日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
島原半島ジオパーク:旧大野木場小学校被災校舎
2018-08-26 / 自然
火砕流サージに襲われた旧大野木場小学校被災校舎
雲仙普賢岳で大規模火砕流が起きたのは、記憶に新しい。1991年(平成18)6月3日には、火砕流によって発生した火砕流サージに飲み込まれ、報道関係者や消防団員など43名の死者・行方不明者を出した。
火砕流のことを知りたいと、「雲仙岳災害記念館がまだすドーム」を訪れたのは、何年前だったか。今回はもう少し詳しくと思い、火砕流に襲われた旧大野木場小学校へと足を伸ばした。現在、ここには被災した校舎と、その隣りに大野木場砂防未来館がある。
南島原市から北上を続けると、ゆるやかなスロープの雲仙普賢岳は次第に大きくなり、存在感を増していった。お昼近くでもあり、当初「道の駅ふかえ」をめざしていたのだが、火砕流に襲われた現地を見るために、途中から国道251号線を左に折れた。折れるとすぐに緩やかな上り道。普賢岳は正面に一段と大きくなり始めた。この道も、火砕流の時は、多くの人がかけ下ったのだろうかと思いながら、目的地へ。旧小学校に隣接して建つ未来館に車を止め、すぐ下の小学校跡へ。
窓枠のないむき出しの校舎は、暑い日差しの中で、薄い肌色と暗い室内のコントラストを際立たせていた。静かにそこにある姿は、訪問者に何事かを語りかけているようでもあった。一部焼け残った窓枠や屋上からの配管はグニャリと曲がり、火災流サージというものの怖さを認識させられた。
運動場脇の説明パネルに被災当日の写真があった。驚きだ。「早く逃げろ!早く!早く!」 どんなにか怖かっただろう。校舎から飛び出して来る児童の姿も写っている。校舎の背後には火砕流が大きくせまっていた。
そのパネル写真と同じ付近から写真を撮ってみた。校舎と未来館の背後には、全く別の顔をした普賢岳があった。
私は、この小学校が被災したのは、多数の死者・不明者を出した6月3日のものだと思っていたが、実は9月15日のものだった。大野木場小学校では8月に仮設校舎での授業を開始していた。校舎が焼失したのは、9月15日の18時54分発生の大火砕流によるものだ。それも、火砕流本体ではなく、それに伴う火砕流サージによるものだった。今、この旧校舎は、その時の様子を伝える遺構として残されている。一度は足を運び、火山災害に思いをはせてみたい所だ。
説明パネル掲載の写真(校舎から飛び出す児童の姿も)
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