映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

小野寺の弟・小野寺の姉 (2014年)

2019-10-05 | 【お】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv55185/

 以下、上記サイトよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。

 進(向井理)と姉のより子(片桐はいり)は、幼い頃に両親を亡くしてから20年以上、姉弟2人で穏やかに暮らしてきた。

 ある日、配達ミスで届いた手紙を受け取り相手の家に直接届けに行った進はかわいらしい女性・薫と出会い、かすかな思いが芽生える。進のことが気がかりなより子は、後日、薫と再会するも自分だけ連絡先を渡してこなかった進を怒るのだった。

=====ここまで。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

 小難しくない映画を見るの巻、第2弾。何でこれを選んだのか分からないけど、レンタルのリストの上位にあったのか送られてきたので見てみました。片桐はいりさん、結構好きだし。

~~以下、本作がお気に入りの方はお読みにならない方が良いかも、、、です。あしからず。~~

 

◆昭和のドラマかと思ったよ。

 これ、舞台になっていたのだそうで。監督が書いた原作小説を、監督が戯曲にして、主役姉弟を演じたのが、本作でも演じた片桐はいりと向井理だったと。へぇ~。

 ん~、まぁ、ぼけ~っと見たいと思って見たんだから、確かに頭は使わなくて済むんだけど、いかんせん、どうもむずむずしてきてしまった。

 何が起きるわけでもないストーリーといえば、あの『かもめ食堂』がある。どちらの映画も、出てくる人たちは、基本的には皆いい人たちで、ささやかなエピソードたちが物語を紡いでいく。しかし、この2作の決定的な違いは、登場人物たちの“自立度”だ。

 両親を早くに亡くした姉と弟が、距離が近すぎる関係になってしまうってのは分かるんだけど、本作の姉と弟の思考回路は周回遅れどころか、10周遅れくらいなんじゃねーの?と。つまり、2人とも「幸せ=恋愛=結婚」みたいな思考回路なんだよね。これいつの時代のお話?? 別に昭和の設定になっているわけじゃなさそうだし、21世紀の日本の話でしょ? ちょっとなぁ、、、そういう判断軸しか持っていない姉弟って、あまりにも精神的に貧しくない?

 まあ、それは百歩譲って良いとしても、この姉弟を囲む人たちがみんな同じ思考回路で動いているのが気持ちワルイ。一人くらい、もっと違う生き方や幸せがあるんだってことを体現している人がいても良くない? 何なんだこの人たちの住んでいる世界は。ある意味、ファンタジーだよねぇ、これ。

 んで、姉弟2人とも恋に破れたら、やっぱり姉弟が寄り添って近すぎる距離のまま仲良く暮らしましたとさ、、、って、まさに昔話。

 本作に通底するものは“本当の幸せって何?”ってことなんだろうけど、幸せの感じ方は人それぞれだから、本当もウソもないとは思うが、でも、何かに依存した状態で感じる幸せは、やっぱり“ウソ”だろう。ウソが言い過ぎだとしたら、砂上の楼閣、とでも言おうか。

 もちろん、現実世界では、このように兄弟姉妹が寄り添って生きているケースはゴマンとあるだろう。でも、これは映画だ。映画には、やはり希望があってほしい。閉じた現実など、スクリーンで再現されても“本当の幸せって何?”の答えにはなっていないと思うのだけど、どうだろう。

 この姉弟にとって、せめて姉弟のどちらか(ま、弟だろうね)がこの家から出ることが、互いの本当の幸せへの第一歩になるのだと、私は思うのだけど。自ら扉を開ける、、、それがベタであってもこういう作品では描かれて欲しい展開だ。

 まあ、この2人はこれでいいじゃない、、、という意見もあるとは思うし、それが間違いだと言いたいわけじゃない。それに、一緒に暮らしていても、互いに自立した関係ならば結構なこと。生き方に正解はないのだから。

 精神的に自立してこそ、幸せとは実感できるものだと思う。

 

◆その他もろもろ

 向井理は、朝ドラで水木しげるを演じていたときは、かなりマズイ、、、と思って見ていたが、本作ではまあまあ良かったと思う。はいりさんが上手いし存在感が圧倒的なので、イマイチ弱い感じもしたけど。

 それより、ドン引きしたのは絵本作家で進と恋仲になりそうになる岡野薫という女性を演じた山本美月。彼女は昨年だったか、ディーン・フジオカ主演のドラマでもヒドかったが、本作でも一人だけ学芸会レベルで浮いていた。おまけに、彼女の描いている絵本ってのが、これまた稚拙すぎてイタい、、、(これはもちろん彼女のせいではない)。演技のマズイ女優さんなんて大勢いるから、まぁ特筆事項でもないけど、彼女が出てくるとかなり白けたのは確か。

 はいりさんは、相変わらず突き抜けていた。独特の容姿で、本作でもそれがストーリー展開の暗にキモになっている。終盤、及川ミッチー演じる浅野に失恋した後、一人号泣するシーンは、思わずもらい泣きしてしまった。

