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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

鬼に金棒

2016-04-21 10:58:43 | 教育
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えでない。
単語を使って文章ができる。その文章は、現実の内容を表している。
言語に時制があると、過去・現在・未来の時制をもつ文章ができる。これらの文章は、非現実の内容を表している。その内容は、頭の中にのみ存在する。
現実肯定主義の人は、現実を本当と思い、非現実を嘘という。嘘は吐いてはいけないとされている。
だが、英米人によれば、非現実の内容は嘘ではない。矛盾が無ければ正しい考えである。誰も見た人のいない恐竜時代の世界の内容を詳しく述べる人もいる。彼らには有言の説得力がある。非現実の文章を作るのが、英米人の教養である。高等教育の必要なゆえんである。だから、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ という反論は当たらない。

非現実の文章を作ることができなければ、頭の中の単語は依然として、ばらばらなままである。そこから個人が勝手な解釈をする。文章になっていないのであるから、意味もなければ矛盾もない。だから、有言の説得力は得られない。が、無言の説得力がある。気分・雰囲気が伝わってくる。ばらばらな単語から、気分・雰囲気を伝えるのが、日本人の教養である。歌詠みのようなものか。無言の精神力を伝える細工物は仕上りが良い。世界の人に広く受け入れられている。おかげで、資金が還流して我が国は世界の経済大国になった。

日本語脳は、哲学 (虚学) には弱い。だが、実学 (技術) の内容には強い。我が国は、現在、多数の外国人研修生を受け入れている。現実に関する日本語の内容には大きな説得力がある。ぜひ、日本の基準を国際的に打ち立てて、世界の発展に役立ててもらいたい。そのために、日本語を世界に広めたい。多くの人に日本語を話してもらいたい。中国語も日本語も、主として母語として語られている言語である。英語のように第二言語として国際的な情報交換に使われる言語ではない。我々は日本語を外国人にやさしい言語に変えることにより、その有用性からみて多くの国で第二言語になりえる。我々は行き着く先の国際社会の有様を熟慮しなくてはならない。政治音痴ではいられない。
そう考えてみると、日本語の極端に弱いところは、その表記様式にある。かな漢字表記様式は、外国人に覚えにくい。特に非漢字圏出身者には、漢字の習得が絶望的に難しい。この困難は、日本語をローマ字表記様式にすれば、たちどころに解決する。政府に、ぜひこれを実行してもらいたい。漢字由来の同音語の問題は、長年をかけて解決を図る日本人の問題である。’助言’ は、ローマ字で ’advice’ のように外来語として書けばよい。ローマ字表記により、日本人は英語にも親しみを持つことができる。
言語が、もともと ‘話すもの・聞くもの’ であることを考えると、’読めない・書けない’ という音声から切り離された学習者が多数存在することは、学習環境にとって致命的な欠陥であると言わざるをえない。

現実を表す文章は、現在時制の文章と構文は同じ (?) である。が、内容の違いは歴然としている。
‘全ての人は平等に作られている。’ これは、非現実の内容である。日本人には信じられないが、方便として利用されている。
‘人間は万事、不平等である。’ これは、現実の内容である。日本人に信じられる内容である。夢も希望もない内容である。ただ、閉塞感だけがある。
もし日本人に ‘平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう’ と言われたら、それは現実のことか、それとも非現実 (哲学) の努力目標ことなのか考えさせられるところである。

日本人の判断では、’現実は本当・非現実は嘘’ である。西洋の哲学は、日本人の嘘になる。とても信じられるものではない。だが、嘘も方便である。せっかく学んだ我が国の高等教育の知識をうまく利用する方法はないものか。そこで、学問上の道理を曲げて、世間の人気にこびへつらう曲学阿世の輩となる。御用学者のようなものか。だから、なかなか真面目な人間にはなれない。
日本人には哲学 (非現実) が無い。だから、政治家には政治哲学が無い。それで、政治音痴になっている。
政治家は、政治哲学の代わりに処世術 (現実) を使う。かくして、政治家 (statesman) は政治屋 (politician) に変身する。
議員は小異 (現実) に従って離合集散を繰り返している。大同 (非現実) 団結はしない烏合の衆である。
行き着く先が見えていないので、未来社会の建設に前向きな姿勢はとれない。つかみどころのない人間には、他からの信頼が寄せられない。
われわれ一人ひとりに哲学が必要である。さすれば、英米人とも世界観比べができる。理想の社会の建設的な話し合いも可能になる。仲の良い友達になれる。腹にものをためる人間から、心を合わせられる人間に変わることができる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。 、、、、、、     ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

英語と日本語の勉強をして、無言の説得力の上に、有言の説得力を獲得しよう。さすれば我々日本人は、鬼に金棒の状態になる。


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有言・無言の説得力

2016-04-16 16:10:19 | 国際・政治
日本語には、無言の説得力を育む力がある。
日本語脳は目先・手先に精神力を集中させるので、細工物の仕上がりが良く、我が国の製品は全世界で受けている。
このおかげで、我が国は経済大国になった。

