友のいない席
男が一人、杯を傾けていました。
波止場の古い居酒屋、彼は誰もいない前の席に杯をひとつ置いて、酒を注ぎました。
「さあ、一杯飲めよ。飲め、、、よ。」
見ていられない店のおばさんは彼に近づいていきました。
「金さん、もうやめなさいよ。忘れなさい。いつまでこうしているの。ん。」
男は首をうなだれて寂しく笑うだけでした。
「ふふふ、、、、。」
男が満たして置いた杯には、男が振るい捨てることのできない痛い事情がにじんでいたのでした。
10年前、男には兄弟よりも近い友がいました。
同じ町内で生まれ育ち、共に魚を獲る船で仕事をする漁師になった二人は、喜びも悲しみもいつも一緒でした。
海との戦いも、激しい波も二人ならば怖いものはありませんでした。
「かかった、かかった。」
「ははは、大漁だ。大漁だ。ははは。」
魚を捕まえる時には一緒に櫓を漕いで海に出て行き、網も一緒に投げて、そしてまた一緒に櫓を漕いで家に帰って来ました。
一日中海と戦った後、魚の入った袋を持っての帰り道で、居酒屋に立ち寄り辛いスープで酒を一杯飲むのが二人の楽しみでした。
「さあ、飲もうや、一杯だけ。」
「そうだな。一杯だけ。」
波止場で仲のいい二人を知らない人はいませんでした。皆が仲のよい二人をうらやましく思い、ほほえましく見ていました。
「何で、あんなにもいいかね。」
肩を組んで家に向かう二人に皆が一言ずつ声をかける程でした。
そんなある日、急に吹き付けた暴風が二人の船を飲み込みました。
二人は必死に暴風と戦いました。
「しっかりつかめ。しっかりつかむんだ。」
「うああ。」
男は九死に一生を得て救い出されましたが、暴風は船と共に命よりも大事な友を連れて行ってしまいました。
その後10年の歳月が流れました。ですが死んだ友の席を何かで埋めることのできない男は、今日も空いた杯を満たして友を呼ぶのです。
「さあ、一杯やれよ。」
杯の中に友の面影がにじんでいるのです。