 本作でもそうだけど、はいりさんは非常に服のセンスが良いと思う。自分の良さをちゃんと分かっているからこそのファッションだなぁ、、、と、いつも感じる。良い女優さんだ。

 

 

 

 

 

 

ひらまつ先生の言い間違いがゼンゼン面白くなくて困った、、、。

 

 

 ★★ランキング参加中★★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男と女、モントーク岬で(2017年)

2019-05-19 | 【お】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv64513/

 

 

以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 新作のプロモーションのため、ベルリンからニューヨークにやって来た作家のマックス(ステラン・スカルスガルド)。その小説は、実らなかった恋の思い出を綴ったものだった。

 かつての恋人レベッカ(ニーナ・ホス)と再会を果たすマックスだったが、別れてから何があったのか彼女は何ひとつ語ろうとしない。だが失意のマックスがニューヨークを発つ3日前、レベッカからロングアイランド、モントーク岬への旅の誘いが舞い込む。そこは、幸福だった頃の二人が訪れた場所であった……。

=====ここまで。

 監督は、『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフ。78歳にして「どうしても撮りたかった」んだとか。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

 『あの日のように抱きしめて』(2014)を見て以来、ニーナ・ホスのファンになってしまい、昨年公開時に見に行きたかったのだけど行きそびれ、このほどようやくDVDにて鑑賞。やっぱりニーナ・ホスは素敵だった……が、、、。

 

◆フォルカー・シュレンドルフよ、お前もか。

 フォルカー・シュレンドルフ監督作品では、『ブリキの太鼓』は何度か見ているが、数年前に『シャトーブリアンからの手紙』(2011)をDVDで見たけれども、正直言ってあんましピンとこなかった。『スワンの恋』(1984)も、ジェレミー・アイアンズが出ているので、BSでオンエアしていたのを大分前に録画してあるのだけどまだ見ていないし、、、。なので、どうしても『ブリキの太鼓』のイメージが、監督の名前を聞くと浮かんでしまう。

 けれども、この映画は、そんなイメージとは全然違う。ホントに同じ監督の作品??と思うくらいに違う。

 監督のインタビュー動画を見たら、本作は“ただのラブストーリーであって内容はない”みたいなことを言っていたが、内容がないというより、……まあ、言っちゃ悪いが男のエゴとロマンチシズム全開の鼻持ちならない映画、、、だと私は思った。しかも、監督が言うには、これは自身の体験でもあるとのことで、あんまり男だ女だと言い立てるのは好きじゃないが、やっぱり男性ってこういうのを人生の黄昏時になると振り返って遺したくなるものなのかねぇ、とちょっと鼻白む。

 ネット上で感想をいくつか見たんだけど、「女性なら共感できる映画」みたいなことを書いている人(いずれも恐らく女性)が複数いて、へぇ~~!? と思った。多分、レベッカに共感できる、という意味だと思うけど、私はゼンゼンだった。むしろ、こっちは別の人生を歩んでいるところへ、昔の(勝手に美化した)思い出引っさげてのこのこ訪ねて来た男と寝る女なんて、理解できない。私だったら、訪ねてきた時点で、どんなに好きだった男でも一気に軽蔑の対象になると思うわ。この程度の男だったのかと、自己嫌悪にも陥るだろうな。

 レベッカを演じるニーナ・ホスが、いきなり訪ねてきたマックスを見る表情には、驚きと嫌悪感みたいなものを私は見て取ったので、そらそーでしょうよ、と思ったんだけど、その後、レベッカがマックスを誘ってモントーク岬まで一緒に行くという展開になって、???となり、挙げ句、セックスまでしちゃうなんて、これは男の妄想世界の話でしょ~、、、うげげ、って感じだった。にべもなくあしらわれて終わり、っていう話にはできないんだろうね、たとえフィクションであっても。やっぱり“寝る”ところまでは既定路線なんだろうな、、、と思うと、つくづく男ってオメデタイ生き物だと呆れる。

 大抵の男は、寝て欲しいんだよね、過去の女に、今の自分と。そうやって、“今でもイケてるオレ”を確かめたいんだろうけど。特に、小説家とか映画監督みたいなクリエイターにはナル男が多いと思うので、こういう自己陶酔型の話を書いたり作ったりしちゃうんじゃないかしらん。

 ま、勝手な妄想してオ〇ニーするだけにしておいてください、としか言い様がない。

 

◆ニーナ・ホスは素敵だが、、、

 ニーナ・ホスが、やっぱり魅力的。年相応に皺もあるし、役柄ほとんど笑顔を見せないんだけど、すごく美しい。何か、やっぱりヨーロッパの人だよなぁ、、、と思っちゃう。ハリウッド女優には、こういう印象の人はいない。

