日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
天草:吹割岩(ふきわりいわ)
2018-08-17 / 自然
天草ジオパークの一端に触れてみることにした。宮崎からは近くて遠い。九州自動車道を降りるまではいいが、それからが大変だ。天草への国道は込み合う。特に今回はお盆の時期だった。
一番最初に目指したのは、天草の玄関口・大矢野島にある吹割岩。大矢野島の北半分は約300万年前に活動した火山群だ。
だが、行くのに迷った。国道は、案の定、帰省客と観光客で車が数珠つなぎ。ガイドブックとナビで海岸の形を見比べながら、国道を右折したが、少し行き過ぎたため、数kmも過ぎた海辺をウロウロするはめに。再びガイドブックとナビが示す海岸の形を見比べ直し、どうにか目的地近くの海岸集落へ。ナビは地名を示してくれなかったが、海岸の形から場所を確信。集落を抜けたヘアピンカーブの先に、案内標識を見つけた。
駐車場はかなり広かったが、車は一台も姿無し。木陰に車を止めて、そこから少し遊歩道を下ると、暖かな海岸近くでよく見かける大きな暖竹の群落が迎えてくれた。遊歩道の下からは子供たちのにぎやかな声が聞こえ、向いの緑の山腹の中には別荘風の家が立ち並んでいた。目指す吹割岩はすぐのその先だったが、それまでとは全く違う雰囲気。草は伸び、最近はほとんど人が訪れていない様子。しかし、見上げれば、大岩をまっ二つに断ち切ったような崖が左右にからせまり、密議の場所にはもってこいのような広い空間が広がっていた。高さが15mほどはあるかと思える崖を写真におさめながら奥へと足を進めたが、何となく違う雰囲気も・・・。後で、入口にある説明板を読み直してみて納得。弘法大師の伝説を秘めた霊場でもあったのだ。奥にあるはずの洞窟は、柵がしてあり立入禁止。少し残念だが、目的の切り立つ吹割岩を見ることができただけでも良しとしたい。
下記は駐車場脇説明板に書かれていた由来。ただ、伝承の洞窟は、地下からマグマが上昇してドームをつくった後、冷えた時にできた割れ目と考えられているから、原城まで続いていたとの伝えは、単なる伝承のようだ。
あまり訪れる人が少ないようなので、一人で行くと怖いかも・・・。
天草四郎の洞窟(吹割岩)の由来
天草・島原の戦いの天草における蜂起の発端地は大矢野であり、総帥天草四郎時貞はここ大矢野町で小西牢人の大矢野松右衛門、千束善左衛門、大江源右衛門、森宗意軒、山善右衛門らと謀議をかさねていたが、キリシタン探索の目が厳しくなるとこの洞窟を絶好の隠場所として密議をこらしたという。
また万一にそなえて、この洞窟を島原の原城まで掘りぬかせていたともいわれ、原城落城のおり天草四郎は死んだことになっているが、実はこのトンネルを通ってこの洞窟にのがれて来たとの一説もある。
窟には大矢野八十八か所のひとつ、番外奥の院があり弘法大師の伝説を秘めた霊場としても多くの人の信仰をあつめている。
(昭和60年12月4日熊商大(現:熊本学園大学)探検部が洞内を探検調査したが落石等で埋まり奥を極めることができなかった)
熊本県(観)
天草・島原の戦いの天草における蜂起の発端地は大矢野であり、総帥天草四郎時貞はここ大矢野町で小西牢人の大矢野松右衛門、千束善左衛門、大江源右衛門、森宗意軒、山善右衛門らと謀議をかさねていたが、キリシタン探索の目が厳しくなるとこの洞窟を絶好の隠場所として密議をこらしたという。
また万一にそなえて、この洞窟を島原の原城まで掘りぬかせていたともいわれ、原城落城のおり天草四郎は死んだことになっているが、実はこのトンネルを通ってこの洞窟にのがれて来たとの一説もある。
窟には大矢野八十八か所のひとつ、番外奥の院があり弘法大師の伝説を秘めた霊場としても多くの人の信仰をあつめている。
(昭和60年12月4日熊商大(現:熊本学園大学)探検部が洞内を探検調査したが落石等で埋まり奥を極めることができなかった)
熊本県(観)
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