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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教育大国のアキレス腱

2016-08-22 15:11:00 | 教育
>国民のうち英語が必要なのはせいぜい数%しかいない、という日本の状況は世界でも珍しいのです。

情報交換に関する鎖国状態ですかね。

>例えば、英語の話せるインド人は9千万人以上いるといわれています。総人口が12億6千万人なので、それでも7%ですが、国際会議や向上の場で、インド人があの変わった抑揚の英語でリードしている場面には良く出くわします。
>インドの大学では英語で授業が行われています。これは5百万人以上の話者を持つ言語が26もあるという多言語国家で、英語が準公用語となっていることと、大学の教科書は英語で揃っているので、そのまま使ったほうが効率的であるという事情があります。

かならずしも英語を話せば教養人ということでもないようですね。英米流の高等教育が可能になるということでもないようですね。

>そもそも世界で、自国語で大学まで学べるという国はそれほど多くはありません。ヨーロッパでもドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語などの大言語を除けば、デンマーク語とかアイルランド語とかチェコ語といった話者の少ない言語の国では、大学の教科書のような少人数向けの本は出版出来ないからです。

人類の知識の大半は、英語の文献として蓄えられているのではありませんか。

>もう一つは、大学で使う高度な近代的概念用語を揃えた言語もそれほど多くない、という事情があります。例えば、「中華人民共和国憲法」とか「北朝鮮民主主義人民共和国」などでの「人民」、「共和国」、「憲法」、「民主主義」などは、日本も明治の先達が漢字にした概念用語を直輸入して使っているだけです。

漢字は漢人 (中国人) の考えを表すために作られた文字であります。ですから、漢字は外国人の意味を表すために作られてはいません。中国人自身の考えが増えなければ漢字の数も増えません。我が国には、カナ書き外来語が増えてくる。中国人は、どうしているのかな。
日本語の概念用語は英語に対する漢語の当て字ですね。当て字は真の意味を伝えるとは限らないでしょう。人工語の欠陥か。だから、我が国では、概念・観念の学習に対する不具合と疑問が絶えることがない。かくなる上は、丸暗記するしか手がない。詰め込み教育は、教育大国と自称する我が国のアキレス腱となっています。

>輸入品だから、いつまでも憲法や民主主義が根付かないのだろうと皮肉の一つも言いたいところですが、逆に日本から輸入した概念用語が無ければ、中国語や朝鮮語では大学教科書は作れなかったか、作れても何十年も遅れたことでしょう。

特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制が無いので、民は非現実の内容を文章にして考えることができません。それで、無哲学・能天気になっています。我が国民に対する曽我部氏の懸念は、以下のような内容です。

懸念されるのは、自民党の憲法草案で基本的人権をめぐり天賦人権性が否定されていることだ。これは近代の人権観念の端的な否定であり、見過ごせない。立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は欧米由来のものであり、これらを後に受け入れた日本を含む国々では反発を呼ぶこともある。しかしこうした諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であり、普遍的なものとして受け入れなければならない。 (曽我部真裕 京都大学教授) (引用終り)

多様な個人の共生を可能にする国は、外国人の共感をよびます。移民・難民の殺到する国になります。だから、民度の高さが外から見てもわかります。決して国土の広さでもなく、資源の豊富さでもない。人間の問題です。

>自国語で大学教育ができるというのは、それだけその言語で高等教育を受ける人口規模が大きいことと、その言語が高度な近代的概念用語を揃えている必要がある、ということなのです。

日本語には概念がない。言葉のみで理解する内容が無い。
日本語の内容は、見ればわかるものばかり。それは、現実の内容である。文章の内容は、頭の外にある。
英語には、現実の内容以外にも内容がある。それは、非現実の内容で、概念である。
英語には概念がある。言葉でしか理解できない内容が存在する。その内容は、外から見てもわからない。文章の内容は、頭の中にある。

フランク・ギブニー氏は、著書 <人は城、人は石垣> の中で以下のように指摘をしております。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。
英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。

他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。数え方を例にとってみよう。単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り)



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2016-08-18 11:12:32 | 教育
日本人の夢は、はかない。それに比べて、英米人の夢は生きる希望になる。どうして、このような違いが生まれるのか。どちらも、非現実の内容である。見ることはできても、触ることはできないものである。非現実の内容に価値を認めるか、認めないかの英米・日本の差である。