 肝心のマックスを演じるステラン・スカルスガルドが、どうも私は苦手で、それもこの作品への良い印象を持てない理由の一つかも。若い頃はイケメンだったんだろうなぁ、、、と思わせる感じでもないし(実際若い頃の画像を見ても、まぁ、、、イケメンとは違う)、レベッカとのベッドシーンでは、彼の顔のアップが結構長いこと続くんだが、これはキツい。映画なんだから、やっぱり、ビジュアルも大切だと思うわけよ。ベッドシーンのアップに耐えられる初老の俳優なんてそうそういないと思うが、せめて、あのアップのシーンはやめて欲しかったなぁ。

 マックスは、そんなわけで、見た目も中身もかなり???な爺さんなのに、なぜか若い(と言っても彼の年齢から見てという意味)女性にモテモテなんである。これも監督の願望か? いや~~、妄想もここまで来ると天晴れだね。

 マックスが朗読するシーンで「行動してする後悔と、行動せずにする後悔が云々、、、」というような一節があるんだけど、まあ、そういうことを言いたいんだよね、本作は。それで、マックスは行動したと。

 ラストで、事実婚の妻に「モントークで誰と会っていたの?」と聞かれたマックスは「幽霊だ」と言っていたが、その程度には自覚もあったのかと、ほんの少しホッとした。

 

 

 

 

モントーク岬が美しい。ニーナ・ホスも美しい。

 

 

 ★★ランキング参加中★★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大人のためのグリム童話 手をなくした少女(2016年)

2018-09-16 | 【お】



 貧しさのあまり悪魔に魂を売った父親のせいで、両手を失うことになった少女。

 親の家を出て命の危険に遭いながら森を彷徨う内に、王子に出会い見初められて結婚する。王子は少女に黄金の義手を送り、2人は束の間幸せに暮らす。しかし、王子は国の境で起きた戦争に行ってしまい、「必ず戻る」と言っていたのに、なかなか戻ってこなかった。王子のいない間に、少女は男の子を授かる。

 父親を惑わした悪魔は執拗に少女を追ってきて、王子と少女の中を引き裂こうとし、少女は身の危険を感じ子どもを連れて城から逃げ出す。逃げ回る途中で使い勝手が悪く邪魔になった黄金の義手を捨てる少女。

 数年後に城に戻ってきた王子は、妻と我が子がいないため、探しに出かける。その途中、妻に送った黄金の義手が捨てられているのを見つけるのであった、、、。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 チラシを見て、少女の声をアナイス・ドゥムースティエが演じているってのもあって、興味をそそられ見に行って参りました。なかなか斬新なアニメーションでござんした。


◆童話=ヒドい話

 グリム童話の初版本は結構、オチが残酷だ、ってんで、「本当は恐ろしいグリム童話」とか一時ベストセラーになっていましたねぇ。でも、それって割と昔から有名というか、よく知られていたことだったと認識していた私には、そんな本がベストセラーになっているのが不思議だった。その数年前に、グリム初版シリーズが白水社から上梓されて、それでそんなブームになったのかな、とか思ったけれども、あれは一体何だったのか。

 恐ろしいといえば、確かに恐ろしい。本作の元ネタ「手なし娘」も手を切り落としちゃうし、「シンデレラ」でも、ガラスの靴に脚が入らないシンデレラの姉たちは、つま先を靴に収まるように切っちゃうし、、、、とにかく身体を傷つける描写が異様に多い。悪いことをした報いとして身体を傷つけられる、っていうパターンなんだけど、悪行に比して、報いが残酷すぎるイメージは確かにある。

 しかし、グリム童話に限らず、世界各国に伝わる民話には、共通する話が多いらしく、この「手なし娘」も、ヨーロッパだけでなく、中国や、日本の岐阜県の民話にほぼ同じ内容の話があるんだとか(パンフに書いてある)。今回、私も久しぶりに初版シリーズの「手なし娘」を読んでみたけど、まあ、やっぱりヒドい話だ(もちろんヒドいのは父親)。この話の特徴は、娘が王子様と結婚してめでたしめでたし、で終わらないところだ。王子がその後戦争に行ってしまい、王子が不在の間に娘は試練に度々見舞われる。

 概ね本作は原作に沿ったストーリーだけれど、娘が王子に出会うまでのいきさつがちょっと違うし、王子が黄金の義手を与える場面もなければ、娘が両手を取り戻したいきさつもまるで違う。何よりラストが大きく違っている。どちらがどうというわけでもないが、娘が両手を取り戻した場面は本作の方がステキだし、ラストに関しては本作は現代的に一ひねりしている。

 原作では、娘は父親に切り落とされた両手を持って歩いているんだけど、ある爺さんに「その切られた自分の両腕を3回大木にからませなさい」と言われ、そのとおりにすると両腕が生えてくる。本作では、赤ん坊と密かに暮らしていた場所に自分たちを探しに来た王子を(悪魔の仕業によって、娘は王子が自分たちを城から追い出したと思い込んでいた)自分たちを殺しに来たのだと誤解し、咄嗟に斧を振り上げた瞬間、よく見たら両腕を取り戻していた、ということになっている。

 また、ラストは、原作では王子と妻子は再会し、城に戻ってめでたしめでたし、、、なんだが、本作では、妻は「私はあの城に戻りたくない」と言って、親子3人、どこかへ旅立つ、となっている。娘は王子が不在の間に、ある場所に安住の地を見つけ、そこで自給自足の生活をするようになった……つまり、夫の庇護を離れて“自立した”ということになり、自立を果たした女性が、再び夫の庇護を甘んじて受けるということは敢えて避けたのだろう、、、というジェンダー的な見方ができる。……と言う意味で、現代的に一ひねりしている、と感じた次第。


◆監督が一人で作り上げた!!

