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政治音痴の根源

2016-03-01 22:09:45 | ローマ字
時制のない言語は、実況放送・現状報告のための言語である。現実を表すための言語である。日本語がこの言語に相当する。時制のある言語は、非現実をも表すことができる。非現実の内容は、考えの内容である。時制ある言語を使うと、人間は ‘考える人’ になる。英語がこの言語に相当する。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
日本語には、考えの世界がない。考えの世界は非現実の世界である。非現実の内容は、頭の中にある。
自分の考えを述べる人に対しては、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と言い返す。非現実が頭の中にない人は、現実肯定主義にならざるをえない。現実の内容は、頭の外にある。頭の中の内容と、頭の外の内容が同じにならないことは、別段不思議なことではない。

過去の世界・現在の世界・未来の世界と並べてみると、それらの内容の良し悪しがわかる。良い世界の内容を未来の世界に据えて努力すれば、その内容は実現する可能性がある。だから、そのことを友達と相談して、一致を見れば協働作業にかかる。未来に希望が湧いてくる。

’建設的な意見’ とは、未来社会を建設しようとする意思である。そんな話が、一体どこにあるのですか。世界観のない人から ‘未来の社会’ も ‘過去の社会’ も出てこない。時制のある文章内容があれば、それらの社会の内容を限りなく展開することができる。文章が無ければ、意味もなく、矛盾を指摘することもできない。その発言は、空想・妄想になる。’今のは、冗談で言ったのだよ’ ということで、真面目になれない。深刻になれない。世界観のない人は、不毛の議論にも後悔はない。浮世・憂世の人間で、つかみどころのない人間である。

‘あるべき姿’ (大同) を述べれば、政治家 (statesman) になれる。’今ある姿’ (小異) だけを述べれば、政治屋 (politician) にとどまる。政治屋には、小異があって、大同が無い。だから、大同につくために小異を捨てる理由もなく、あくまでも小異にこだわって、離合集散をくりかえす。


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