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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

同質性のありがたさ

2016-09-19 02:30:44 | 国際・政治
>わが国は、欧米由来のヘンなリベラリズムや空想的な地球市民主義にかぶれさえしなければ(困ったことに知識人や政治家ほどかぶれやすいのですが)、もともとナショナルなまとまりを維持できる条件に恵まれているのです。

そうですね。だが、この世の中で我が国は文化的な鎖国を続けるわけにはいけませんね。無哲学・能天気では地球村の村民にはなれないでしょう。’我が国は地球上にあって、世界に属さず’ ですね。

>日本語という統一言語、島国という地政学的条件、天皇をいただく長い歴史を持つ文化的同質性等々。

日本語には階称 (言葉遣い) がありますからね。我々の序列人間・序列社会は避けられないでしょう。異質な体質。普遍性を求めるのは難しいでしょうね。

>わが国で、牧師さんが僧服姿で歩いていたり、坊さんが袈裟を着て公共の場所に出入りしたりすることを禁止するなどということが考えられるでしょうか? 
>おそらくムスリムが「ブルキニ」を着て湘南海岸で海水浴をしていても、誰も文句を付けないでしょう。
>この驚くほどの寛容さと安定感覚が何に由来しているか、よくよく考えてみましょう。

着眼点の違いですかね。
日本人の礼儀作法は、序列作法ですからね。日常的な上下判断は、我々の強迫観念になっています。これは、寛容どころではない。

>それは欧米や中国のように、多民族どうしの軋轢と摩擦に悩まされてこなかったからです。

そうですね。我々の歴史は、民族浄化には馴染みがないですね。

>彼らは長く悩まされてきたがゆえにこそ、EUとか、共産主義とかいった、維持困難な苦しい理念を掲げざるを得ないのです。

非現実の内容を現実の世で実現させるのには、それ相当のたゆまぬ努力が必要ですね。夢でしょう。それが人間の人生というものではないでしょうか。

>私たちは、永く天皇の存在によってまとめられてきたこの文化の同質性のありがたさを、もっともっと自覚すべきだと思います。

日本語には、階称 (言葉遣い) がありますからね。われわれの序列人間・序列社会は避けられませんね。哲学 (非現実) が無いので個人差がない。見栄と外聞 (現実) で判断する。切って揃えられたようなメンタリティ (考え方) を示す日本人は、自他ともに危険な存在でありますね。’自分さえ善ければ・・・・’ の考え方は、もう終わりました。処世術万能ではない。グローバルな (地球全体の)、ユニバーサルな (普遍的な) 考えの広さが必要ですね。哲学が必要です。

>ゆめゆめ欧米を見習ってわざわざ低賃金競争や文化摩擦を引き起こす移民政策などに手を出してはなりません(残念ながらもう政府は手を出しているので、何とかこの動きを阻止すべきなのですが)。

立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は、欧米を見習わなくてはなりませんね。これらは多様な個人の共生を可能にする基礎ですから、我々も普遍的なものとして受け入れなければならないでしょう。阻止すべき動きではありませんね。様子を見ながら、失敗しないように、じわりじわりと進める。我々はアニマルそのままの姿から、少々人間らしくなってきた。要は、我々の進路を間違えないこと。





日本語を広めよう

2016-09-14 23:28:23 | ローマ字
 
英語は重要である
この掛川市からもアメリカにホームステイに出かける人が毎年大勢いるが、’アメリカが私の第二の故郷のような気がする’という感想を述べる人もいる。私もその一人だ。いろいろな批判をする人もいるが、世界で一番抵抗なく自分を受け入れることのできる環境を提供してくれる国であることに間違いない。大勢の密入国者たちも、皆そう考えての移動なのだろう。
住民の考え方が良い。それは英語圏の言語が良いからであろう。

日本語も重要である
英語は国際語である。理性ある言語でとりわけ価値のある言語である。一方、日本語も優れた言葉である。日本語は、特に技術関係・芸術関係に優れているので、国際語として利用価値のある言語である。細工物の仕上りが良く、技術指導に威力を発揮する。ぜひ、この日本語の恩恵を世界の人々と共有したいものである。
だが、日本語はローマ字表記になっていないので、国際的な広がりを見せていない。

