京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

小浜城について。

2008-06-21 01:36:50 | 北陸の石垣。
(画像なし・投稿です)

「慶長6年(1601年)京極高次が着工し
その子、忠高にいたる33年間に城の大半を造り

寛永11年(1634年)酒井忠勝が藩主となり
寛永15年、三層の天守閣を築いた

明治4年(1871年)まで
酒井氏15代、260年間の居城であった

明治4年12月
この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく、改造工事中
二の丸櫓の工事場から失火し
城の大部分を焼失した」

(設置看板より)

調べてみると、なかなか興味深いです。

京極氏以前
小浜を治めていたのは
丹羽長重・浅野長政・木下勝俊

木下勝俊は・・・
北政所(豊臣秀吉の正室)の兄・木下家定の嫡男です。
弟に小早川秀秋
妻は森可成の娘・うめ(大津出身かな?)です。

その木下勝俊は、秀吉から見て
数少ない縁故者でしたから
非常に重用されていたようです。
小田原征伐や朝鮮出兵などで功を上げ
小浜に所領を与えられました。

その彼・・・
関が原の戦いにおいては東軍に所属し
徳川方の命により
鳥居元忠とともに伏見城に配置されたのですが

何を思ったのか
戦う前に城を出てしまったそうで
その結果
伏見城敗北
大原・宝泉院で供養されている・・・
血天井が物語っている惨状が繰り広げられました。

当然
戦後処理にてお怒りを受け
改易
(その後、回りの配慮で、岡山の足守藩に配封されました)

同じく
関が原の戦いで・・・
最初は西軍に居たけど
途中から東軍に加担した
京極高次
(後から述べますが、複雑な縁故の板ばさみに悩んでました)
所領の大津城にろう城して、西軍と戦いました。
戦いでは京極氏の敗走になってしまいましたが
このろう城のおかげで
西軍が、関が原の本戦に遅参してしまう結果になりました。

このことが功を奏して
京極高次、小浜に所領を与えられました。

京極氏
戦国時代では名を馳せた
エリート大名ですね。
(て、あんまりよく知らないんですけど)

京極高次の正室はお初
お市の方(信長の妹)の三人娘のまんなかの娘です。
つまり
姉は、豊臣秀吉の側室・淀殿であり
妹は、徳川秀忠の正室・於江与の方なんです。

一見
三姉妹の中では、一番ぱっとしない感じの?嫁入りですが
実は
一番格が高かったりするみたいです。
実際、お初(夫の没後、常高院)は
江戸幕府成立後、険悪になった・・・
大阪方(姉・淀殿)と徳川方(妹の嫁ぎ先)の仲介に奔走していたらしいです。
歴史の影の立役者?

慶長19年(1614年)
大坂冬の陣では、息子・京極忠高の陣内で
和議の仲介を務め
両家の和議に尽力しました。

その後
彼女が亡くなったのは
遠いお江戸でのことでしたが
遺言によって
彼女が建立した小浜の常高寺にて葬られました。
(確か、小浜市街から高浜方面・・・トンネル出たところです)


さて
話は戻りますが
京極高次は近江の高島にも所領を持っており
大溝城に居住していた時期もありました。

(お侍さんもサラリーマン的ですな)


さて
京極氏二代
無事安泰
特に幕府に睨まれるようなこともなかったようですが
(逆に幕府の信頼が厚かったからかな?)
寛永11年(1634年)には
長州の毛利家にたいする押さえとして
京極氏が室町時代に守護をつとめた・・・
出雲国、隠岐国二カ国へ加増転封されることとなりました。
(出雲にゆかりの深い人だったんですね!

以後
幕府の信頼厚い酒井忠勝が配属されて
明治維新まで
酒井家が代々統治しました。