祇園橋の描く緩やかなアーチを見ていると、刀を差した侍や島田髷・着物姿の女性がとても似合いそうだ。5脚9列の石柱で支えているこのタイプの橋(多脚式アーチ型)では、日本最大級だそうだ。石材は、すぐ近くの上島最南端・下浦地区でとれる下浦石が使われている。天草にある多くの石橋は、この下浦石が使われているという。 その他、下浦石は長崎のオランダ坂やグラバー邸にも使われたようだ。下浦地区からは石工も多く出て、九州一円で活躍したという。
私がここに行ったのは、今にも日が暮れそうな日没間近。夕陽を一身に浴びた姿は美しく、存在を思う存分誇示していた。ただ、干潮時だったためか、川には流れがなく、乾いた岩盤がむき出しだった。川の流れに身を写す時間帯であれば、もっと違う姿を見せていただろう。
何枚か写真におさめ、対岸の祇園神社側に橋を渡ってみた。石橋だから頑丈ではあるのだろうが、縦に並ぶ石には隙間があるためか、足が頭に慎重さを求めるような、なんだか不思議な感覚を味わった。祇園橋を訪ねることがあったら、ぜひ渡ってみるべし・・・。
ここ祇園橋付近は、説明板(下記)にあるように、この橋ができる約200年ほど前、天草の乱で多くの血が流れた所でもあるようだ。橋のたもとに立ち、そのことを想像すると、少し胸が詰まった。
祇園橋(ぎおんばし) 国指定重要文化財(平成9年12月3日指定)
この石橋は、天保3年(1832年)町山口村庄屋大谷健之助が発起し架設したもので、祇園神社の前にあることから、祇園橋と呼ばれています。石造桁橋では日本最大級で、長さ28.6m幅3.3mあり、45脚の石柱により支えられています。下浦村(現下浦町)石屋の辰右衛門により建造され、地元の砂岩が使用されています。
この付近は、寛永14年(1637年)11月、天草・島原の乱で、天草四郎の率いる一揆勢と、富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所です。両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられています。
熊本県(観)
この石橋は、天保3年(1832年)町山口村庄屋大谷健之助が発起し架設したもので、祇園神社の前にあることから、祇園橋と呼ばれています。石造桁橋では日本最大級で、長さ28.6m幅3.3mあり、45脚の石柱により支えられています。下浦村(現下浦町)石屋の辰右衛門により建造され、地元の砂岩が使用されています。
この付近は、寛永14年(1637年)11月、天草・島原の乱で、天草四郎の率いる一揆勢と、富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所です。両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられています。
熊本県(観)