日本人にとって非現実の内容は意味がない。それは、非現実の内容が日本語の文章にならないからである。文章にならない内容には、意味がない。矛盾がありそうでも、それを指摘できない。だから、価値がない。雑念として放置されか、脳裏から振り払われる。
英米人の非現実には価値が有る。それは、非現実の内容が文章になるからである。非現実の内容は、時制のある文章内容になる。文章になっている非現実の内容には、意味がある。矛盾も有れば、それを指摘できる。矛盾を訂正すれば正しい考えになる。だから、価値がある。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人の夢は、非現実であり、文章にならない。だから、意味もなければ、価値もない。打ち捨てられている。
英米人の夢は、非現実であるが、それは時制を使えば、文章内容になる。夢は未来時制の文章内容になる。だから、意味もあれば、価値もある。

現実の内容は、頭の外にある。これに対して、考え (非現実) の内容は、頭の中にある。
現実の有様は、見ればわかる。考えの内容は、理解しなければわからない。
日本人の夢は、文章にならないから、理解不能である。
英米人の夢は、未来時制の文章内容になるから、理解可能である。非現実の内容は大同になりうる。だから、小異 (現実) を捨てて大同 (非現実) につく人々を増すことにより、大同団結できる。
今は民主主義の時代である。民が力を示す時である。それには、民の理解が必要である。考え (非現実の内容) を理解する力が必要である。

我々は、‘あるべき姿’ の提案を受けて、’そんなことを言っても駄目だぞ、現実はそうなってはいない’ と反発する現実肯定主義者にとどまってはいられない。
‘嘘も百回繰り返せば真実になる’ といった (矛盾した) 現実を受け入れる態度ではいられない。たとえ、その内容が有史前に関する事柄であっても、(矛盾のない) 正しい考え方を受け入れる人間になる必要がある。矛盾のない内容はすべて正しい。だから、与えられた唯一の正解を後生大事にして暗記の勉強に励む必要もない。各々が自由な議論を盛んにすれば、我々は夢を追いかける人となることができる。
我が国においても、英米流高等教育の無償化は、最重要課題であるといえよう。さすれば、未来社会の建設にも弾みがつく。

日本人が非現実の内容を頭から拒否するのは、和文の中では理解不能だからである。意味もなければ、筋も通らない。夢物語となっている。
英米人が非現実の内容を高く評価するのは、正しい考えの表明だからである。英文の中では、理解が可能だからである。ちょうど、アインシュタインの理論が評価されるようなものである。彼の考えは、非現実であっても正しい。実証されなくても正しい。実証されれば、なおのことおめでたい。

人間の偉大さは、夢を正夢にすることにある。非現実の内容を現実の世に実現することにある。さすれば、我々は、人類固有の創造力を発揮したことになる。人類の進歩はこれにある。




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日本の学校

2016-08-14 16:46:31 | 教育
>日本の学校は教師にとって大変教えやすい場になっています。学校以上に教えやすい場と思われる場は、教えやすい順に監獄、病院、軍隊くらい。教えやすいとは、はい、と言わせる強制力とも言えます。一つ忘れていましたが、悪質な?熱心な?宗教団体を抜けるときは、・・・・・教義に逆らうことなどできるはずがないので、ひたすら、はい。


他人に強制する人たちには、それ相当の利益が用意されているのでしょうね。

>たとえ、子どもが危険な遊びをして重大な結果が予想されるようなことをしていたとしても、はいを強制したのでは、隠れてこそこそ同じことを別の場所でする子になってしまうでしょう。

嘘も方便ですね。

>内圧で共感したうえで理解しないとダメなのです。政治家が汚職をする、どんなにマスコミが叩いてもダメ、強制力のある法律を作ってもダメなと同じように、それはますます巧妙さを増すばかり。

処世術とは、えてしてそう言ったものになるでしょうね。

>・・・・・とすれば、生徒にとって学びやすい場とは、根拠のない強制と共感無き同意、の要らない環境、人間関係ということになるはずです。

‘あるべき姿’ の考えが無ければ、何を学ぶのかわからない。’あるべき姿’ の内容は非現実であって、頭の中にある。だが、日本語で話せる内容は、実況放送と現状報告の内容である。これらの内容は頭の外にある。見ればわかる内容である。現実肯定主義の日本人には、頭の中の内容は受け入れられない。自分自身の考えを述べれば、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’と反論される。’あるべき姿’ の内容は、未来時制の文章内容であるから、時制のない日本語脳では考えることができない。英語なら時制があるので、考えられる。だから、一概に大学と言っても、国際的に見ればその程度には大きな差があることになります。我が国の学校は、無哲学・能天気の人の集まりで、’根拠のない強制と共感なき同意’ の学び舎になっているのでしょう。


