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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

一位と二位

2017-02-10 11:55:50 | 政治
>オバマ大統領の就任演説のあと、感想を求められたわが国の総理大臣は「世界一位と二位の経済大国が協力してゆくことが必要だ」というコメントを出しました。>これは典型的に「日本人」的な発言だと言ってよいでしょう。

そうでしょうね。

>「日本は世界の中でどのような国であるか」ということを言おうとしたとき、首相の脳裏にまず浮かんだのが「経済力ランキング表」のイメージであったというのはまことに徴候的です。>もし、日本が軍事力でもいい順位にあれば、あるいはODAや国際学力テストの得点でいい順位にあれば、首相はその「ランキング表」をまず頭に浮かべ、それをもって日本の国際社会における役割を言い表そうとしたでしょう。

同感です。国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思っているのでしょう。憲法前文にその想いが書いてあります。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。日本語を正しく使うためには、まず言葉遣いを覚えなくてはなりません。
言葉遣いは、上下関係を表します。正しい上下関係を知らなければ、正しい日本語゛は使えません。
日本人の礼儀作法も序列作法になっています。正しい序列関係を知らなければ、正しい言葉遣いもできず、礼儀正しい日本人にはなれません。
人を見損なってはいけない。序列判断は、日本人にとっての強迫観念になっています。序列のないところには、日本人の礼儀もありません。

>ある国の国民性格は、そのGDPや軍事予算の額やノーベル賞受賞者の数などとは無関係に本態的に定まっているという発想がここにはありません。>私たちにとって、国民性格の問題は「誰それに比べたときに、どの順位にいるか。“トップ”とどれくらい離れているか」というかたちでしか立てられない。>ぼくはこのようなもっぱら他国との劣等比較を通じてしか国民性格を規定することのできない不能こそが日本人のもっともきわだった国民性格ではないかと思っています。

同感です。’上とみるか、下とみるか’ の判断が、我々日本人には、とりわけ大切ですね。天皇制の根本原理のようなものかもしれませんね。

>日本人の国民性格は非日本人との比較を通じてしか自己の性格を特定できないという他者依存のうちに存する。>「日本人はイエスとノーをはっきり言わない」とよく言われます。>たぶん、その理由は、日本人は「誰が何と言おうと言いたいこと、言わなければならないこと」を持っていないからだとぼくは思います。

そうですね。無哲学・能天気では、自分の考えはありませんね。
現実の内容は、頭の外側に存在します。これは見ればわかります。内容は一通りです。
非現実の内容は、頭の内側に存在します。これは見てもわかりません。話を聞いても理解できる場合と、できない場合があります。その内容は一通りではありません。矛盾を含まない話は、すべて正しい。内容を全然持たない人もいる。
現実の内容は、普通の言葉で話ができる。日本語は、普通の言葉であるから、実況放送・現状報告の内容を表現できます。
非現実の内容は、時制ある文章の内容となって、表現されます。時制には、過去時制、現在時制、未来時制などがあります。時制は日本語文法にはなく、英文法にはあります。ですから、日本人は、頭の内側の内容を非現実の内容として表現できません。それで、自分の考えが無いのです。

>「自分が言いたいこと」よりも、「相手が聞きたいこと」「相手が聞きたくないこと」の方が気になる。>だから、そちらをまず優先的に配慮する。

そうですね。自分に考えが無いのであるから、相手の考えを聞くしかありませんね。

>相手との関係の中で、相手に好かれるか嫌われるか、尊敬されるか軽蔑されるか、そのことが最初に意識される。>相手が自分をどう思おうと、「私は言いたいことを言う」ということがない。>コンテンツの整合性や論理性よりも、「それを言ったら相手にどう思われるだろうか」という気遣いの方が優先する。

そうですね。自分には考えが無いから、相手の態度に注目しますね。相手次第で、自分の態度を大きくなったり、小さくなったりさせている。気分・雰囲気に乗っているのですね。

