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「霧島の火山活動と加久藤カルデラの痕跡探訪」





学校が夏休みに入ってまもなく、台風10号の影響で2日間雨が続いた。それも2日目は時折ひどいどしゃ降り。もう一日続くと、稲刈り前の稲穂は倒伏してしまうところだった。雨が上がった夕方、散歩に出てみると、完全に倒伏している田んぼも3、4枚見かけた。幸いわが家の田んぼは無事。
表題の探訪日は、その翌日だった。宮崎平野部は曇り昼時晴れ、目指すえびの市は曇りの予報。霧島・えびの高原は雨かもしれないと思いながら、折りたたみ傘だけはリュックに忍ばせて出発。参加者との集合場所は、「道の駅えびの」だ。わが家からは車で約2時間弱。天気は、予報より良く、晴れ間が広がった。

◎白鳥展望所/えびのエコミュージアム/硫黄山
直前にキャンセルが複数出たため、参加者は13名ほどになったが、県内各地からの参加だ。ガイドは、霧島ジオパークガイドのメンバーでもある「えびのガイドクラブ」の方。思いがけず、霧島市から女性職員もガイドとして駆けつけて頂いた。あいさつもそこそこに、えびのエコミュージアムを目指していざ出発。車4台に分乗しての出発だ。途中、硫黄山の噴火でヒ素などが検出された長江川のことや、加久藤カルデラのかつての湖底面のことなど聞きながら、最初のガイド地・白鳥展望所に到着。ここからの眺めは何とも雄大、えびの市全域を眼下に眺めることができる。通ってきた道も既に眼下だ。正面に加久藤カルデラ外輪山の北面に当たる矢岳高原が望めるはずだが、雲がかかりちょっと残念。
ここを後にして、白鳥温泉や白鳥神社のそばを抜け曲がりくねった道をえびの高原へ急ぐ。ここにして予定時間をすでにオーバーしている。えびの高原へ行く宮崎県側からの道は、硫黄山の噴火で小林市からの道路は閉鎖されているため、白鳥経由しかないのだが、出会う車はほとんどない。やはり新燃岳や硫黄山の噴火が影響しているのだろう。道路横には白い花のノリウツギが時折現れる。樹液を和紙を漉く際の糊に使ったことから、この名が付いたようだ。そしてえびの高原へ到着。エコミュージアム玄関で、霧島ジオパーク事務局の石川さんが出迎えてくれた。予定時間を過ぎているため、すぐに集会室で、石川さんによる「霧島の火山活動」のお話。石川さんは火山の専門家だ。加久藤カルデラの話から近年の新燃岳や硫黄山の活動まで、プロジェクタを用いた話はとても分かりやすかった。
その後、外に出て硫黄山遠望。約1kmという規制ぎりぎりの所からだ。白い噴気を上げ続ける硫黄山に、自然のすごさを見たのか、参加者はみんな釘付けだった。


噴煙を上げる硫黄山を遠望観測


◎矢岳高原
予定時間をオーバーしているため、ここから次の訪問地・矢岳高原へ曲がりくねった道をまっしぐら。地元をよく知るガイドならではの近道も利用し、ようやく展望抜群の矢岳高原へ着いた。ここからの眺めは本当に素晴らしく、宮崎県内では指折りだ。それもそのはず、近くには日本三大車窓のひとつ「肥薩線矢岳駅付近(矢岳越え)」がある。ただ、矢岳高原はそこより高い所に在るから、それに勝る絶景ポイントだ。眼前には霧島連山と加久藤カルデラ全域を望むことができた。阿蘇の大観峰に、勝るとも劣らない絶景のように思う。
ここでは、新しく加わった「えびのガイドクラブ」の方と霧島市からの女性職員から、かつて湖だった頃の加久藤カルデラやその後の姿、長江川水系汚染のことや霧島山麓からの天然水のことなどを説明していただいた。目を凝らせば、眼下には川内川を挟み緑溢れる田んぼと薄茶色の田んぼが対照的にあった。薄茶色の田んぼは、硫黄山噴火の汚染水のために作付けできなかったのだ。米作りをしている身としては、大変さがよく分かる。
そういうことの説明の後は、待ちに待った昼食。絶景の中での昼食は、強い日差しの中でも格別でもあった。そして、絶景を背に記念撮影。




矢岳高原から望む加久藤カルデラ。遠くに霧島連山、眼下には川内川が。



毘沙門の滝/めがね橋
矢岳高原を後にして、ガイドは予定していた国道ではなく、外輪山のふもとを縫うように車を走らせた。人家が多い街中より少し高台だ。ただ高台ではあるが、ほぼ平坦だ。その平坦が終わろうかとする頃、車は止まった。そこで説明を聞けば、その平坦な面こそ、かつて湖だった時の湖底面だった。遠望する霧島連山麓の平らな面と共に納得だ。ただ、真夏の午後の日差しは強く、風もないため暑かった。そのため、すぐに次の毘沙門の滝へ。流れ落ちる水しぶきは暑さを忘れさせ、しばしの涼感。火砕流が冷えて固まった溶結凝灰岩を、流れる水は長い年月をかけて削り、峡谷をつくり、滝をつくってきたのだ。滝の名前は、この地に延宝年代(1673〜1681年)頃に毘沙門寺があたことに由来しているようだ。今回は行くことはできなかったが、滝の上は約1kmにわたり遊歩道が整備され、織りなす巨岩はミニ高千穂峡とも呼ばれているようだ。そして、文化遺産のひとつ、めがね橋へ。大きな石橋だ。この橋は、熊本営林局が1928年(昭和3)に木材運搬用のトロッコ軌道として造ったものだ。石造3連アーチ橋だ。橋の下から見上げると、石橋特有のアーチが大きな弧を描いていた。絵になるので橋の下まで降りて写真を一枚。道路横の木陰では、ガイドが模型を使って石橋の作り方を見せてくれた。ありがたし。


毘沙門の滝


大きなアーチの「めがね橋」


◎享保水路太鼓橋/八幡丘公園
そこからまたすぐに次の石橋・享保水路太鼓橋へ。2004年(平成16)国登録有形文化財だ。石橋の側面は蔦や草に被われて石組みの観察はできなかったが、橋の上には、真ん中に水路、両側に農道があった。説明板によれば、水路幅は1.6m、その西側に3.5m、東側に4.5mの農道とあったから、全体幅は9.6mにもなる。享保水路太鼓橋とあるから、建造年は享保年間かと思いきや、そうではなく、水路ができたのが享保年間のようだ。この享保用水は有島川をまたいで横断しているため、大雨のたびに水路は流されていたようだ。そのため、江戸末期(1850年頃)に太鼓橋として建造されたと文献で推察されている。この太鼓橋は、現在も飯野平野の水田約150haを潤す享保水路の重要な一翼を担っている。水路に流れる水量は多く、なるほどと納得。
あとは水路伝いに最終目的地八幡丘公園へ。ここは小高い山になっていて、加久藤カルデラの東端となる。公園の上は桜並木があり、桜のシーズンには花見客でにぎわいそうだ。その並木を抜けて駐車場に車を止め、えびの市が東側から一望できる展望台へ。左手に見えるはずの霧島連山こそ樹木で望めなかったが、加久藤盆地は眼下に一望できる。展望台正面には、その風景をベースに、かつて湖だった頃の水位を表示した説明パネルがあった。現在の市街は湖の下だ。それまでの説明とこのパネルのおかげで、加久藤カルデラのことがほぼ理解できるようになった。

約34万年前、この地で超巨大噴火が起り、その時の火砕流は薩摩・大隅半島中部以北や人吉市、宮崎平野にまで及んだ。その後、この地は湖となった後、霧島の火山活動や姶良カルデラの火砕流等で堆積が進み、最終的には湖口で侵食が進み、水が排出され、今の姿となっている。一般には加久藤カルデラの名前も、人吉方面へ向う時の連山の壁が外輪山であることもあまり知られていない。今後、えびの市訪問の機会があれば、加久藤カルデラのことを知って欲しいと思う。尚、石黒耀氏の小説「死都日本」(2002年)は、加久藤カルデラで破局噴火が起きる様子を描いていておすすめの一冊だ。「死都日本」は、メフィスト賞や宮沢賢治賞奨励賞の他、氏自身も日本地質学会からも表彰されている。

今回、霧島ジオパークガイドの方々には最高のガイドをしていただいた。「ビバ!えびの」だ。今後も絶景の加久藤カルデラを楽しみたい。


享保水路太鼓橋の上に流れる水路


加久藤カルデラ湖底面説明板
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陶器の破砕張り:鬼池港フェリーターミナル




天草の北端鬼池港と島原半島最南端の口之津港は島鉄フェリーで結ばれている。「フェリーくちのつ」、「フェリーあまくさII」の2隻で、鬼池港・口之津港から、同時に出港し、30分で到着する。
島原半島に渡るため、天草市本渡から鬼池港に着いたのは、ちょうどお盆の込み合う時期だった。そのため、お盆期間中は普通より増便されピストン輸送とのこと。フェリー駐車場に着いた時には、係員がすぐに近寄り次の出航時間を告げてくれた。少し時間があったので、ターミナル周辺をミニ探索。
駐車場横には、凛々しい姿の天草四郎の像。そして瀟洒なターミナル。観光地らしい小綺麗な建物で、アーチ型の格子が長崎グラバー邸などの洋館を感じさせる。それと共に目を引いたのは、その基礎部分。建築家ガウディのタイル破砕張りならぬ、陶器の破砕張り仕上げだ。いろんな形に割られた、様々な陶器がセメントに張られ、新鮮な模様を作り出していた。 
ほどなく、フェリーが到着。すぐに乗り込み島原半島最南端の口之津港へ。次に目指すは、島原半島ジオパークだ。




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