とんだり はねたり

kinoppyの一日

歴史散歩 ここはどこ? vol.1

2015-08-06 | 歴史
Hi!みんな元気?毎日うだるような暑さダネ。夏休みに入って超多忙で、kinoppyもバテ気味です。この暑さに身体もまいっているのかも。この夏日に入る前台風雨が結構降った。暑い中にも涼しかった。そんな涼しさを思い出して書いてみようと思う。みんなも一息入れて、元気出してネ!

ある雨上がり、kinoppyは散歩に出かけたよ。さて、ここはどこでしょう?わかる人にはすぐわかる。わからない人はもう少し見てね。憧れのアテネフランセ、懐かしいレモン画廊、カフェがなくなってからどのくらいになるのだろう?中央線と丸ノ内線が地下にもぐるトンネル、総武線の走る緑の陸橋も見えます。
             

そしてこの橋を渡ります。左上に東京医科歯科大学が見えます。もうお分かりですね。今日はお茶の水にやってきました。橋の反対側にはニコライ堂があります。湯島聖堂とニコライ堂を結ぶから聖橋(ひじりばし)って言うんだよね。

            

まずは湯島聖堂に行きますよ。中国語だと孔子廟ダネ。

江戸時代1632年に尾張中納言 徳川直義は儒学を重用し、徳川幕府の儒臣 林羅山のために、羅山の上野不忍池の邸内に孔子廟を建てた。その後1691年に将軍 綱吉の命により現在の湯島に聖堂が完成した。この時林家塾も同時に移転し、聴堂、学舎が幕府により建設され、林家が管理した。約100年後の1797年11代家斉が儒学振興を図るため、聖堂学舎の敷地を拡張、昌平坂学問所を開設、林家管理の学寮を幕府直轄地とし、名実ともに漢学の学問所となった。2年後の1799年老中 松平定信の寛政の改革により、朱子学が官学となり、聖堂も重視され、明の朱舜水が制作した孔子廟模型によって、新廟が建造され、これまで朱、緑、青、朱漆などで彩色されていた建物全体を黒漆塗りとした。(公益財団法人 斯分会 湯島聖堂より)

6000坪(約2万㎡、東京ドームの半分位か?)もの広い敷地に、聖堂や、学舎、学生寮、文庫、教官住宅等があり、直参旗本の子弟48名が学んだらしい。現在でいうとICU(面積では比較にならないけど)とか、そんなキャンパスライフ?贅沢!!たった48名で6000坪だよ~。その後書生寮を設けて、陪臣(藩士、郷士)浪人などの入学が許されたらしい。超エリート集団がここで育成されたということね。

先を進もう。外から見るとこんな感じ。中に入ったことはなくても、外観は見たことあるでしょう?上は塀の中をのぞいたところ。

       
    聖堂入口はこの塀に沿って右へ下がった所。

江戸時代には道路の向こうに船着き場があったらしい。明治に入ると、現在の、順天堂大学、東京医科歯科大学辺りに高等師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)が開設され、そうそうたる文京地区を形成していたようです。写真にはっきり残されています。(斯分会資料)

     
           
さあ、いよいよ聖堂に入りますよ。仰行門です。一般見学者の入口になる門です。

 

仰行門右隣にある斯分会の建物の上にある動物、1935年の復興聖堂の設計者である伊東忠太博士(築地本願寺、平安神宮、明治神宮等の設計者)の考案した屋根飾り。名前もなく意味も今はあきらかでないそう。でもとても可愛い。
                  

ご存知孔子銅像。1975年(s50年)台北市ライオンズクラブからの寄贈。
       

このすぐそばに、楷樹(ウルシ科)がある。楷は中国曲阜にある孔子の墓所にある名木で、枝や葉が整然としているので、書道の楷書の語源になったといわれています。ここにあるのは曲阜の樹の種子を持ち帰った聖木だそうです。残念ながら画像は間違って消失。ゴメン。



ウルシ科だからこんな木かな?だんだん大成殿に近づいてきますよ。
               

入徳門です。聖堂内唯一の木造建築。杏壇門の奥に大成殿が見えますね。
 

       杏壇門に向かいます。杏壇とは孔子の教授堂の遺趾のことだそうです。教壇と関係あるのかな?             
            



             外国人の方が多いですね。
               

            やっと杏壇門に辿り着きました。前の広場は結構広いです。
            

緑の多い堂内。こんな都心にこんな自然が・・・。自然は守らねば残らないのだと実感。
            
杏壇門から入徳門を眺めて見ます。駅前の高層ビルに江戸時代から引き戻されてしまいました
            

そして最後に大成殿。間口120m、奥行き14m、高さ14m。入母屋造り。大成とは孔子廟の正殿の名称。殿内には孔子像、左右に四配として孟子、顔子、曽子、子思の4賢人を祀っている。孔子を祀る祭典は毎年4月第4日曜日に行われる。以前中国語を学習していた時、麗澤大学のN教授とそのお仲間に誘われたが、機会を逸してしまった。一人では多分行かないだろうな。興味のある人は是非行ってみて。
       

大成殿屋根に鎮座する鬼頭(きぎんとう)鋳銅制637㎏。水の神、火災よけ。鯱型、龍頭魚尾、2脚双角、頭より潮を噴き上げている。屋根4隅角に鎮座するのが鬼龍子(きりゅうし)。猫型蛇腹で牙がある。鋳銅制、93kg。様態は狛犬に似ており、顔は猫科の動物似、だそう。こんな重い物、地震で落ちてきたらどうするんだろうね?