>それは巷間にあふれる「アメリカ論」「中国論」「韓国論」などなどすべての国民論に共通しています。オバマ大統領就任の後、あらゆる新聞の社説は「新大統領は日本に対して、親和的だろうか、それとも威圧的だろうか。日本の要求に耳を貸してくれるだろうか、日本を軽視するだろうか」ということをまず論じました。>アメリカの東アジア戦略が「何であるか」よりも、それを物質化する際に「どういう口調で、どういう表情で、どういう物腰で」日本に触れてくるのか優先的に論じられた。>これはまことに徴候的な態度であるとぼくは思います。>これがまことに徴候的な態度であるということにメディアの当事者が誰も気づいていないという点で際だって徴候的であると思います。

同感です。自己の雰囲気・印象を歌い上げることに徹するのは、日本人の伝統ですね。あまりにも自然なためか、日本人のメンタリティを論ずる人は昔から誰もいませんね。

>相手がまず仕掛けてきたことにどう効果的に反応するかという発想のことを武道の術語では「後手に回る」と言います。>日本は外交において、決して「先手を取る」ということがない。>進んで「場を主宰する」ということがない。>つねに誰かが主宰した場に後から出向いて、相手の出方をまず見て、とりあえずもっともフリクションの少ない対応をする、というのが日本外交の基本姿勢です。

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。それで、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思が無ければ、能動的態度はとれない。それで、日本人は、受動的態度に終始する。


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主体性のなさ

2017-02-09 22:00:01 | 教育
>既存の学校教育では教師の進める授業をなぞるだけという暗記が殆どだと思いますが、その結果増える人間は言われたことだけに従うロボット人間です。

同感です。学校教育は ‘なぞるだけの暗記’ と ‘ロボット人間’ ですね。

>勿論、言われたことに忠実に従うことが全て悪いことだと言うのではありません。

その通りです。特に初等教育ではね。

>状況を自分自身で把握し、自ら考えて動くと言うプラスアルファの素養が欠けた人間が育ちやすいということです。

日本人には意思がない。だから、能動的態度が取れない。それで、主体性がない。

>・・・・・・・・・・、とにかく私が今思うにはこうした主体性の無さというのは学校の授業や基本方針が長年染み付いているからこそだと感じます。

アメリカ人のように ’Independent!’ (自主性がある.) といった褒め言葉はないですね。さりとて、恣意 (私意・我がまま・身勝手) は固く禁じられている。’不自由を常と思えば不足なし’ ということになっている。だから、労働も滅私奉公になりがちである。

>教師という支配者が決めたとおりに動く事だけが善とされ、命令されたことと違うことをする人を悪とする風潮が学校では今も根強いはずです。

正解はただ一つに定められている。教師という支配者がそれを持っている。そして、上意下達する訓練に明け暮れている。

>そして正解至上主義で間違うことが一方的に悪いことだとみなされるので、失敗を前向きに捉えて次に生かすにはどうすればいいのかという発想自体が非常に希薄なのです。

正解は、教師という支配者が握っている。生徒は、それを教えとして乞う受動的態度に終始する。
意思のあるところに方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way.) 意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だが、英語にはある。だから、日本人には解決方法を発想する知力に乏しい。

>そうした命令に従うことだけを強制され続けた結果育つ人間というのが、失敗に過敏になり指示されたことに従うだけで自分から色々と考えることが出来ない人間ではないでしょうか。

同感です。生徒にあるのは罰を受けたときの被害者意識だけ。これは、アニマルも同じです。アニマルは調教により、訓練するしか方法がない。我々は、そうはなりたくないですね。


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言外の主張

2017-02-07 11:42:50 | 文化



>日本人のDNAを継承し、日本人として生まれ育ったら、知らずして思考や感情や気質は日本的なものになり、それが日本人的な行動へと結実していく。

DNAの継承かどうかは、私は知りませんが、私達の思考や感情や気質は日本語に関係しているようです。

>気質とは自分の身体の中に流れる大河のような、理屈ではない行動原理を生み出す。

英米人には有言の説得力がある。理性と英語が頼りである。
現実の内容は、低俗である。その内容は頭の外側にあるので、見ればわかる。
非現実の内容は、高尚である。その内容は頭の中側にあるので、見てもわからない。話を聞いて理解できることもある。理解されれば有言の説得力を持つ。
日本語は頼りにならない。非現実 (考え) の内容が文章形式で表せないからである。文章に頼らず、バラバラな単語で、心から心へと技術の粋を伝えている。伝統的な ‘以心伝心・不立文字’ のようなものか。短形式の美の伝達か。
趣味は論拠にはならない。 (There is no accounting for tastes.) それでいて日本人の言外の主張は外国人に対しても無言の説得力を示して、受け入れられている。趣味は議論にはならないが、金にはなる。我々は、このやり方で現在成功しています。我が国は、技術立国となり経済大国となった。誠にありがたいことです。

