おじいちゃんの小さな疑問集(旧:おもりぽ)

「おじいちゃんがふと抱いた小さな疑問」を、載せさせていただきます。答えや共感や異論があればぜひコメントを!

首都圏電車路線リポート5.有楽町線

2007年12月26日 | Weblog
【有楽町線】最近の写真では銀座線車両とあまり見分けつかないなぁ…

 首都圏の地下鉄の路線の中では、比較的新しい路線だと思います。大学2年生の時に、池袋が始発の、私鉄沿線に引越しをしました。それ以降は大学に通うために、池袋から市ヶ谷までこの有楽町線を利用していました。

 当時は池袋駅と、新富町駅が起点と終点だったように記憶しています。今は路線がだいぶ伸び、埼玉方向は和光市あたり、東京湾方向には月島をへて新木場駅というのが路線の全容のようです。

 学生時代から、不思議に思っていたことがあります。前に紹介したJRの総武線は、新宿から秋葉原方向に向かって行くと、市ヶ谷、飯田橋の順に進みます。ところが有楽町線は、池袋から有楽町方向に向かうと、飯田橋、市ヶ谷の順です。池袋から有楽町に向かっても、新宿から秋葉原に向かっても、おおよそ方角的には変わらないのに、なぜこの2つの駅の順は逆転するのでしょう?

 もう1つ、有楽町線には謎があります。それはどうも、風評としてよくある話のようなんですけど、この路線は軍事路線だという説です。成増という、自衛隊の駐屯地の駅がある。永田町、桜田門といった政治の拠点を通り、有事の際は国会議事堂から地下で有楽町線がつながっている。他の地下鉄に比べ、線路が施設されている電車が通る幅が広くなっているのは(そう感じる)、戦車が通れるようにしているからだ。そんな風評ですが、真偽はどうなんでしょうね?

 ぼくにとっては、学生時代に利用した市ヶ谷の駅や、東銀座の会社に通うために利用した新富町の駅と、いずれもそのための乗り換え駅だった池袋の駅が、思いのある駅ということでしょうか。有楽町線からの乗り換えで印象深いのは永田町駅で降り、赤坂見附駅への移動です。有楽町線永田町駅のホームから半蔵門線のホームに移動し、赤坂見附のホームまで延々歩いて移動します。歩く距離はゆうに1駅分以上あるんじゃないかと思える距離です。
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首都圏電車路線リポート4.銀座線

2007年12月25日 | Weblog
【銀座線】

 丸の内線のときに、丸の内線か銀座線が最も古い地下鉄路線ではなかろうか?と書きました。クリスマスの今日は、銀座線の方の話しです。この地下鉄線は渋谷駅と浅草駅を起点と終点にして走っているわけで、東京の地名の有名どころが、たくさん駅名として登場する路線です。渋谷から浅草方向に向かい、表参道、赤坂見附、新橋、銀座、日本橋、神田、上野、といった具合に。

 都内の地下鉄では、郊外に向かう私鉄と相互乗り入れをしている路線がけっこうあります。この銀座線と丸の内線は、私鉄と相互乗り入れしたりしていません。渋谷から先の東急田園都市線とは、半蔵門線が相互乗り入れしています。浅草から先の京成線とは、都営浅草線が相互乗り入れをしています。銀座線や丸の内線が相互乗り入れの対象にならないのは、きっと電車のサイズの規格が違っていて、小さく(特に横幅が狭いと思う)、他の路線の電車が走れないからじゃないかと思っています。例によって、調べたわけじゃないんだけれど…。

 かつて銀座線はどの駅のホームに進入する際にも、もれなく電車内の照明が一旦落ちて、5秒後ぐらいに点灯するという事象を起こしつつ走っていました。これは、電力を得る軌道がホーム走行中と、ホーム以外走行中の時で左右反対になる方式のため、そのつなぎ目で一旦電力取得が途絶えるという理由によるものだそうです。ご縁があって仕事をさせていただいた、東京メトロの方からちゃんと教わりました。現在は改善されてそんな事象はありません。いつ直したのか聞き忘れましたが、すくなくともぼくが大学生の頃は、照明が途絶えていたと思います。