西出口に向かいます。階段を登って本郷通り方面に出ますよ。御茶の水は樹木が多くてきれいな街だね。湯島聖堂を参観してつくづくそう思いました。

こちらからも入れるので、地図があります。今日は地図右手正門からご案内しました。
                   

まだまだ続くよ。お茶の水散歩。みんな最後まで見てくれてどうも有難う。

雨の天満宮 vol 2 宝物殿

2015-03-22 | 歴史
Hi!みんな元気?やっと少し暖かくなってきたネ。雨の天満宮、続きだよ。遅くなってゴメン。これから社務所2階の宝物殿に入ります。みんな一緒に谷保(やぼ)天満宮1000年の歴史を覗いてみようね。

    

    天満宮は、ハケの南端にある。その東側に梅林がある。
    梅林からは水田地帯が見渡せる。その先に多摩川があり、
    前方の多摩の横山と直面することになる。ここが、この町で
    もっとも見晴らしのいい場所とされており、崖の上にベンチ
    が置いてある。こぶしや欅の大木がある。梅林から水田に降りる道には椿がある。
    「わが町」山口瞳より

この地図は江戸時代のもので、谷保天満宮宝物殿に展示されています。古いものですが、山口さんの語る天満宮そのもののように思えてきます。近代化される神社が多い中、谷保天満宮は昔日の面影ををそのまま残しています。湯島、亀戸とともに関東三天神と呼ばれ、菅原道真公とその三男道武公を合祀しています。道真公の死後村上天皇は祟りを恐れ、京都に北野天満宮を建立しました。それにしてもなぜここに天満宮が?道真公の三子道武公はこの近くに配流され、その子孫である津戸三郎為守が谷保天満宮の神主になったからだそうです。(津戸三郎為守は鎌倉時代に法然の教えを受け出家、叔母は更科日記の作者菅原孝標女です。)なかなかのエート家系です。当時武蔵野国は東日本最大の国でこのあたりは武蔵野国の中心でした。府中は都の中心と言う意味だし、地の利を得て国分寺が建立されたことでも良くわかります。ですから配流と言ってもやっぱりエリートの左遷と言ったところだったのでしょうか?           
              
                   津戸三郎為守   
 
               

可愛いものをみつけましたよ。天神人形です。江戸時代土人形として作られ全国に普及したそうです。天神人形の「文」、五月人形の「武」、道真公にあやかって、文武両道の男の子に育ってほしいと願う親心の表れだそうです。天神人形のお祝いはその土地によって、お正月や3月3日、5月5日等様々のようです。
            
           

こんな記事を見つけました。(1908)年8 月1 日、有栖川宮威仁親王の呼びかけで、日本で初めてガソリン自動車(タクリー号)のドライブツアー「遠乗会」が日比谷公園から甲州街道の立川を目的地にして行われました。折り返し谷保天満宮で、交通安全を祈願して参拝された後、梅林で立食しました。なかなか面白いですね。昔の皇族の方がおおらか?

 

                         

こんなのも見つけたよ。知ってた?「皇室」って雑誌。それにしても佳子様、聡明そう、きれいだね。

                    

そうそう、なぜ宝物殿に行ったかというと、ちょうど社務所2階で「谷保天満宮書道展」があったからなの。あまりの寒さに社務所に逃げ込んだというわけ。kinoppyにとって宝物殿は思わぬ収穫でした。kinoppyが一番好きな書「水仙や~」、美しいよね。書道はアートだね。隣の梅花は宮司賞。                     
        

         

            最後にもう一つ特選

            

廊下に張り出してあった子供たちの作品、素晴らしい!!

      
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あそうそう、前回紹介したチャボだけど、もともとは例大祭で行う獅子舞の頭の毛が足りなくなり、いろんな鳥を飼育していたんだって。自然繁殖したんだけれど、2013年にキツネに襲われ30羽が3羽に減ったんだって。チャボの敵は多いんだね。卵はカラスに食べられてるらしいし。その後増えたかどうかはわからないけど、kinoppyが見たのは1羽だけ、それから別の1羽の「コケコッコー」の声を聞いたよ。

入口の座牛の像は道真公が亡くなった時、悲しみ動かなくなった牛車の牛なんだって。(1973年関敏作)牛が大事にされてるんだね。

本当はもう少し国立をレポートしたかったんだけど、残念、時間切れ・・・・。VOL3を乞うご期待・・・してくれるかな?
みんなゴメン。またすぐあおうネ。

<参考文献>国立図書館 くにたち調べ
       立川経済新聞