方広寺鍾銘事件
京都・東山のふもとに、豊臣秀吉が造立した方広寺がある。
そこには、伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天が祀られている。
記録では、、文禄4年(1595)にはほぼ大仏殿が完成していたようだ。
当初、全高約19mあったという木製大仏は奈良・東大寺にならって建てられた。
慶長元年(1596)伏見大地震のため大仏は倒壊。首が落ちた。秀吉は、
「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」といいながら
、首が落ちた大仏めがけて弓矢を放ったという逸話が残っている。
大仏殿は、寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失。
徳川家康をして「この文に呪詛の言葉あり」と言わしめた 国家安康・君臣豊楽
の文字のある有名な同寺の「梵鐘」は、慶長17年(1612)に、制作された。
「この文に呪詛の言葉あり」とは常識的に考えれば、言いがかりもいいところ、家康はいかにして豊臣を滅ぼすかに腐心していたことが伺える。この言いがかりを発案したのは、
金地院崇伝。彼は外交僧として江戸幕府の政策に関与し、黒衣の宰相の異名を取った人物だ。いつの世でも知恵の働く人間はいるものだ。
この言いがかりを端緒にして、大阪冬の陣&夏の陣を経て、豊臣家は滅亡することになる
当時、「徳川vs豊臣」の争いは「徳川の勝ち」で決着がついたのだが、以後260年余り徳川時代が続くことになって、戦国の世は終わった。
歴史的には太平の世を迎えることになるが、これは家康が描いた国家像だったのであろうか。殺伐とした戦国時代に終わりを告げることが家康の第一目標だと推測するが、正しいだろうか?。だとすれば、戦国の世で、むざむざと失われる命を救った点では、
国家安康・君臣豊楽に呪詛をみたてた屁理屈も、なんとなく理解できるような気分になる。
政治とはある目標に向かっては、「時と場合」によっては、非情なこともしなくてはならない。それが歴史というものだと一人合点した。
京都・東山のふもとに、豊臣秀吉が造立した方広寺がある。
そこには、伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天が祀られている。
記録では、、文禄4年(1595)にはほぼ大仏殿が完成していたようだ。
当初、全高約19mあったという木製大仏は奈良・東大寺にならって建てられた。
慶長元年(1596)伏見大地震のため大仏は倒壊。首が落ちた。秀吉は、
「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」といいながら
、首が落ちた大仏めがけて弓矢を放ったという逸話が残っている。
大仏殿は、寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失。
徳川家康をして「この文に呪詛の言葉あり」と言わしめた 国家安康・君臣豊楽
の文字のある有名な同寺の「梵鐘」は、慶長17年(1612)に、制作された。
「この文に呪詛の言葉あり」とは常識的に考えれば、言いがかりもいいところ、家康はいかにして豊臣を滅ぼすかに腐心していたことが伺える。この言いがかりを発案したのは、
金地院崇伝。彼は外交僧として江戸幕府の政策に関与し、黒衣の宰相の異名を取った人物だ。いつの世でも知恵の働く人間はいるものだ。
この言いがかりを端緒にして、大阪冬の陣&夏の陣を経て、豊臣家は滅亡することになる
当時、「徳川vs豊臣」の争いは「徳川の勝ち」で決着がついたのだが、以後260年余り徳川時代が続くことになって、戦国の世は終わった。
歴史的には太平の世を迎えることになるが、これは家康が描いた国家像だったのであろうか。殺伐とした戦国時代に終わりを告げることが家康の第一目標だと推測するが、正しいだろうか?。だとすれば、戦国の世で、むざむざと失われる命を救った点では、
国家安康・君臣豊楽に呪詛をみたてた屁理屈も、なんとなく理解できるような気分になる。
政治とはある目標に向かっては、「時と場合」によっては、非情なこともしなくてはならない。それが歴史というものだと一人合点した。