 ぼくが銀座線を最も多く利用したのは、20才代の中ごろから30才代の中ごろにかけてです。この頃勤めていた広告会社が銀座線三越前駅の近くにあったのです。銀座線を多く使う理由は2つありました。当時からぼくは埼玉に住みはじめていたため、上野で乗り換えて三越前駅の会社に向かう通勤のため。もう1つは、広告主であるクライアントが日比谷や新橋にあり、三越駅前で乗って銀座、あるいは新橋で降りて、足繁く通う必要があったからです。多い時には日に2~3回、クライアントと会社間を行ったり来たり。都合、何千回通ったことでしょう?

 頻繁に使うにあたって、慌ててホームにいる電車に飛び乗るということは、めったにしたことはありません。なぜなら、銀座線の運転時間間隔って短く、次の電車がすぐ来るという安心感がある路線だからですね。
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首都圏電車路線リポート3.総武線

2007年12月20日 | Weblog
【総武線】

 いよいよJR東日本の路線の登場で、千葉から三鷹などに向かう路線、総武線です。東京駅から高尾などに向かう中央線が平行して走っています。

 さだまさし、という人の「檸檬?」というタイトルの歌で、「食べかけの夢を聖橋から放る/各駅停車の檸檬色がそれを踏み潰す」と、たしかそんなような内容の歌詞があったような気がします。「聖橋」とは御茶ノ水駅の神田方向の出口を降りた所の橋で、「各駅停車の檸檬色」とはこの総武線のことですね。

 今はアルミ車両がほとんどですが、かつては鉄の車両で、総武線は黄色(レモン色)に塗られていて、中央線はオレンジ色に塗られていました。今のアルミの車体のラインや、路線案内図は同じ色使いですよね。中央線は平行して走っている区間では、東京、神田、御茶ノ水、四谷と、所々しか停車しないのに対し、総武線は全駅に止まるため「各駅停車」という表現を使ったのだと思われます。

 前回は丸の内線を紹介しました。上京してすぐは新宿御苑駅から四ツ谷まで丸の内線に乗っていて、四ツ谷で乗り換えて市ヶ谷まで通っていました。四ツ谷で地上に出るまでの東京メトロは、地下鉄線だから当たり前だけど暗く、それに対して総武線は、これも地上を走るから当たり前だけど、ずいぶん明るい。それと外堀と外堀通りが横にあるので、とても視界が広々としている。だから学生時代に乗った総武線というと、明るく広々とした印象です。

 一方、大学を卒業して勤めた会社で、最初に通ったのが新小岩駅が最寄のオフィスでした。この時は池袋始発の私鉄沿線に住んでいたので、池袋から飯田橋まで有楽町線で行き、新小岩まで総武線で通ったわけです。新小岩というのは結構猥雑な街で、浅草橋駅あたりから少しずつ、雰囲気がそっちに寄っていく感じがあります。

 新小岩では会社の新人研修で、主に沿線を千葉方面に向かって降りた駅で、飛び込み営業をやらされました。毎日あちこち無駄に歩き回らされたから、千葉方面に向かって錦糸町よりむこうの総武線には、良い印象はありません。同じ路線でも、走行区間によってだったり、その時の自分が置かれた状況によってだったりで、ずいぶんと持つイメージが違ってしまうものですね。
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首都圏電車路線リポート2.丸の内線

2007年12月18日 | Weblog
【東京メトロ丸の内線】

 こないだから始めた、首都圏の電車路線巡りです。前回の京浜急行線に続いては、丸の内線。いわずと知れた、東京メトロの地下鉄線です。

 地下鉄線で最も古い、つまりは日本で最初の地下鉄線って、どの路線なんでしょうね? ぼくは銀座線か、この丸の内線ではないかと以前から思っています。調べればすぐに正解が解ることですが。その気がなくって今日まで、ずーっとそう思ったままですけど…。

 そういえば以前読んだ椎名誠のエッセイに、丸の内線と思われる記述がありました。丸の内線は、池袋を始発に、大手町や銀座を回り、新宿や中野方面にぐるんと廻って走る路線であることが特徴。車両は昔も今も、赤を基調にした色使いです。

 ぼくにとって丸の内線は、2つの深い思いがある路線です。1つめは、大学に入学して上京後に住んだのが、新宿御苑駅が最寄駅だったので、沿線住民としての思いですね。当時は新宿御苑から四谷まで丸の内線を使って、大学に通っていました。今はもう亡くなった(と思うけど)、映画評論家小森のおばちゃまが、きっとこの駅の周辺に住んでいるらしくて、何度か新宿御苑駅のホームでお見かけした記憶があります。四谷3丁目駅あたりから、新宿御苑駅、新宿3丁目から新宿までの沿線の街を、貧乏学生時代に頻繁に歩き回ったものです。

 2つめは、東銀座の広告会社に勤めていたころ、頻繁に使っていた思いです。当時ぼくは広告会社の中で媒体担当でした。小さな会社だったので媒体担当というと、新聞社、雑誌社、テレビ局、ラジオ局、その他あらゆるメディアを巡らねばなりません。そこで、東銀座の会社から銀座駅まで歩き、丸の内線を使って各社に行くことが多かった。大手町の日経、サンケイ、読売の各新聞社と、TAIMビルのTAIM。日経BP社は淡路町。角川は本郷三丁目。文化放送は四谷といったぐあいに。

 その他トータルで考えると、上記以外の丸の内線の駅では、赤坂見附駅を使うことが(降りるのも銀座線への乗り換えも)比較的多いかな? 丸の内線で新宿から向こうの中野や荻窪方面へ行ったことは、おそらく1度か2度しかありません。

 ところで広告会社時代に、丸の内線内をオレンジ色の銀座線の回送電車が走っているのを、大手町駅か銀座駅かのホームで、1度だけ見た記憶があるのです。それって長い丸の内線利用経験の中でたった1回だったので、夢か幻を見たような気がしないでもなく…。以前、東京メトロのお仕事をさせていただく機会があった時に、そんなことはありえるのか聞こうと思いつつ、つい聞くのを忘れてしまって、残念。
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こぉんなバイトがあったぞリポート.8

2007年12月17日 | Weblog
【幼稚園児動物園送迎の添乗員】

 アルバイトリポートを続けていますが、バススキーツアーの添乗員がひと段落したところで、同じバス会社から頼まれた、幼稚園児送迎のバイトについて紹介させていただきます。

 バススキーツアーのバイトをしていた頃、悪友のとこにバス会社から電話があって、幼稚園児を上野動物園に送迎するにあたっての、添乗員をやってくれないか頼まれたとのこと。朝早くにバス会社の駐車場を出て、9時ごろ幼稚園に着く。バスに乗せた子供達を上野動物円で降ろして、午後早めの動物園見学終了まで待機。動物園から幼稚園まで連れ帰る。

 そんな概要で、スーツにネクタイ姿であることが必要。バス2台なので2名添乗員を探してるそうで、「スキーツアーのオイシイバイトを失いたくないこともあるから、お前もやろう」と悪友が言います。平日なのと、朝早いのとで抵抗もありましたが、シブシブ応じることにしました。

 朝、幼稚園にバスをつけるとほどなくして、母親たちが幼稚園児を連れて集まってきます。子供達は母達に見送られ、若い先生達の引率によってバスに乗り込みます。2台のバスに全員が乗ったところで出発。子供達のおしゃべりと、母達の見送る声と、先生達の引率の声で、終始とーっても賑やかです。

 出発後、何か嫌な予感がしていましたが、先生のかけ声によってその時がやってきました。バスの園児達が全員で大きな声をそろえ、運転手さんと、ぼく添乗員さんに「××さん、よろしくお願いしまぁーす」と、挨拶をするのです。さすがに、「はいっ、みんな元気ですね。よろしくお願いしまーっす」と、応じないわけにはいきません。ニヒルだったりを気取っていた、男子大学生にとっては、おそろしく気恥ずかしい瞬間でありました。

 上野動物園での待機は、とても退屈してしまいましたが、喫茶点でお茶を飲んだり、公園を散歩したりして何とか暇をつぶしました。ようやく時間がきた帰りのバス内も、子供達の声がとても賑やか。幼稚園到着直前には「××運転手さぁん、××添乗員さぁん、今日は、ありがとーうございましたぁー」と、歌うような挨拶を受けます。

