‘다시’と‘또’は,どちらも「また」という副詞ですが,意味やニュアンスに違いがあります。‘다시’は,過去にしたことに対して,不足や不十分な点があったことを認識し,それを補うために一からやり直すことを意味します。例えば,“이해가 안 가는 부분을 몇 번이나 다시 읽었다.”と言うと,よりよく理解するために改めてもう一度読んだという意味です。一方,‘또’は,単純な反復の意味で用いられます。
したがって,“다른 방법으로 다시 한번 해봐라.”と言えますが,“다른 방법으로 또 한번 해봐라.”とは言えません。 “또 한번”というのは,以前の方法や姿勢を変えずに,同じやり方で繰り返すことであり,“다른 방법”という言葉と矛盾するからです。しかし,口語では ‘또’が‘다시’を押しのけて,区別なく使われることがよくあります。
“다시 의논합시다.”と言うと,(まだ決着がついていないので)また改めて相談しましょうと言う意味です。このようには‘다시’には「改めて」「仕切り直し」の意味があります。“이 보고서, 다시 써 오게!”と言ったら提出したレポートを「改めて」書き直してきなさいという意味になります。提出したレポートの不備を指摘し,それを改善した上で,再度提出するように指示しています。もし“이 보고서, 또 써 오게!”と言ったら,提出したレポートはどうでもいいので,単に別のレポートをもう一つ書いてきなさいと意味になります。 ‘또’には,単に「また」という意味で,やり直すなど,過去の行為や結果に言及する意味がまったくないのです。
“다시 태어나다”は,今の自分を否定し,新しい人生をやり直したいという意志を表明しています。“다시 시작하다” は,これまでの失敗を反省し,新しい気持ちでやり直したいという意志を表明しています。このように‘다시’には,より良い未来への希望や楽観が込められています。“다시 건강이 좋아지기를 기원한다.”は,病気やけがからの回復を願う言葉ですが,今より良い健康を望んでいるという意味なので,これを“또 건강이 좋아지기를 기원한다”と置き換えることはできません。
‘다시’と‘또’は,どちらも「繰り返し」という意味の副詞ですが,お腹が空くように自然に繰り返される事には‘또’が使われます。“또 배가 고프다”とは言えますが“다시 배가 고프다”とは言えません。
古典映画に“바람과 함께 사라지다(風と共に去りぬ)”と言うのがありますが,主人公のスカーレット・オハラは“내일이면 내일의 태양이 떠오를 거야(あしたはあしたの日が昇るわ)”」という有名なセリフを残しました。このとき,“내일이면 내일의 태양이 ‘또’떠오를 거야“と言うこともできますし,“내일이면 내일의 태양이 ‘다시’떠오를 거야“とも言えます。ただ前者は単なる日の出という自然現象の繰り返しのみを意味するのに対して,後者には昨日を否定し,新たに始まる明日,つまり希望を暗示する象徴的な意味合いがあります。‘또’ 떠오르는 태양と‘다시’ 떠오르는 태양とではこのようなニュアンスの違いがあるのです。
冬になると “꺼진 불도 다시 보자”という「火災予防」の標語の書かれた看板を町のあちこちでよく目にします。ここで“꺼진 불도 ‘또’ 보자”と言ってしまっては,火災予防という目的を十分に達成できません。“꺼진 불도 다시 보자”という標語は,消えた火でも再発火の危険があることを意味しています。火を使うときは,たとえ消えたと思っても,もう一度確認して火が完全に消えていることを確認することが大切です。火を使った場所をもう一度丹念に確認することが不可欠です。消えた火を‘또’見たところでは,火災予防の目的を十分に達成できません。消えた火は必ず‘다시’見るべきです。
火に関することわざに“꺼진 불을 또 봐야 소용없다”というのがあります。直訳すると「消えた火をまた見る必要はない」という意味です。この諺は,過去に失敗したことをいつまでも引きずって,前向きに行動できないことを戒める意味があります。また,過去に起こったことは変えられないので,それをいつまでも悔やんでも仕方がないという意味もあります。この場合は‘또’が使われます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます