日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
島原半島ジオパーク:原城跡
2018-08-23 / 自然
過去に一度訪ねたことはあるが、それは島原・天草一揆の場、つまり歴史上の原城跡。今回は、火砕流露頭を見るのが主な目的。それも近くの雲仙からの火砕流でなく、有明海の向こうにある阿蘇山からの火砕流。阿蘇は超巨大噴火と言われる破局噴火を4回起こしている。最も近くに起きたのが約9万年前だ。その時の火砕流は、阿蘇から約160kmにまで及んだとされる。野を越え山を越え、海も越えて火砕流は走った。その早さは時速100km以上。想像を絶するが、噴火の後は、巨大な噴火口が沈み巨大な鍋底(カルデラ)のようになった。今の阿蘇の姿だ。日本では有史以前から各地でこのような噴火がたびたび起きてきた。起こって欲しくないが、いつの日かまた日本のどこかで超巨大噴火は起きる。
ところで阿蘇山から原城までは約83km。結ぶ直線上には、熊本地震で大きな被害が出た西原村や益城町、そして緑川河口もある。緑川河口から原城までは約35kmの有明海だ。9万年前の火砕流は、その有明海を走り抜け、のちの原城付近へも達し火砕流大地を造った。
というようなことで、原城で火砕流痕跡を見ておきたかった。原城に着いたのは午前10時前。観光客も動き始めたばかりで、臨時駐車場の一角では、お土産売りのパラソルも開いたばかり。そこで地図をいただき、原城本丸跡へ歩を進めた。本丸入口右手には大きな低地。説明板には次のようにあった。
空濠(からぼり)
この低地は、島原の乱の時に防衛のため、○築されたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。
寛永十五年(一六三八)二月二一日の夜襲軍四千余人は、食糧・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが、失敗に終わった。
籠城の間は、竹や木で柱を建て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。
文部省
南有馬町教育委員会
この低地は、島原の乱の時に防衛のため、○築されたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。
寛永十五年(一六三八)二月二一日の夜襲軍四千余人は、食糧・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが、失敗に終わった。
籠城の間は、竹や木で柱を建て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。
文部省
南有馬町教育委員会
空濠(からぼり)
大きな空濠ではあるが、本当にここに4千余人もここに収容されていたとすると、とても過酷な環境だったはずだ。写真をあとで見て気付いたが、空濠左右崖の露頭部分は火砕流痕跡にも見える。ただこれは私観。ちゃんとした確認が必要だ。
空濠をあとにして、他の観光客と同じように一通り本丸跡に足を進めた。本丸跡地からは宇土半島や天草の島々の他、雲仙普賢岳の勇姿がよく見えた。天草四郎像や墓石などを見た後、車を止めた前の道路へ引き返し、本丸下の海岸の方へ農道を下った。太陽の強い光と無風状態の農道はとても暑かったが、海岸手前の小さな田んぼを前にホッとひと息。
海岸は急傾斜のコンクリート護岸と遊歩道。満潮らしき護岸下では大きなクロダイが1匹。“見えている魚は釣れたためしがない”などと思いながら本丸下へ歩を進めると、そこは7、8mはありそうな崖。崩壊を防ぐためか、下部には金網に砕石を詰めた蛇籠がずらり。その上に堆積層の一部と火砕流らしき層が見えた。
「島原半島世界ジオパーク」のページには、「海岸沿いの露頭では、下位の口之津層群とAso-4火砕流が不整合で接している様子を確認する事が出来ます。」とある。写真を何枚か撮り、もと来た道を駐車場へと引き返した。しかし、実のところこの露頭でよかったのかどうかはっきり分からないままだ。再び訪問の機会があれば、今度はしっかりとガイドを頼むこととしたい。
この間、気温は38度を超えていたのだろう。コンクリート護岸の上はそれ以上だったはず。お土産売り場で買ったかき氷は、この上なくうまかった。
原城下の崖
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