ガトゥ・ハロゥ

八犬伝と特撮と山田風太郎をこよなく愛する花夜のブログ。

真夜中の弥次さん喜多さん ~八犬伝とのカップリング~

2005年06月05日 02時07分19秒 | 八犬伝いろいろ
うちにあった「世界文学全集」も、小・中の図書館にあった
日本文学なんたらでも、「八犬伝」と一緒に収録されてるのは必ずと
いっていいほど「東海道中膝栗毛」。

おかげで「弥次さん喜多さん」に関する知識まで一緒に調べてしまったのも
懐かしい思い出なワケで。現代語訳で大幅にカットされまくりな場面は
男同士のアレなシーンらしいとか、そもそもの物語が時代劇ボーイズラブ
というか「大店の若旦那と女形役者のかけおち」なお話らしいとか。

信憑性は半々だけどいろんなイミで「八犬伝」も同様に歪んでますよな。
こっちの歪みの筆頭は「物語一の絶世の美女」が女装犬士の毛野だってこと。

そんなワケで「真夜中の弥次さん喜多さん」観てきました。

上記の文章とはほとんど関係なく個人的にクドカン好きなので。
「木更津キャッツアイ」では、薬師丸博子の飛びすぎた演技に
ちょっと自分的にはイターな感じ。悪くはないけど角川版「里見八犬伝」
で可憐な静姫を演じていたとは思えない。面白かったんですけど。
思えばあの「ぐへへおばさん」@中村玉緒も過去に「八犬伝」で
伏姫演じていたし。それを思えばなんのそのであったり。

両者共に、静姫・伏姫時代は可愛かったのに・・・。

で、「弥次さん喜多さん」。
ひたすら弥次さんが「喜多さーん!!!」又は「てやんでぃっっ!!」。
って叫ぶ話。いいっすねぇ。一途で純情馬鹿。奥さんいるのに男好きになって
喜多さんと手に手をとって御伊勢さんへ駆け落ちのごとくに逃避行。
もとい参拝旅行へ出発。

「御伊勢さんに行けば何かが変わる」
芸術家の卵がパリを目指すように、音楽家がウィーンを目指すように。
ラグビー選手が花園を目指すように、高校球児が甲子園を目指すように。
サッカー選手が国立競技場で
「うつむくなよ、振り向くなよ~♪」を歌いたいと願うように(それは違う)。
弥次さんと喜多さんは御伊勢さんへ向かいます。

ヤク中の幻覚に溺れて喜多さんはしょっちゅう現実逃避。
リアル=リヤルを求めて夢と現実ごちゃ混ぜの混沌世界を一緒に進んで、
途中で分かれて、また一緒になって突き進む。

「可愛い」そして「可哀想」な喜多さんの為に一生懸命な弥次さんがいと哀れ。
でも本人が幸せならいいのかも。けど、散々喜多さんに振り回されたあげく
殺されてしまっても、もう一度「喜多さんに会いてぇ」とばかりに弥次さんは
死と生の間の世界で生き返る為に奮闘する姿にはただ一言「けなげ」。

弥次さんが三途の川付近ドタバタしているころ、喜多さんも
現実でも夢でもないユメウツツの世界でひたすら待ち続ける。

この辺りで、弥次さんの現実面も初めてさらされる。
現実逃避のはけ口を喜多さんに向けていただけなんじゃないの弥次さん?
なんて思ってしまう展開。でも、どんな状況にあっても
「喜多さんに会いたい、旅を続けたい」と思う弥次さんの一念は
孵化寸前の鶏の卵のごとく。
ヒナが内側から、外から親鳥が同時に殻をつついて穴を作るように、
二人は現実非現実の境目で見事再会を果たして又御伊勢さんへの旅へ。
原作のグロテスクさは少し割愛。そして弥次さん喜多さんも若々しい青年。
若さゆえの暴走では収まりきらないノンストップ青春ムービーらしい清々しさ。

だけど。

「そして、二人は御伊勢さんにたどり着いて幸せになりました」
そんなオチはこの時点では出てこない。
そもそも二人の幸せはお互いにお互いを思って二人ぼっちでいることだから。
開放的でいて排他的で。

「御伊勢さんへ行くまでが幸せでした」

と見て思うのが正しいような気がする。
事実彼らの為に人は死んでるんだもの。ギャグでも死ぬ人は死ぬ世界なワケで。

「木更津キャッツアイ」でも主人公のぶっさんの死は結局そのまま存在してて。
物語の最後で生き返ってハッピーエンドになるかと思いきや、その後の
ナレーションでぶっさんは
「1年以上しぶとく生きのびて22歳でこの世を去りました」、と
まことしとやかに語られる。

そう、あくまでこれらは「主人公の為の物語」。
「木更津」ではぶっさんが生きてる間。
「弥次喜多」では二人が旅をしている間。

閉じられた世界の自己満足完結型の物語。
書き忘れてましたが、これは思いっきり「ホモ」のお話です。

純情道中ヤクチュウ弥次喜多チュー。

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