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大学不要

2016-08-12 03:38:26 | 教育
>企業が学歴で人材を選ぶ時代はとうに終っていますが、更に最近、産業界では大学不要視が顕在化してきました。

役に立たない大学は、不要ですね。

>・・・・近代観念が50年も前に見捨てられ、それ以来、無思想・無気力・無関心の時代が現在まで続いていることは、周知の事実ですが、教科書はその近代観念の言葉で記述されています。

近代観念は、日本人には理解不能です。それは、内容が哲学・非現実だからです。
英語には時制があるから、現実・非現実の内容がともに文章として表現できる。
日本語には時制がないから、現実しか表現できない。つまり、日本語は実況放送・現状報告を内容とする文章を作る言語である。
英文和訳は高等文化の輸入には役に立たない。英語の非現実の内容は、日本語の実況放送にも、現状報告の内容にも相当しない。だから、英文和訳を強行すれば、それは空念仏になる。話の内容が現実離れしているので、現実肯定主義の日本人にとって信じることが難しい。

>・・・・・そこでは本来の「何?」「何で?」という思考回路は(試験とは関係ないので)封鎖されてゆきます。

本来の「何?」「何で?」という考えの内容は非現実である。非現実は頭の中にある。現実は頭の外にある。

>そんな勉強を2年も続けると本来の思考回路はすっかり封鎖され、「答えを理解する」という頭の使い方しかできない「理解脳」ができ上がります。自分の頭では何も考えられないマニュアル人間のでき上がりです。それでは社会に出ても使い物になりません。

マニュアル人間は職人・技術者に適している。ノンマニュアル人間は哲学者・科学者になる。
実学 (技術) を学んで、実社会 (哲学のない社会) に出た人間のみが我が国では使い物になる。
彼らは実学の成果により、実社会において、現実の生活の実力を示している。

>社会で求められるのは、正解のない問題に挑戦して答を生み出してゆく本物の思考力だからです。

同感です。矛盾のない考えは、すべて正しい。唯一の正解を暗記する教育では、現実対応に不具合を生じる。玉砕戦法を繰り返すばかりでは、神国日本は守れませんね。

>とりわけ、小学生の頃から子供を勉強漬けにする中受塾の弊害は深刻ですが、中学生に「答を教える」詰め込み型の塾も同様です。

従来型の学校には、始めに答えがある。それを丹念に暗記する。これが成績になる。序列社会に適合した序列人間が出来上がる。上意下達の形式でことを運ぶ。責任感はない。

>大半の保護者が期待しているのは、子供が社会に通用する本物の追求力や仲間と上手く付き合える力であって、決して目先の成績などではない筈です。

点取り虫の育成は、やめましょう。時間の損失です。人生の無駄です。
恐竜公園は楽しいですね。見てきたような嘘を吐くこのウソツキの説明を、日本人は信じることができるのでしょうか。


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長所・短所

2016-08-06 11:28:04 | 教育

>海外から見た日本の評価は? これ、やっぱり気になりますよね!

見栄と外聞ですね。’上とみるか、下とみるか’ の判断は、我々日本人の強迫観念になっていますからね。それ以外に気にかけることもない。

>日本人の長所と言えば、「手先の器用さ」「勤勉さ」「電化製品の性能の良さ」などが、よく知られていますが…
実は、それだけではないんです!

我が国は、長所の山ですね。それで、我が国は技術立国・経済大国となった。長所だけを列挙していれば、ほろ酔い気分になれる。

>わたしたち日本人はみな、「素晴らしい長所」を持っています。あなたも、ぼくも、持っています。

私も国民学校一年生の頃、’日本人は世界一の民族である’ と先生からすでに教えられていました。

>日本人の素晴らしい長所、それは…「心の美しさ」今も昔も、多くの外国人が「日本人の心の美しさ」を絶賛しています。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。
文章には意味がある。意味が通じなければ、その矛盾を指摘することも可能である。
その矛盾を取り除けば、正しい文章ができる。正しい文章は、正しい考えを表している。
個人が違えば、考えも違う。正しい考えは、個人の数だけあることも考えられる。いや、それよりも多いこともあれば、少ないこともある。だから、唯一の正解を求めて暗記する勉強は必要ではありません。学校に出かけて行って、先生に正解の教えを乞う必要もありません。
日本人には、考えがない。だから、話をすれば、気分・雰囲気のことになる。気分・雰囲気にとらわれて、支離滅裂な行動に走ることもあるから、きわめて危険な民族でもある。これは短所です。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。


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