日本語には、有言の説得力を育む力が無い。
哲学が無い。政治家には政治哲学が無いので、政治音痴になっている。
日本人同士なら忖度 (そんたく) で切り抜けられる。’忖度する’というのは「相手の気持ちや真意を推し量ること」で、日本人には、これ以外に対応手段がない。ただの推測であるから、議論・理解の必要は生じない。
外国人は理解を求めるから、我が国の政治家は、外国人との議論に難渋している。

マックニール*氏曰く、
>……2014年の夏に菅官房長官が外国特派員協会の会見に出たのですが、「事前に質問内容を出してほしい」と言われて、僕たちはそれを断りました。彼らは外国のメディアに厳しい質問を浴びせられるのを嫌がっているのだと思います。そして、この年の秋以降、政府や自民党の政治家は外国特派員協会の会見には出ていません。

理解することなく事を進める日本人には恐ろしい結果が待っている。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
理解を無視する習慣は、戦前・戦後で変わらない。この危険に対する我が国民の理解をぜひお願いしたい。


*デイビッド・マックニール
アイルランド出身。東京大学大学院に留学した後、2000年に再来日し、英紙「エコノミスト」や「インデペンデント」に寄稿している。



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謝罪か、リーズンか

2016-04-14 19:58:06 | 国際・政治
>米国は一貫して原爆投下について謝罪の意思がないようである。原爆投下は自らの被害を抑えるためには必要であったからようがないということだろうか。また米国は文民保護条約の批准にも積極的ではなく無差別大量殺人兵器をもつことに執着しているきらいがある。 ・・・・・・ 当時の日本は全国民が一丸となり戦時下で国民総動員法が発令されている。すなわち国民すべてが 文民ではなく戦闘員であると思われてもしょうがないくらいに婦女子・子供までもが竹槍や刀の玩具を利用したり戦意高揚の時代であった。そういう意味では無差別殺人兵器と我々は思っても、それを使用する側は、日本人はすべて戦闘員ではないかという危惧が」あったのである。

原爆投下、無条件降伏、それで私は‘一億総玉砕’をまぬかれた。命拾いをした。だから、私はトルーマン大統領の決断に感謝している。わが大日本帝国の政府は、東京大空襲の悲惨な結果を見定めた後も、我々臣民に生き延びる道を与えようとはしなかった。国がひっくり返った時にも、その野蛮な構想の責任者は出なかった。日本人には意思がなく、個人に対するリーズン (理性・理由・適当) の追求もなく、すべてはうやむやに闇の中へと葬り去られた。このような状態が永続するから、過ちを繰り返さないと誓っても、それは空念仏になるのである。ああ、むなしい。

犯人探し・捕り物帳は、我々日本人の娯楽である。だが、これらは全て事後の内容である。取り返しはつかない。飛行機事故が起こってから、その原因を熱心に追究するようなものである。こうした努力では、未然に事故を防ぐことはできない。防止策は未来時制の内容でなくてはならない。
悲惨な事故の発生を未然に防ぐ方策が賢明な策である。未来の内容を的確に予測して対処しなければならない。それには過去における未来の内容の誤りを綿密に調査する能力が必要である。

調査には、リーズンと意思を明らかにすることが必要である。リーズンという概念があれば、リーズナブルな答えというものが期待できる。それを示せば個人は説明責任を果たしたことになる。文章が無ければ、誰も説明責任は果たせない。とかく、この世は無責任となる。
日本人には、リーズンがなくて意思がない。だから、すべてはうやむやに闇の中に葬り去られることになる。日本語には過去時制も未来時制もないので、原因究明・再発防止のような調査は日本人にとって困難を極める。一向にリーズンには焦点が合わさらなくて、結果論ばかりが盛り上がる。日本人の謝罪要求は感情本位で、原因究明から発するものではない。一億総玉砕を決めたときと同じである。今でも考え方に進歩が無い。だから、過ちを繰り返す。

日本人には恥の文化があって、罪の文化がない。罪の意識のない日本人に贖罪をさせようとしたら、それは自虐になる。下とみられたことになる。理不尽な辱めを受けたと考えて憤る。深い反省には至らない。
罪の世界と恥の世界の住民は、相互理解が可能であるか。それとも両世界の住民には、住み分けが必要であるか。我々は、未来の世界について、よく考えてみなければならない。


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日本の未来の姿

2016-04-12 11:42:50 | 政治
>ネパールの現状を見ると、これはおそらく日本が近い将来突入しうる一つの未来なのかもしれません。超大国の狭間でそのどちらの国から攻められるわけでもなく内部から自滅し収拾不可能な混乱へと堕ちていく姿です。