 幼稚園からバスが去るにあたっても、先生やお母さん、子供達の手を振りながらの見送りに送られ、終日気恥ずかしく、慣れない照れ笑いを浮かべてばかりの妙な感情に包まれて、5千円程度を稼いだ、バイトの1日でありました。

 ちなみバス内には忘れ物など1つもなく、灰皿や空き缶などゴミの掃除をする必要もなかった。当たり前といえば当たり前だけど、大人のスキーツアーとはずいぶん勝手が違いました。
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こぉんなバイトがあったぞリポート.7の③

2007年12月15日 | Weblog
【スキーツアーバス添乗員.その③】

 宿の部屋は和室で、運転手さんと相部屋が用意されています。金曜深夜に到着して翌日土曜は、宿からスキー場が離れていれば、バスでお客さんを送迎するという仕事があります。宿とスキー場が近ければ、まったく何の仕事もない1日です。

 ぼくらの宿泊費用は無料なのか、バス会社負担なのかわかりません。いずれにしてもお客さんには朝食と夕食の提供であるのに対し、運転手さんと添乗員には昼食も含めて提供されます。オマケに夕食時にはビールなど好きなお酒1本付という優遇だったような気がします。

 スキーをする場合は昼食後、レンタルでスキーを借りてゲレンデへ。しない場合は持ってきた本を、部屋やロビーで読みふけるといった具合に過ごしていました。お風呂はたいがいは温泉で、入り放題です。運転手さん達もだいたい同じような過ごし方。

 酒豪で、一日酒と温泉三昧。あるいはバクチ好きで、仲間とマージャン三昧で過ごす人もいるかも?と思われるかも知れませんが、意外にそんな運転手さんは1人もいませんでした。大勢の人を乗せるバスを運転するという自覚からか、どの運転手さんもまじめで、睡眠には特に気を使って十分眠り、居眠り運転にならない生活を心がけている方ばかりでした。

 このバイトで1番嫌だったのは、バスをバックして駐車させる際の誘導です。誘導方法の講習とかがあるわあけではなく、プロのバスガイドさんたちがやっている様子の見よう見真似で、笛を鳴らしながら誘導するわけです。ゆっくり止めるにあたっての合図と、緊急停止の場合の合図の違いに自信がなく、万一緊急に止めたい場合は、バスの側面を叩いて合図しようと決めていました。幸いその必要は1度も生じませんでしたが。

 もう1つ嫌だったのは、宿に到着する時間や、都内の会社などに帰り着く時間の見とおしを聞かれること。行くスキー場は都度違います(その方が添乗員のバイトには飽きずにすむので嬉しい)。何度も経験しないと、到着時間の読みは難しく、この手の答えにはできるだけ会話に、運転手さんを巻き込んで答えるようにしていました。

 日曜の昼頃には、都内に向けてスキー場を引き上げるのが、帰りの渋滞を避けるコツです。「せっかく来たのだから目一杯滑って帰ろう」という心理が働くので、出発が午後遅くなればなるほど混むのです。

 帰りも休憩は2~3回。差し入れをもらったり、サービスエリアは無料だし、宿では3食昼寝付きなわけですから、油断してるとバイトを終えるまでに2kg程度太ってしまうのですね。ぼくの悪友などは、このバイトを繰り返した時は、相当顔が丸くなって見えた気がしました。

 帰りのバス内は、往路と違って断然賑やかです。2泊を経て、かなり親密になっているので当然といえば当然ですが、仲の良いグループができたり、カップルっぽい雰囲気になってきている組もちらほら…。はしゃいで飲みすぎたりした女性がトイレに行きたくなって、ぼくのところに来て「休憩地点まであとどのぐらいか」と聞く事象は、帰路に多く起きます。

 幹事さんや、仲良くなった男性なども心配げに見守るなか、ぼくは運転手さんと顔を見合わせつつ、「さぁ、ここからは急に渋滞することも起きやすいので、読めないですねぇ。ガマンできなくなりそうになったらバス止めますから、遠慮なく言って下さい」なんて、意地悪な答えを返したりして…。

 それにしても、世話好きで面倒見のいい幹事さんは女性陣からもてるかというと、そうでもありません。みんなの面倒を見て忙しくしているうちに、あちこちカップルっぽい雰囲気が生まれていく。幹事さんは、特定の人と親密になる暇がない。幹事とは一見モテそうだが、実は損な役回りだという真実を、ぼくはこのバイトを通じて実感した気がします。

 お客さんを無事届け、必ずある忘れ物を急ぎチェックして返却。車庫までの道のりで、社内の灰皿等他のゴミも集めて片付けます。そして車庫につき、運転手さんにお礼を言って事務所に行き、3日分のバイト代1万5千円程度を受け取って終了です。

 拘束時間は長いけど、実労働はさほど多くなく、旅行幹事は損だという人生の教訓も得、食事やチップなどの特典もあり、当時ゲキヤセ1人暮らしの貧乏学生にはとてもありがたい、最高に割の良いバイトでしたっ!!

――――――――――――――
 バイトのリポートの次回は、このバス会社に頼まれた、幼稚園児の送迎を紹介したいと思います。
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こぉんなバイトがあったぞリポート.7の②

2007年12月14日 | Weblog
【スキーツアーバス添乗員.その②】

 「スキーが上手いとツアー客の女性陣からモテルかもよ」という悪友の甘言は、ツアーの客達がバスに乗った段階で、期待できないということを悟らされました。参加者は男女半々ぐらいで各バスに割り振られていて、目的はスキーであると同時に、同じ社内でもなかなか知り合えない男女が、仲良くなる機会でもあるということが一目瞭然でしたから…。大学生のバイトの添乗員なんて、明らかにお呼びではないのです。

 ここからは、お客をバスに乗せて後の、添乗員の仕事やその他について順を追ってご紹介します。迎え先に着くのは夕方でも、仕事を終えて客たちは乗り込んでくるので、全員集合までは結構時間がかかり、出発はどうしても夜近くなります。練馬インターから関越道に乗ると、この時間はあちこちの車がスキー(当時スノボはまだなかった)を積んでいて、多くの車の目的が一緒であることがわかります。

 往路のバスの中は比較的静かです。男女がまだ一緒のバスになって間もないこともあるので。たいがいは幹事役の男性が、添乗員席真後ろの一番前の席に座ってくれます。それでバスがサービスエリアなどで休憩した後の人数確認などは、この幹事さんがやってくれちゃうので、ぼくは幹事から聞いた結果だけを運転手さんに伝えればよく、とても楽ちん。人によっては菓子や飲み物類を差し入れてくれたりもします。

 休憩は2回程度、よほど渋滞がひどい時は3回取ります。このバイトをやって初めて知ったのですが、高速道のサービスエリアの店も、一般道沿いの休憩用の食堂兼土産屋も、運転手や添乗員向けに一般客とは区別した別室を設けています。で何と、われわれの飲み食いはセルフサービスですが、全てタダです。それどころか、店によって寸志の封に入った現金をくれたり、ポイント券をくれてポイント数によってウォークマンなどの家電品と交換できる制度になっていたりします。

 できるだけ自分ん所の店に寄って、バスの客を降ろして欲しい。そんな競争原理が働いた結果の制度なんですね。運転主さんがどこの店にするか、バイトの添乗員に相談することはないので、ぼくらにサービスすることの効果は疑問ですが。添乗員には現金の場合は当時で500円程度。運転手さんはおそらくは、その2倍か3倍程度の様子でした。

 休憩以外の走行中は、バス内の照明を落とし、お客さんたちは睡眠を心がけます。夜中2時頃宿に着いて入浴し、その後仮眠してから明朝スキーを始めるのに備えるわけです。ぼくは、曇るバスの窓の内側をせっせと拭くことにイソシミます。居眠りせずに、現地まで到着することが、最大の使命ですから。

 途中、積雪に対応するタイヤチェーンの装着をいたします。どの運転手さんもバスの巨大なタイヤにとても器用に、効率良くタイヤを装着します。ぼくは、寒さの中、降雪がひどい場合は傘をさしかけたりして、その作業を見守っているわけです。

