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>重要なのは原点の部分だろう。>つまり、大自然を畏れ敬う精神性。
世界遺産 (複合遺産) に登録されている豪州のUluru (ウルル) のようなものでしょうか。
>それを背景にしたウチ(集団)とソト(森羅万象)という世界観(認識)。
‘ウチの人’ と ‘ヨソの人’ が現実に存在しますね。’世の中は、、、’の発想法ですね。
>これがあったから、古代の日本人は集団を超えた偉大な対象に対して、別の言葉を必要とした(ウタを使って対話を試みた)。
‘日本人’ にも ‘日本人の神’ にも意思がない。意思の文章内容がないので、意味がない。だから、対話ができない。それで、歌詠みになる。言いっぱなしの一方通行になる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。日本人の歌はバラバラな単語よりなるので、文章ではない。だから、意味がない。人々は、忖度 (推察) により、歌を鑑賞している。言語を考えの伝達手段として使っていない。
>日本語の敬語は、大自然に対して畏敬の念を示そうとする意思を原点にしている。
‘もったいなくも畏くも’ (graciously) ということですね。
日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳の脳裏には、未来時制は存在しない。そして、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。日本人は、おとなしい。
> 階級社会に移行した後も、三徳をもつ上位者に対して、まずは古代から変わらぬ位相(ウタ)で意思を示した。
歌はバラバラな単語で文章にならないから意味はありませんね。ですから、意思ではなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) を示したことになるのではないですか。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
>これにより上位者との対話が可能となり、その成功体験がウタを超えた更なる敬意の表現を求めて、敬語という語彙と体系が形成されていったのだろう。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>くわえて、日本語の敬語表現が発達した背景には「日本語の意思疎通の力点が共感におかれている事(313641)」も相乗しているように思う。
日本人は、意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、意思疎通は無いが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。これが共感になっているのでしょうね。恣意には意味がないので議論にならない。なあなあになる。
> 上位者と下位者の意思疎通においても、微妙な感情の変化を看取して「共感」する必要がある。
下位者は、上位者の顔色を読む。これも、非言語の精神活動ですね。言語活動の領域が狭いですね。
>そのために、動詞の活用変化にとどまらない、新しい単語(敬語)を必要としたのではないだろうか。
そうかもしれませんね。
> 外国人が日本語の敬語表現を難解と捉えるのは、こういった歴史的背景から生じた敬語の必要性を理解できない点にあるのだと思う。
日本人社会における世俗の上下を知識として持たなければ、敬語の実用も難しいでしょうね。序列があるので敬語ができるのか、それとも敬語があるので序列社会ができるのでしょうか。
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