英語にあって、日本語にないもの
‘小異を捨てて大同に就く’ という格言があるが、現実を捨てて、非現実の内容を取り上げるならば、我々は大同団結ができる。
大同は世界観であり、建設されるべき未来社会の内容である。大同が提案できれば、未来社会の建設指導者になれる。大同の内容にはいろいろあろうが、自分自身の提案が無ければ、指導者にはなれない。
言語には時制というものがあり、時制があるとその言語を使って世界観を述べることができる。時制は英語にあって、日本語にはない。
世界観は非現実の内容である。いうなれば、前世とか来世の内容のようなものである。見ても見えない世界である。だから、その内容は相手の話を聞いて理解するしかない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。以心伝心 (いしんでんしん) は、’無言のうちに、気持ちが相手に通じること’ であるから、考えではない。談合は、そうした世界での腹の探り合いである。だから、談合は腹をくくって決着する。文章にならないので、意味もなければ、矛盾を指摘することもできない。
日本人に大同・非現実の内容が語れないことは、何としても残念なことである。国際社会では、日本人は一般に3S (silent, smile, sleep) つまり「静かに、微笑んでいる、寝ている」とみられている。だから、我々は英語の勉強をして、説得力を持ち、自己の存在価値を高めなくてはならない。
現実の内容は見ればわかる。見てもわからないものは、日本人の判断では真っ赤な嘘になる。
非現実の内容は、見てもわからない。だから、日本人の考えでは、非現実の内容は、見てきたような嘘ということになる。
考えの中身は非現実である。その中身は見ることができない。ただ、相手の話を聞いて理解しなければならない。考えの中身は現実離れがしているので、日本人には信じることが難しい。だから、日本人の話は高尚なものにはならない。

日本語を国際語にするには
言葉は元来、話すもの・聞くものである。
音声により会話が成り立つのであるから、発音を記録にとどめることは大切なことである。
発音の練習も大切である。表音文字を使うと、発音の学習に能率が上がる。
何事も迅速なこの国際時代にあって、日本語のかな漢字表記では、非漢字圏の初学者には歯が立たない。
それにもかかわらず、耳学問だけでは世の中の進みに追いついて行けないので、書き物を読んで言葉を学ぶ必要がある。
現在のかな漢字表記では、和文の素読もままならない。日本人ばかりの役所でも、振り仮名の使用は日常的に行われている。
日本語をローマ字表記にすれば、会話程度の学習能率は上がる。日本語による議論ができる。日本語を世界規模の第二言語にする道が開ける。さすれば、日本人の活躍の場も広がる。日本語の考え方の優れた点は、’今・ここ’ に注意を集中させることができることにあるが、前後のことはわからない。一寸先は闇であるのか。

現在は民主主義の時代である。世の中の建設には主人公である民の理解が必要である。大同を民に理解してもらうために、言葉が通じないようでは困るのである。民は一人ひとり考えが違うのであるから、言葉が通じないのでは議論もできない。日本人の考えの中身を普及させるには、まず日本語を世界の人々に広く覚えてもらうことが、その第一歩である。
経済連携協定 (EPA) に基づいてインドネシアなどから来日している九十五人が初の国家試験に挑んだ結果、二〇一二年三月二十八日、そのうちの三十六人の外国人介護福祉士が誕生した。外国人受験者の合格率は三十八%と、日本人を含む全体の合格率六十四%に比べて低かった。来日から三年で試験に挑んだ彼らには、日本語が壁となったことは明らかである。日本語は難しい言葉ではない。難しいのは、そのカナ漢字表記法である。

やはり三月に発表された看護師国家試験では、同じくEPAで来日した外国人の合格率は、わずか十一%に過ぎなかった。今回の介護福祉士の試験では、難しい漢字に平仮名が振られた。そして日本人の合格率も例年よりも、十五ポイントほど上がっている。つまり、試験自体の難易度が下がっていたのだ。せっかく来日した研修生も、我が国の資格試験の仕組みで落とされている。関係者は何についての資格を選定しているのか考えたことがあるであろうか。試験の難易度には、漢字に関する難易度が大きく関わっているのである。技術の内容は、外国においても学ぶことができるものである。