 宿につくと、お客さん達を降ろすのと平行して、バス内に忘れ物がないかチェックします。財布とかライターとかサングラスとか、たいがい2、3個忘れ物があり、本人や幹事さんに渡します。多くの場合バス駐車場は宿から離れたところにあるので、その後そこまで行ってバスを止め、社内の灰皿とかゴミの類の片付け。その間車外で他の仲間とダベっている運転手さんもいますが、たいがいの人は手伝ってくれます。駐車場から宿まで一緒に歩き、同じ部屋で就寝ということですから。

――――――――――
 次回は宿での過ごし方と、復路での仕事に話を進めます。往路からしてすでに、とてもオイシイバイトだと思いませんか?
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こぉんなバイトがあったぞリポート.7の①

2007年12月13日 | Weblog
【スキーツアーバス添乗員.その①】

 このリポート、相当久しぶりです。前回を見てみると、学習塾の講師の経験を紹介していました。これはバイト経験としては最も長くやったものでした。そこで今回は、最もオイシかったバイト経験をご紹介したいと思います。

①職種 企業などが貸切バスで行く、スキーツアーのバスの添乗員で、バスガイドさんとは全く異なりガイドはしない、いわば運転手さんの助手役。

②給料 1日4000円~5000円で、1回のバイトが3泊4日なので、1回あたり15,000円程度終了時にもらえます。

③メリット 3日間の食事は会社持ち?なので、割は良く、副収入もあったりするんですね。

④デメリット あまり思い浮かばないんだけど、しいていえば他人の団体での遊びに仕事で付き合うのは、遊び盛りの学生にはちょいとイヤ。また、3食昼寝つきで肥っちゃうことも…。

⑤やったきっかけ いつもの大学の同級生の悪友がみつけ、一緒にやった。

⑥総合判定 ぼくのバイト経験の中では断然、最も楽で割のいいバイトといえます。

⑦コメント
 例によって、「簡単で楽して金を稼げれば、それがべスト」がモットーの、大学の同級生がみつけてきました。「こんなんあるんだけど、お前北海道生まれのスキー好きだって言ってたから、ちょうどよいと思って、一緒にやんない?」と誘うのです。

 バスツアーの添乗員って、ぼくのイメージでは工程の説明をしたり、サービスエリアなどで人数確認をしたり、車酔いした人のケアをしたりと結構大変そうで、「学生のバイト風情に勤まるのかしらん?」と不安に感じました。

 しかし「バス会社がバイトの学生にそんな期待してないよ」と彼は主張します。で「2泊3日の行きと返りだけ仕事で、現地スキー場ではスキーしようが何してようが自由だって」とたたみかけます。「それと、スキーが上手ければ、添乗した客の女性陣にモテルかもね」のダメ押しが、一緒にやってみる決め手となってしまいました。

 1月の週始めに、「今週末はバイトします」と、バス会社に申しでるところから始まります。金曜になり、午後3時頃までにバス会社のバス駐車場にある、事務所に向かいます。確か都営三田線の高島代平近く、西台あたりだったような記憶が。事務所で、では君は苗場、君は菅平、そういった具合に割り振られます。

 ツアーは数台のバスを連ねて行くことが多いので、いつもぼくらは同じツアーのバスの添乗になりました。行く先と乗るバスを割り振られた後は、担当のバスに向かいます。たいがいはその頃には運転手さんはすでに来ていて、バスを洗車しています。ぼくらバイトは、バスの社内清掃を手伝うところから仕事が始まるわけです。

 で、4時過ぎには駐車場を出発。スキーツアーの客である、たいがいは会社で数台貸しきって行く、客先の会社に向かいます。この工程で、運転手さんと会話し、仲良くしておくことが後に仕事を楽にするコツなんですね。何せ2泊3日間、基本的にはずーっと運転手さんと2人で過ごすわけですから。