 ……とつらつら書いてきたけれど、そんなことは後付けの理屈である。とはいえ、本作は、そういう理屈だけでなく、いろんな意味で子どもが見ても今一つピンとこないアニメであろうと思うので、確かにタイトルどおり“大人のための”作品であると思う。

 まず、なんと言っても、その“絵”が、私がこれまで見たことのあるアニメーションの絵とまったく違う。どうやら、本作の監督セバスチャン・ローデンバック独自の技法らしいのだが、“クリプトキノグラフィー”という技法によって、このアニメーションはできている。クリプトキノグラフィーとは、「動画のそれぞれ1枚の絵では何が描かれているか分からないが、動きを伴うと何か描かれているか分かるという運動の暗号化」だそうである(詳しくはこちら)。

 まあ、どんな絵で、どんなアニメかは、公式HPの予告編を見ていただければ分かるので、そちらをご覧ください。

 ただ、この技法独特なんだろうが、よく見ていないと、人物にしろ物体にしろ、一瞬で消えてしまったり、突然現れたりするので、結構、脳ミソがついていくのに時間がかかる(と思った)。

 とにかく、常に絵が動いているのである。一瞬たりとも静止していない、、、というか。映画も中盤くらいになると、ようやく慣れてくるが、ちょっとサブリミナルっぽいというか、目がチカチカしてくる感じもした。実際、終わってから、異様に目が(脳ミソも)疲れていた。

 オドロキなのは、この作画から演出まで全部、監督が一人でやったということ!! ビックリ! そんなことって可能なのか? と思うが、資金集めにも苦労したようで、どうやら何年もかかっているらしい。アニメは諦めようかとも思ったと言っている。バンド・デシネにしようか、実写にしようかとも思ったらしい(それはそれで見てみたかった気もする)。

 ヒロインの少女は、原作ではひときわ美しいということになっているが、本作での娘の顔は、決していかにもな美少女ではない。少女の顔は、どうみても東洋的で、そういう意図はなかったのだろうが、西洋人ぽい顔には見えなかった。男性の顔は、西洋とも東洋とも、どちらとも言えない感じだったけど。水墨画みたいなタッチの絵が、さらに東洋的なイメージを受けたのかも知れない。色使い、音楽もセンスが良い。

 少女が、王子に出会うまでに彷徨う中で、水の精に出会って命を救われるのだけど、ファンタジーな部分はそこくらいで、あとは童話にしてはかなりリアリティを感じさせられる内容だった。少女が林檎の木の上からオシッコをしたり、唾を吐いたりとか、少女が赤ん坊と2人で自給自足の生活をするときに、土地を耕し種を植えるんだけど、その描写が、腕から血が流れたり、種を一つ一つ舌で舐めとって土に吐き出して植えたりとか、、、、絵自体は水墨画みたいな絵なのに、妙にリアルな描写で、非常に印象的だった。

 日本のアニメは素晴らしい、、、という話は聞くけれど、申し訳ないけど、私は、日本のほとんどのアニメはジブリの呪縛から抜け出られていないように思えて仕方がない。というか、ジブリに引きずられている、と言った方が良いのか。いずれにしても、いい加減ジブリから解放されてはどうか。世界中のアニメ作家がジブリ作品から何らか影響を受けてはいるだろうが、、、、。本作のような新たな技法による意欲作が日本からも出て来てほしいものである。

 
 

 





パンフの監督インタビューは、そのまま公式HPにも載っています。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女は二度決断する(2017年)

2018-04-22 | 【お】



 ドイツ人女性カティヤと、トルコ系移民ヌーリ、一人息子で6歳のロッコは、ドイツ北部のハンブルクで幸せに暮らしていた。しかし、ある日、ヌーリの事務所の前に仕掛けられた爆弾が炸裂し、事務所内にいたヌーリとロッコは即死した。

 一人残されたカティヤは、検挙されたネオナチの夫婦の刑事裁判に参加する。裁判は、ネオナチ夫婦を有罪にできるかに見えたが、彼らのアリバイを証言する者が現れるなど、雲行きが怪しくなり、結果的に、夫婦に無罪判決が下る。