漢字は漢人 (中国人) が自分ちの考えを表現するために造った文字である。中国人の考えの中身が増えてゆかなければ、漢字の数も増えては行かない。また、漢字の数が増えると困る人も多い。中国人は、外国人の考えの内容を表わす文字は造らないから、彼らは外国人の考えを漢文の中に取り入れることが難しい。かくして、我が国のカナ漢字表記には、カナ書きの外来語が増えてゆく。カナ書き外来語をたくさん覚えて、一応国際通になったつもりでいても、この人の言語はどこの国に行っても通用しない。さしずめ日本人の読み書きの努力とは、そういったものである。我が国で学ぶ外国人の日本語の便利度も同じ運命にある。

日本語をローマ字表記に切り替えて、さらに開かれた世界を目指そう。さすれば、我が国は書籍の輸出国になる。我々は世界中の知識人の関心の的になる。







何かしらの天才

2016-09-03 05:27:41 | 教育
>ちょっと天才というのとは違うかもですが、>きれいごとではなく、出会った子どもはみんな何かしらの天才だった。

そうでしょうね。個性的ですね。

>私が仕事でPCを使い始めたとき教えてくれた子>家からサッカーボールを一度も落とさずリフティングしながらきた子>バットの素振りで手の皮が大工さんのようになっていた子>幼稚園のころのカバンを高校卒業するまで通塾用にしていた子>オルガンの上手い子>ノート1ページに新聞紙より細かい字でびっしり書く子

いろいろありますね。

>これは適当に思い出した順ですが。>この子たちを成績順に序列化するのはもったいないと想いました。

そうですね。序列化すれば、個性が消えてしまいます。

>なんでそういう才能が軽視されるのでしょうね・・・>もちろんみんなふつうに就職できてますが。

みんなふつうに就職できて、よかったですね。’上とみるか、下とみるか’ のメンタリティ (考え方) で序列化するときには、個性・才能は無視されますね。序列判断は、礼儀正しい日本人の基礎となっていますからね。人を見損なってはいけない。礼を失したことになる。だから、序列判断は、善良な日本人の強迫観念になっています。

>でもなにかこう、スムーズにはいかないのですよね

身分・格式の世の中ですからね。格式ばればスムーズではない。

>何かしらの天才なのだから家でも学校でももう少しひろいあげてくれていれば>せめてテストごとに閉口しない、神経質になりすぎないような人生の初期段階を>もっと陽気に過ごせたはずなんですがね。

陽気に過ごせ。それに同感です。

>今の学校のままではただの要領の良い階級からのいじめです

処世術 (現実) ばかりが発達していますね。教育哲学 (非現実) が無い。
目先・手先は良く見えていても、行き着く先は何も見えていない。浅はかか。


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言語能力

2016-09-02 21:25:41 | 国際・政治


>江戸から今日までを振り返ってみたが、日本人のコトバの欠乏の原点にあるのは、自治共同体を守り育てるという意志にあると思う。

日本語には時制がないから、日本人には世界観がない。自分たちの ‘あるべき姿’ の内容を持つ共同体は想定できない。
また、日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。意思のあるところに方法はある。 (Where there’s a will, there’s a way.) その逆もまた眞である。日本人には、守り育てる意思もない。

>それが、明治→昭和の時代は、欧米列強に打ち勝つという意志に移行したと思われるが、経済成長を果たし、アメリカを抜いて以降、日本は目標=未来を見失っている。

未来社会の内容は未来時制と未来完了時制で語らなくてはならない。日本人にはその目標ができない。
日本語には、階称 (言葉遣い) があるので、相手に打ち勝つ恣意 (私意・我がまま・身勝手)は持っている。だが、それから先は想定できない。

>残念ながら私たち日本人は経済成長の勝利=豊かさの実現と引き換えに、自治共同体を守るという志を失い、西洋に変わる社会モデルを日本から発信するという大志を失った。日本人の言語能力再生のヒントはそこにある。

世界観がないから、社会モデルのグランド・デザインとか、マスター・プランのようなものは、日本人には想定できないし、発信もできない。
文法は言語能力を左右する。日本人は、時制ある言語 (英語) をも学んで、哲学的発想を身に着けるべきである。さすれば、高尚な人間になることができる。



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