 運転手さんは無口な人が多いので、バイトの方から色々話し掛け、「ぼくはの役割としてはお客の人数確認と、走行中の窓拭き、車内の清掃が主で、後は色々な雑用をするということでいいですか?」と、役割を確認します。そして、「ぼく北海道生まれなんで、現地でスキーしてもいいですかね?」なんて、さりげなく根回しします。スキーする運転手さんなら「おれもするし、自分のスキーつんできてるんだ。次回は自分のスキーあるなら持ってこいよ」なんて言ってくれたりします。

 お客の会社には、終業時間前ぐらいにバスを到着させるように向かいます。で17時とか17時半ぐらいには、幹事の方を先頭にツアーの参加者がやってきて、スキーを荷物入れに積み、バスに乗り込むわけです。当時は関越自動車道は、練馬から前橋、高崎まででした。

 だから金曜仕事を終えた夕方都内を出発し、関越を降りてからひたすら一般道を走り、目的のスキー場につくのは深夜2時頃。その夜は風呂に入り仮眠して、翌土曜丸1日滑り、日曜は午前中だけ滑り、昼前頃スキー場を出て、遅くとも夜前、早ければ夕方には都内の会社まで帰ってくるのがおおまかなスケジュール。

―――――――――
 このスキーツアーの添乗員は、ぼくの経験のなかで、大変な部分もあったけど、最もオイシイと思えたバイトでした。どのような点が大変で、オイシイところはどんな点か? 具体的には詳細を、次回以降でご案内いたします。ご期待下さいね!!
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首都圏電車路線リポート.1

2007年12月01日 | Weblog
【新企画】
 首都圏の電車の路線の類で、乗ったことのない路線があることに、最近気づいています。首都圏に暮らして20数年経ち、仕事の用事などでずいぶんと色々なところに行っているつもりなのに、乗ったことのない路線があるのは意外だなぁと、その都度「ぷちりぽ」で紹介させていただきました。

 そんな中で、「では一体、降りたことのない駅はどのくらいあるのだろう?」という疑問が、湧き起こりました。この場合の降りるは、乗り換えを含まず、電車を降りて駅から外に出るという定義ですけど。そう考えると、結構色々な駅で降りてるような気もします。

 そこで、とっかかりとしては山手線で考えてみようかなとなります。そうすると企画としてはかつてやってみた、山手線の駅や地名に関連したエピソードをもとにした物語りで巡ってみようと始めた、ケータイ小説シリーズ「東京山手線物語」に似てきちゃいますね。「東京山手線物語」

 でも、物語で巡るのは面倒だから、それぞれの駅でどんな用事があったとか、そんな程度なら気軽なリポートとして成り立つかな? そう考え新企画「首都圏の駅リポート」を思いつきました。

 でも駅となると、膨大な数があるので、相当果てしのない企画になっちゃうよねぇ。ではその前に、どんな路線をどんな事情や用事で使ったかという、「首都圏電車路線リポート」でスタートしてみるのはどうでしょう? そんな流れで、この企画をやってみようと思います。

【京浜急行】
 
 上京して、初めて使った路線は京浜急行でした。親戚の家が、横須賀の手前の京浜急行線の、追浜という駅が、最寄り駅だったから。札幌から飛行機で、羽田空港に降り立ちます。空港からはバスで、京浜急行のどこかの駅まで(どの駅か忘れた)行きます。それで京浜急行の快速などで金沢文庫まで行き、各駅停車に乗り換えて追浜まで到達するわけです。

 追浜から都内に出るのには、品川を目指して出ることが多かったような気がします。北海道なんぞの田舎で生まれ育った、当時10代のぼくは、品川に出る京浜急行の中で何を思っていたのでしょう?

 「高架線路は結構曲がりくねっているけども、ずいぶんなスピードで走り、揺れも激しいよな」、なんてこと。それから、「北海道は各駅停車以上の急行や特急は別料金だけれど、こっちは同じなんだね」ってこと。それから、横浜、川崎を経て都心に向かう間、「街並に切れ目がないよなっ」て、驚いていました。

 夏目漱石が「三四郎」で東京を、「どこまでたっても東京が終わらない」的な記述で表現していますが、まさにそれに共感してしまっていたのですね。

 ぼくにとっての初めての東京は、赤い京浜急行の電車の中から眺めた、どこまでいっても終わりのない街並、だったわけです。
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