 再び絶望の底に突き落とされたカティヤは、ネオナチ夫婦のアリバイを証言したギリシア人の下を訪れ、その証言が偽証であることを突き止め、ある決意をするのだが、、、。
   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 あちこちで紹介されていて、一応、見ておこうと思った次第。この結末を受け容れられるか否かで、本作品への評価も分かれるでしょう。ネタバレ満載なので、未見の方はご注意ください。


◆また出た、ポリティカル・コレクトネスを問う記事。

 なんだか言い訳みたいだけど、私はこの結末、頭では受け容れられないが、気持ち的には大いに共感できる。なので、股裂き状態なのだけれども、本作は良い映画だと思う。

 結論から言うと、カティヤは、このネオナチ夫婦の逃亡先まで出向いていって、彼らの暮らすキャンピングカーに自作の爆弾を抱いて乗り込み、彼らと共に爆死するのである。つまり、自爆によって、夫と息子の復讐を果たす、ということ。

 この結末に対し、某新聞で「「目には目を」の映画 いいのか」という見出しで、ファティ・アキン監督へのインタビューが掲載されていた。この記事を書いた記者(映画関連記事でよく目にするお名前で編集委員)は、明らかにこの結末に対し不満を持っており、というよりも、もっと言うと“間違っている”とさえ言いたげな書きっぷりであった。

 曰く「裁判をここまで感情的に描写すると、「推定無罪」など近代法の根本を否定し、時計の針を「目には目を」というハムラビ法典の時代にまで戻しかねない」、曰く「優れた映画は優れたプロパガンダになりうる。この映画も「裁判じゃラチがあかない」と思わせる破壊力を持つのでは?」、曰く「果たして芸術で優先されるべきは理性なのか、感情なのか」といった具合。

 記者の言いたいことは分かるし、私も、正直本作を見終わった直後、それは感じた。これでは、結局、何ら前向きな解決につながらないではないか、という感覚。

 でも、それは結局、ポリティカル・コレクトネスを創作活動に求めることに他ならず、非常に虚しいことである。そして、私は、その感覚以上に、カティヤの心情を考えると、むべなるかな、、、という感覚に支配されたのである。それに、映画とは、社会問題の解決策を提示するために撮るのではない。

 前述の記事で、アキン監督は「法律が人間の感情を満足させられないのも事実」と言っている。それはまさにその通りで、現実には法治社会に生きる人間として、法の裁きの不条理感や無念さを抱えながら葛藤して生きていくわけだが、出来ることならこの手で加害者に制裁を加えてやりたいと怒りを持ち続ける被害者や遺族がいるのは当然で、本作のカティヤはそれを実行に移してしまったわけだ。

 もちろん、賞賛されるべき行動ではないものの、カティヤの行動を正当性を盾に断罪することも難しい。私が彼女の立場でも、そうしたいと思うだろう。

 カティヤは、一度は、自分で作った爆弾を、ネオナチ夫婦のキャンピングカーの下に仕掛け、自分は安全圏に待避してリモコンのボタンを押そうとする。しかし、そこで思いとどまり、キャンピングカーの下から爆弾を回収するのである。このカティヤの行動が本作におけるキモだと思う。

 つまり、カティヤは自らも爆死することで、復讐と(殺人の)報いを受けるという両立を、彼女なりに果たしたということだろう。それで、彼女の犯した罪が消えるわけではないが、少なくとも、自分だけは安全な場所に待避し、憎むべき相手“だけ”を爆死させては、結局、自分のやったことがネオナチ夫婦と同じ次元に堕ちる、と考えたのではなかろうか。憎むべき人間と同類になるのは、それこそ死んでもイヤだったのだろう。

 自ら死を選ぶことが、彼女の罪に報いることになるとは言えないだろうし、絶望の底にいた彼女にとって自爆がむしろ救いになるかも知れないなど、議論の余地は大いにあると思うが、彼女なりの筋を通したのだ。


◆映画監督の矜持

 前述のアキン監督のインタビューで、私が最も共感を覚えたのは、記者に「この映画も「裁判じゃラチがあかない」と思わせる破壊力を持つのでは?」と聞かれたことに対する答えである。彼はこう言っている。

 「観客は我々の想像以上に成熟しているんです。この作品を見ても、『ネオナチをぶっ殺せ』という短絡にはつながらないと思いますよ」

 優れた映画監督というのは、観客に対する信頼が根底にあると、私は常々感じている。例えばハネケ作品を見ると、それは非常に強く感じる。優れた映画は、肝心なことを描かなかったり、省略したりするものである。そこは、観客の想像力で補わせようとするのだ。

 そして、実際にアキン監督の言うとおり、本作を見て、やられたらやり返しても良いのだ、と考える人は、皆無ではないかも知れないが、ほとんどいないだろう。この記者の問いかけと、監督の立ち位置は、あくまで前提条件が違うのである。創造とはそういうものではなかろうか。

 編集委員ほどのキャリアを重ねた全国紙の記者でも、そこを履き違えるものなのか。この記事を読んで、そもそもこの記者こそ、冷静さを欠いているのでは?と感じたのだが。監督はインタビューの冒頭でこうも言っている。「私自身がカティヤの行動に賛同しているわけではありません。賛同しないが、理解はしています。観客の皆さんもそこは同じだと思う」

 むしろ、アキン監督が本作を見てもらいたい人たち(思想の違いによる殺人を肯定しかねない人たち)ほど、本作を見ないだろう。彼らのアンテナに、本作の情報がポジティブに引っ掛かるとは到底思えない。なぜなら、本作はそれらの人たちを正面から否定しているからだ。そこは明快である。だから、それらの人たちは、本作を敢えて見る必要などないのだ。

 果たして、憎しみの連鎖は断ち切れるものなのか。断ち切るには、そりゃもう、この記者の言うとおり「理性を働かせる」しかないわけよ。そして、大半の人々はそうして、哀しみや怒りと葛藤しながら生きている。復讐譚は嫌いだとどこかでも書いたけれど、結局、連鎖するから嫌いなわけだけど、本作にはあまり嫌悪感を抱かなかった。それは明らかに犯人であるにもかかわらず無罪となった不条理が前提にあって、いわゆる“逆恨み”ではないと考えるからだ。

 私なら、やはり自爆するのは怖ろしさが先に立って、できないと思う。だから、きっと、自らの手で制裁を加えることもできないだろう。妄想は四六時中するだろうが。


◆その他もろもろ

 本作は、実際にドイツであったネオナチによる連続テロ事件に着想を得て撮られた映画とのこと。被害者がトルコ系の移民で、本作のヌーリもそうだったが、過去に麻薬密売に関わっていたなどの経歴から、仲間内の抗争事件との見込み捜査が展開され、ドイツ警察の戦後最大の失態といわれているそうな。初動を誤ったことにより、テロによる被害を拡大させ、大問題になったらしい。

 パンフで、ダイアン・クルーガーが語っているが、いまだに、金髪碧眼のドイツ人と、トルコ系の移民の結婚はタブー視されているとのこと。やはり、そういう民族感情というのは根強いものなのだ、、、。

 ヌーリの事務所が爆破されたとき、カティヤは友人とスパでリフレッシュしていた。それも、彼女の絶望感をさらに深めたに違いない。実際、2人の葬儀の時、ヌーリの母親に「あなたがロッコと一緒にいたら、孫は助かっていたのに」(セリフ正確ではありません)と言われ、彼女は更なる苦しみに苛まれるのだ。

 彼女を支えた弁護士のダニーロの言動にちょっと不可解な点もある。ヌーリとロッコが亡くなり、哀しみに打ちひしがれるカティヤに、ダニーロは薬物(大麻?コカイン?)を手渡すのだ。気分転換にと、、、。それで彼女は警察に調書を取られる。それが裁判に当然不利になる。また、ネオナチ夫婦のアリバイを証言する怪しいギリシア人の証言内容について、彼は現地に行って確かめることもしない。弁護士としてこれってどーなの?

 まぁ、別に気にするほどのことでもないのだが。

 印象的だったのは、ネオナチ夫婦の夫のお父さん。このお父さんが、警察に通報したことで、彼らの検挙に至ったのだ。彼は、法廷でカティヤに哀悼の意を表わし、この瞬間だけが、本作で少し慰められるシーンかも。お父さんとカティヤは、法廷の外で短い会話を交わし、お互い出身地が近いことを知る。そしてお父さんは「いつか、コーヒーを飲みに来てください」と言う。彼がこう言った真意は分からないが、「お互い苦しいけれど生きていきましょう」ということだったのでは。このシーンは、結末から辿ると、非常に胸が詰まる。

 昨年、ベルリンに行った際、トルコマーケットを(駆け足だったけど)訪れた。たくさんの店がでていて、山のような商品が並んで、皆が楽しそうで、、、。それは、移民がベルリンという街に根付いて、社会を築いた象徴のように感じたのだが、それはベルリンだからだったのか。北部の街は、まだまだ保守的だったのだろうか。……いや、きっと、どこにでもネオナチ的な者たちはいるに違いない。けれども、本作のモデルとなった事件は、たまたま、その舞台が北部だったんだろう、、、。どの街にも、いろいろな側面があるのだ。

 ダイアン・クルーガーの出演作、多分これが初めてだと思うのだけれど、非常に正統派の美人で、なおかつ知的で品もあり、とてもステキな役者さんだと思った。他の作品も見てみたくなった次第。

 




やりきれなさに襲われる。




 ★★ランキング参加中★★
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女の一生(2016年)

2018-02-05 | 【お】



 19世紀後半のフランス北部ノルマンディーに暮らす、男爵家の一人娘ジャンヌ。修道院から帰ってきたばかりの世間知らず箱入り娘が、よりにもよって女癖がめっぽう悪い、落ちぶれ子爵家の息子を婿にとって結婚することになったことで、人生が一転、彼女の思いがけない方にばかり転がっていく、、、。嗚呼。

