一人想うこと :  想うままに… 気ままに… 日々徒然に…

『もう一人の自分』という小説を“けん あうる”のペンネームで出版しました。ぜひ読んでみてください。

市場の話 其の一

2005-11-22 21:31:43 | 日記・エッセイ・コラム
 ご主人様は仕事柄、朝早くから市場に顔を出す。
市場といっても色々な小売店が入っている普通の市場ではない。
ご主人様が行くのは札幌市中央卸売市場。それも水産棟だ。
最近、新しく建て直され、衛生面含めかなり快適になったが、昔はひどいものだった。
特にトイレは劣悪。
一応水洗だったのだが汚れもひどく、臭いもまたすごい。
目が染みて開けられない時があったほどだ。
大をしたくてもトイレの数が少ないのでいつも満杯。
仕方なくご主人様は市場内のトイレを使わず、場外市場のトイレを使っていたほどだ。
それが建て直された水産棟では一変した。
市場内の衛生面が向上したのは当然だが、ご主人様が何より喜んだのはトイレが快適になったことだ。
洋式になったのは当然だが、数も前の倍以上に増え、中にはウオッシュレット付きの便座もある。
 卸売市場に来る人は当然の如く朝が早い。
早い人は朝三時には出社している。
そうすると人間の生理上朝6時から7時半位の間はトイレが込む。
それも大の方が。
しかし、以前のようなことはなくなった。
トイレの数が増えたので順番待ちをすることもなく、場外市場まで行って用を足す事もない。
それよりも何よりも、一番驚いたのが臭いが全くしない。
前の人が個室から出てきて、すぐに入っても残香というものが全くないのだ。
個室に入り、周りを見渡しても脱臭装置らしきものは見当たらない。
にもかかわらず、本当に臭いがしない。
これは快適だ。
 ご主人様は快適なトイレのため、ついつい長居をしてしまう時がある。
いや、これはご主人様だけではないようだ。
どの個室のドアも、閉まっている時間は確かに以前より長くなっているようだ。
「皆快適に用を足しているんだろう」と思った時だった。
以前にはなかった問題があることに気がついた。
携帯電話である。
 市場に来る人は皆携帯電話を持っている。
もっともこれがないと仕事にならない。
だが、これが用を足している時には結構厄介者なのだ。
新しい市場のトイレは防音もしっかりしているせいか、セリ人の掛け声やモータートラック、フォークリフトのエンジン音などは一切聞こえない。
静粛そのものだ。
そのため、隣の個室で電話をしていると、相手の話し声まで聞こえてしまう。
今日もご主人様が個室で用を足していると、隣の個室で携帯電話が鳴った。
「もしもし、○○さんですか?」
「はい、○○です」
「今日の平目、いくらした?」
「平目? ごめん、まだ見てないや」
「見てないって、もうセリ始まってるぞ。今どこにいるんだ?」
「どこって、ちょっと・・・」
その時、隣の個室で用を足していたご主人様は思いっきり水を流してしまった。
「ジャー!!」
この音が聞こえたのか相手の人は、しばしの沈黙の後言った。
「あっ・・・、ごめん。悪いけど、し終わったらすぐ相場見に行ってよ。こっちも急いでいるから」
そう言って電話が切れた。
ご主人様は、「悪いことをしたなあ」と思っていた。
携帯電話がなければ、本当に快適なトイレなのに。
 翌日、いつもと同じ時間にご主人様はトイレの個室で用を足していた。
市場内の喧騒から逃れ、ひと時の休息であった。
「やれやれ」と思ったその時、ご主人様の携帯が鳴った。
「はい、Yです」
「あ、Yさん? 忙しいとこごめん。紅鮭キロ○○○円だけど、どう?」
「キロ○○○以下だと使ってもいいよ」
「ん・・・。現物見て話そうよ。今どこにいるの?」
「今? ん・・・」
その時である。
ご主人様が口ごもっている間に、隣の個室から思いっきりよく水の流れる音がしてきた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする