見を否定ばっかりするからだ。>ほかの人が話してるのにかぶせて話すし、一度話し始めたら止まらないで気が済むまでずーっとしゃべってるし。
>「その統計は信用できるのか」「君はなにもわかっていない」「基本的なことを見落としてるじゃないか」「それはまちがっている」なんて、かなり挑発的な表現もよく耳にした。>その勢いに最初はビビっていたけど、だんだんわかってきた。
>この人たちの目標は「一番いい意見を採用する」ことだから、自分の意見をプレゼンしているだけなんだ、と。
人々の選択肢は多い方が良いですね。
>「俺を納得させろ、納得させられないなら俺が正しい」と自分の意見をプレゼンし、自分が反論できなくなれば「相手のほうが上手だった」と白旗を上げるだけ。
それは敗北宣言ですね。
>押し勝ったほうの意見が正しくなるのだから、そりゃ強気でいくわ。>「どの意見が一番いいのかを決めるプレゼン大会」だと思えば、心理的安全性確保が大切になるのもうなずける。
彼等の発言は、空想・妄想にならないところが強みですね。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含まない文書は全て正しい。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えとなる。
矛盾を探すためには、対話・議論が役に立つ。だから、プレゼンテイションは必要である。
>だってみんなが同じ意見になったら、そもそもプレゼンする意味がなくなっちゃうもの。>意見を言わない人間は、話し合いで存在する価値がないのだ。
それはアニマルと同じ世界に住むことになりますね。没個性的な自然の世界ですね。
>もちろん、比較検討した結果全会一致になることもあるし、多くの人が賛成する=一番いい意見、という側面もある。 > しかし、「結果的にみんなが納得する」のと、「みんなが同じ意見になることを目標にする」のはちがう。
そうですね。理解の仕方が同じで一致するのと、意見がない状態で一致するのとは違いますね。両者の間には頭の働きに有無の差があります。
>日本で「異なる意見を言ってもいい」という心理的安全性が低いのは、日本が遅れてるというわけではなく、単純に「全会一致という目的に対する手段として心理的安全性が不要。むしろないほうがいい」から。
思考の停止状態にある人は心理的安定が低いですね。意見がないというところで全会一致となっている。
>ドイツで意見が言いやすいのは、「さまざまな意見を聞いたうえで最善を選びたいから」。>要は、話し合いに期待するものがちがうのだ。
そうですね。議論から最善の利益が得られるという確信ですね。
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