>そうであれば、日本人は日本人気質に沿って生きるというのが一番生きやすいし、成功しやすい。

同感です。’鵜の真似をする烏’ は失敗するでしょうね。だが、それ以外にも世界のあること、我々は知っている必要がありますね。そうでなければ、我々は釈迦如来の手のひらの中にいる孫悟空のような状態になります。世界観が無いままで五行山により自由を拘束されます。

>日本人は、日本人であることに徹すれば勝てる。こうした原理を知っている日本企業は生き残る。逆にここから外れた日本企業は滅びる。

現実の低俗な内容を話す人は普通の人。
非現実の高尚な内容を話す人は尊敬される人。指導者になれる人です。非現実の話は、日本人にはできない。このことを知っていることも非常に重要なことだと思います。特に、国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う日本人には、見逃すことのできない事実であると私は考えています。

>幸いにして多くの日本企業は、自分たちが生き残るには日本人気質を生かすことであると自覚しているように見受けられる。

‘得手に帆を揚げ’ ているというわけですね。同感です。ありがたいことです。

>そうであれば、保護貿易と関税で混乱する世界でも日本企業は生き残るだろう。

パール・ハーバーの暴挙が無ければよいのですがね。

参考

以心伝心 (いしんでんしん) 禅宗の語で、言葉によらず、心から心へ伝えること。
不立文字 (ふりゅうもんじ) さとりは、文字などによってできるものではなく、心から心に伝えるべきものであるとの、禅宗の立場をしめす標語。


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がんじがらめの生活

2017-02-06 10:50:06 | 文化
>日本での生活は、がんじがらめ。

今の日本には自由であったら困るのでしょう。恣意 (私意・我がまま・身勝手) の自由は、’自由のはき違え’ になりますからね。さりとて、日本人には意思 (will) がないから、意思の自由も考えられない。’不自由を常と思えば不足なし’ というところに落ち着くのでしょう。

>違和感・不整合感が腹の底でたまっている。

理性の内容は文章になります。文章の内容は脳裏にたまります。我々にはリーズン (理性・理由・適当) の教育が必要ですね。社会はリーズナブルな答えを求めています。議論をして、自己の内容の正しさを検証しましょう。矛盾を含まない回答は全てが正しい。
恣意は文章内容にならない。小言、片言、独り言のままでいる。非理性の内容は腹の底にたまる。談合を開いて腹の探り合いをする。腹を括って決着にこぎつける。文章内容にならないから意味もなく、矛盾も指摘できない。その決着に説明責任を持つものはいない。不透明である。とかく、この世は無責任となる。

>・・・日本人はまた我慢強いから、表に出さない。

日本人は、理性を表現する方法を持たないので、発表なしで我慢せざるを得ない。非理性を公にすれば叩かれる。だから、表現しない。

>街を行く人や電車に乗っている人の表情が暗いのも、自分の中に溜めているから。

同感です。腹にためておくのは良くないですね。さりとて、公衆の面前で腹を割って恣意を話すことも難しい。それをすれば、きちがい扱いにされる。
理性の教育を受けて、リーズナブルな意見を公言すべきですね。さすれば、その人の表情は明るくなる。

>でもだんだん我慢できなくなってきた。

とすると、腹芸をして見せるのですか。もう一度難波節の世界に逆戻りするのではないでしょうね。それでは、我が国は世界の進歩に遅れます。
我慢などしないで、理性教育による合理的な解決法を選ぶべきですね。理想の未来社会を建設することを考えましょう。これが建設的な態度というものでしょうね。


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