 原作はあの有名なモーパッサンの「女の一生」。原題を直訳すると、「ある人生」とかそんな感じらしい。
   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 終映ギリギリになってようやく見に行ってまいりました。雪が積もる積もると天気予報に脅されていたけれど、1日の夜、映画の日だからか、岩波ホールも思ったよりは人が入っておりました。


◆女だけじゃなく、男も生きにくそうなこの時代。

 共和制の社会になったとはいえ、まだまだ旧い貴族社会の陰を大いに引きずっている時代にあって、女性が自立するだのなんてことは想像だにできないわけで(というか、男性もなかなか生きにくそう)、女の一生はまさしく“結婚次第”だったというのが、ある意味怖ろしいほど切実に伝わってくる映画。この時代の貴族の話というと、お国は違うけれどTVドラマ「ダウントン・アビー」とかもそう。誰と結婚するかで、人生ほぼ決まっちゃう。ああ~、ヤだヤだ。100年前に生まれていなくてホントに良かった。

 で、ジャンヌは子爵ジュリアンと結婚するんだが、ジュリアンは子爵とは言え没落貴族なので財産も資産も何にもナシ男クン。あるのは性欲だけ、、、かどうかは知らんが、ジャンヌと結婚する前から、ジャンヌの侍女ロザリと関係を持っていたというトンデモ野郎。……まあ、でも、この時代の元貴族なんて、そういうことも珍しくなさそうだけどね。ロザリとの不貞が露見し、涙ながらにジャンヌに許しを請うジュリアンは、その後再び、近所の伯爵夫人とW不倫。懲りないヤツ。伯爵に見つかりあっけなく殺される。

 ただ、このジュリアンとの結婚までのいきさつがちょっと意外だった。この時代なら、親が決めた相手と結婚するもの、みたいな感じかと思っていたら、ジャンヌの両親は、「ジュリアンをどう思うか」とジャンヌに何度も問い質すのよね。娘の気持ちが一番大事だ、って。そして、ジャンヌは「私はとっても気に入ったわ!」と答えた。

 ジュリアンにしてみれば財産狙いの結婚だから、男爵家に入り込めればそれで良かったんだろうけれど、、、。

 ジュリアンにとって、ジャンヌはあんまり、、、というかゼンゼン魅力的な女性じゃなかったんだろうな、と思う。今で言うところの、タイプがまるで違う2人、ってやつ。欲深で吝嗇で自己中で女好きのアウトドア系男からしてみれば、大人しくて受け身過ぎるインドア系ジャンヌは、反応がつまらないし食い足りない感じだったんじゃないかな。……とはいえ、ああいう男は、どんな女が妻になっても浮気するから、ジャンヌはあんな男と結婚してしまった時点で苦労を背負い込んだも同然なわけ。

 若くして未亡人になったジャンヌは、ジュリアンの忘れ形見ポールを溺愛。しかし、ポールはジュリアンを遙かに超えるトンデモ野郎に成長し、遂には男爵家の財産を食い潰す、まさに穀潰し息子に。

 嗚呼、自分の生き方を自分で決められないなんて、、、。悲惨。


◆報われないジャンヌの一生。

 本来なら、ジャンヌみたいな女性は、私は嫌いで、こきおろすパターンなのだけれど、本作に関してはそういう感想は持たなかった。例えば『ボヴァリー夫人』のエマが悲惨な人生を歩むことになるのは、エマが頭悪すぎで自業自得だ、とか思うわけだけど、本作におけるジャンヌに対しては、そんな風に思えない。

 ジャンヌを好きとは言えないけれども、嫌いとも言い切れない。何かこう、時代の犠牲になった感じを受けたというか。ジャンヌは性根の悪い人間ではないし、頭が悪いとも感じなかった。それは、ポールが幼いときに寄宿学校で問題を起こした際の、ジャンヌと彼女の父親(ポールの祖父)とのやりとりを見ていれば分かる。ジャンヌは、ポールが寄宿学校には合わないことを見抜いており、違う環境を用意してやればポールにも違った人生が開けることを分かっている。しかし、古い考え(厳しい環境で勉強させなければいけない)に凝り固まっている父親を論破するだけのパワーがないのだ。彼女なりに精一杯の反論をしているのだが、父親を言い負かすことはできない。

 これは、この時代の背景があると言っても良いだろう。例え我が子の問題であっても、我が子にとっては祖父である父親の意見を無視することが出来ないのだ。そうして自分の気持ちは押し殺す。

 だいたい、ジャンヌは、ジュリアンとロザリの不貞が露見したとき、離婚を望んでいたのに、ジュリアンの嘘泣きにほだされた神父と実母にジュリアンを許すよう説得されて、泣く泣く、再構築をせざるを得なかったのだ。ここでもジャンヌは自分の気持ちを押し殺すしかなかった。それに、この神父の後任で来た若い神父は、ジュリアンが伯爵夫人との不貞を知った際、それを伯爵に知らせろと執拗に迫る。ジャンヌが「伯爵の心情を思うと到底出来ない」と拒絶しても、「神の思し召しだ」とか何とか、ものすごい強引。それでも出来ないというジャンヌに、しまいには逆ギレ。ジャンヌがこうしたい、ということにはそうするなと言い、そうはしたくない、ということには、そうしろと強迫する。これのどこが神の思し召しぢゃ!!

