仁田団地第一公園から見た眉山
右手に九十九島(つくもじま)
島原に行けば、「島原大変肥後迷惑」に触れないわけにはいかない。今から226年ほど前の1792年(寛政4)に起きた眉山の山体崩壊と、それによる津波で、島原や有明海を挟んだ肥後国(現熊本県)が襲われた災害のことだ。死者・行方不明は約15,000人。その約3分の1は熊本県側だ。
その眉山と災害の概要を知るため、仁田団地第一公園へ行った。団地の一角にある公園からは崩壊した地形や崩壊によってできた流れ山を望むことができる。有明海に流れ込んだ流れ山は、小島群をつくり、現在九十九島(つくもじま)と呼ばれている。
崩壊個所は、今でも地肌がむき出しで、公園から眺める稜線は、大鷲が羽を広げたようにも見えた。大鷲の頭のように見える所が天狗山だ。そこから稜線に沿って海の方へ目を移すと、流れ山がつくった小島群が見える。
眉山の崩壊原因は、今も特定されていない。最も有力な説は、地震崩壊説のようだ。眉山の背後にある雲仙岳の火山活動によって誘発された地震で、山体崩壊が起きたというものだ。その他。眉山そのものも火山であるため、火山爆裂説などがある。しかし、原因特定に至らずとも、眉山の崩壊は、島原側で高さ6〜9m、肥後側で4〜5mの大津波を起こし、記録されている限りでは、国内最大の火山災害となっている。
普賢岳噴火による土石流で埋まった家屋
仁田団地第一公園を後にして、昼食をとるため「道の駅みずなし本陣」へ。ところが、ちょうど昼食時でどこも満席、お店の前まで行列状態。ということで、食事はあきらめ、隣接の「土石流被災家屋保存公園」へ。最近は土石流に襲われた家屋等の報道を度々観るようなったが、ここには雲仙普賢岳噴火による土石流に襲われた家屋が、そのまま展示してある。屋根の下まで埋まった惨状は、やはり凄まじい。住んでいた方たちにとっては、この光景を見るだけで涙が出てくるのではないか・・・。残す決断をされた方々の苦悩を思いながら見て回った。
日本は4枚のプレートがせめぎあう世界有数の地震火山国。それに台風や大雨等もある。「明日は我が身」を思いながらここをあとにした。
がまだすドーム3階展望所からの普賢岳、眉山、九十九島
展望所には、東日本大震災時の津波の到達高を示す文字が
昼食をとりそこなったので、いざ「雲仙岳災害記念館がまだすドーム」へ。1階のこどもジオパークのコーナーは、夏休みのまっただ中とあって子供たちで溢れ、トランポリンなどでにぎやか最高潮。なので、そこを横目にカフェ・レストランへ。満腹満足、しばし休憩。
エントランスホールへ戻ると係員から展示室への入室を勧められたが、以前入室済みのため、今回はパスして3階の展望所へ。ここからは普賢岳火砕流が流れ下った所や土石流が起きた場所、また眉山の崩壊場所や海側の九十九島もよく望める。海の向こうの熊本県金峰山なども一望だ。ガラス張り、かつ完全冷房だから展望所としてはピカイチだ。外に出て風を楽しむこともできる。20〜30分程、完全冷房の中で体を休めながら山を眺め、海を眺め、そろそろと思った頃に、ふと気付いた。ガラス窓に文字と矢印があるのだ。文字は「東日本大震災 津波の到達高(女川漁港)」。そこから伸びた矢印の先には、見上げる高さに「18.3m」。3階の床からは3mほどの高さだっただろうか。こんなに大きな津波だったのかと、しばしぼう然。なにしろ、展望所から見る有明海の海面は、ずっと足下なのだ。
自然は、私たちをいつもやさしく和ませてくれる。しかし、時に想像もできない程の大きな牙で私たちに襲いかかる。がまだすドームに行くことがあったら、3階展望所の「18.3m」ぜひ見上げて欲しい。