>もう一つの選択肢がシッキムです。シッキムはブータンをより小型にしたような国家でした。植民地時代からインドの保護国となる経緯もブータンによく似ています。ただ、英国の影響はブータンよりも大きかったようです。一番の違いは英国統治時代に流入したネパール系の労働者の数です。これにより、実に人口の75%が彼ら新しく居着いたネパール系となってしまいました。

>戦後、英国からインドに保護が移り民主化が避けられなくなった時、少数派となった王党派は権力を維持することが出来ませんでした。混乱の末、1975年にはインド軍が介入。その後の国民投票でインドへの併合が決まりました。移民により国が消滅した端的な例です。シッキムの滅亡もまた日本の未来の姿の一つと言えるでしょう。

世界には、自然国家と人工国家がある。
自然国家は母語を同じくする人たちの国である。自然発生的で、通常王がいて国を統治する。
人工国家は、建国の精神を同じくする人たちの国である。哲学的である。指導者が人々を未来社会へと導く共和国である。
我が国は、自然国家であり、民族国家である。民族国家の日本が、異民族を移民として受け入れるとどうなるか。民族の特性が守れないとして、異民族を排斥することになる。住民を民族色一色に染め上げたいと願う自然派と、住民の間に個人固有の権利を根付かせたいと願う人工派の相克が起こる。この軋轢が抜き差しならぬ国内問題となる。無哲学・能天気の国民からは、個々の民族に固有な特性を守るというグローバルな、ユニバーサルな考えは出てこない。だから、建国の精神は樹立できない。
‘建国記念の日’ だけを祝うのでは不十分。我々は、頭をもっと鍛えよう。


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高等教育のすすめ

2016-04-09 11:15:31 | 教育
>世界人権宣言においては「高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない(26条1)」と定められている。

文章が無くては、意味もない。矛盾があっても、それを指摘できない。
言葉が、いかようにも解釈できるような状態にあっては、個人は他人に対して説得力を持つことはない。特亜三国 (日本・中国・韓国) の言葉には時制が無く、その言語は、実況放送・現状報告のための言葉となっている。話す内容が現実ばかりであるから、子供の話と同じである。
‘嘘も百回繰り返せば真実となる’ と言われているが、話の内容は過去・現在・未来の非現実である。考え (非現実) の内容を表す構文がないので、特亜三国人の話には筋が通らない。話の矛盾を指摘することも困難である。だから、嘘を精力的に繰り返し、自分好みの真実を作ろうと励んでいる。このような風習が、北東アジアの不安定要因になっている。

現実の内容は、過不足なく成り立っている。もしもその説明に過不足があれば、その矛盾が指摘されて事実関係調べが行われ、ここで決着する。
非現実の内容は、過不足なく成り立たせることが難しい。それは、日本語にそのための構文が無いからである。文章が無ければ、発言に矛盾があっても指摘できない。話の内容から矛盾を取り除くことができないので、正しい考えというもの自体が考えられない。そこで、出鱈目が横行する。

時制のある文章の作り方を習い、自己の非現実の内容を表現できるようになれば、自分固有の考えを示すことができる。このようにして、自己の哲学を得ることができる。これが、英米の高等教育である。さらなる大人のための英語教育である。
日本人には哲学 (非現実) が無い。だから、無哲学・能天気の人になっている。我々は移行すべき未来社会を発想できない。我々は、永遠にどこにも行かない。死んでも草葉の陰から、じっとこちらの方を眺めている。お変わりなければ、天下泰平の世の中ということであり、我々の望むところである。ここでは行くべき未来社会の建設は求められていない。だから、建設的な意見は見当たらない。仏教徒とは言いながら、前世・現世・来世の内容を考える輪廻の苦しみに煩わされることもなく、ただ ‘世の中は、、、’ の現実的な発想に終始している。

政治家にも、政治哲学が無いから、政治音痴になっている。世界観 (非現実) がないので、自分たちが行き着く先の内容を示すことができない。国会議員は小異 (現実) にとらわれて、離合集散を繰り返している。大同 (非現実) がなくて小異があるので、小異を捨てる理由はない。小異が大異のごとくに見えているので、政治音痴も治らない。四年間みっちり勉強させる英米の大学よりも、遊んで暮らす日本の大学の方に日本人学生の人気が集まっている。これが、日米価値観の相違というものか。

非現実の内容を実社会で実現できれば、それは創造である。
現実の内容を実社会で再現すれば、それは模倣である。
特亜三国人は、模倣に長けていて、創造が苦手である。
模倣の競争は参加者が多く、とかく過酷なものになりがちである。
創造の競争は、我が道を行く。個性を伸ばすことができる。
英米の大学の上には大学院の建設も可能になる。学士を大学院に入学させて職業教育を施せば、さらに高度な職業人ができる。
このようなわけで、我々日本人にとっても、時制ある英語の勉強は欠かすことができない。



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