 こうやって、自分の気持ちを押し殺すことばかりを強いられるジャンヌは、やっぱり気の毒以外の何ものでもない。ジュリアンとの結婚については「娘の気持ちが大事」などと言っていたのにねぇ、、、。思えば、この両親、ちょっと不思議なんだよね。あんまりこの夫婦の間に情が感じられないというか。父親は農作業にばかり精を出し、母親はどこか夢見がちで。やや浮世離れした感のある夫婦とでもいうか、、、。そう感じる理由は後になって分かるんだけれども、、、。ジャンヌにとって、夫婦のステレオタイプが両親だとすると、まあ、ジュリアンとああなっても仕方がないか、という気もする。

 いずれにしてもジャンヌは、自分の気持ちに正直に動けば裏目に出て、自分の気持ちを押し殺しても事態は悪化する。報われなさ過ぎる、、、。だから、彼女をこき下ろす気になど到底なれないのである。


◆スタンダードサイズの画面が息苦しい、、、。

 ところで、本作は画面がスタンダードサイズで、非常に狭苦しく感じる。多分、このサイズでありながら、アップのシーンや長回しが多いことが余計に狭苦しさを感じるのだと思うけれども、このサイズが案外、良い効果を発揮しているように感じた。

 月並みだけれども、この狭苦しさが、そのままジャンヌの抑圧された息苦しさをストレートに現しているからだと思う。監督自身は、「ジャンヌの住むごく狭い世界をあらわしている。硬く、そして逃れることができない箱(彼女自身の人生)のように」と言っているが、私には、狭いというより、苦しいという感じがした。

 また、構成は時系列が入り乱れていて、セリフの途中や、シーンの途中で、バサッと画面が転換することが多い。普通はこういう手法を使うと、ものすごく見にくくて分かりにくくなりそうなもんだが、本作はそういうことがゼンゼンない。八方塞がりの現在のジャンヌが、ふと束の間の過去の幸せな時間に思いを馳せ、画面が明るくなる。その逆もあり。とにかく、その画面転換が分かりにくいどころか、実に効果的であると思う。

 ただ、ジャンヌの実母が亡くなった後に、男女のラブレターのやり取りが朗読形式で展開するんだけど、ここが、私は、ジュリアンと伯爵夫人の不倫のやりとりかと勘違いしてしまった。終盤に実母の名前が分かって??となり、後でパンフを読んで、そのラブレターが、若かりし頃の実母と不倫相手とのやりとりだったと分かったのだけれど、、、。強いて言えば、ここくらいかな、分かりにくかったのは。それにしても、母親はかつて父親以外に愛した人がいた、、、と知ったジャンヌの気持ちはいかばかりか。

 特筆すべきは、風景の美しさと音楽。北部地方というだけあって、寒い時期の風景は心重たくなる灰色だし、春から夏にかけては、一転明るくなり、海は青く、草花も生命力に溢れる。この対比がまた、見ていて心が痛くなる。音楽は、ピアノフォルテ(ピアノの原型)を使用した、ちょっと金属質な感じの音がジャンヌの心情を表わす。やっぱり、映画には良い音楽が大事だと感じた次第。


◆その他もろもろ

 本作のステファヌ・ブリゼ監督の作品は、『母の身終い』以来2作目で、『母の身終い』もなかなかヒリヒリする良い作品だったので、その次の『ティエリー・トグルドーの憂鬱』が公開されると知ったときも、見に行こうかと思ったんだけど、主演がヴァンサン・ランドンと知って一気に萎えたというか、、、。『母の身終い』で見たヴァンサン・ランドンがどうにもこうにもダメで、、、。でも、本作もなかなか良かったから、ブリゼ監督作品、見てみようかしらん。

 ジャンヌを演じたジュディット・シュムラは、ちょっと奥目過ぎて老けて見える顔だけれど、横顔がとても美しい。17歳から50歳近くまでを演じたわけだけど、特殊メークなどもしていないであろう、どの年代も違和感なく、素晴らしい。

 設定上、イケメンというジュリアンだけれど、私の目にはイケメンに見えなかった! いえ、醜男ではもちろんないけれども、イケメン、、、かぁ? まあ、好みの問題か。

 ジャンヌの両親を演じていたのはジャン=ピエール・ダルッサンとヨランド・モロー。何となく噛み合わない感じの夫婦を好演していた。

 ラストシーンのロザリのセリフが、ある意味、本作の真意を表わしているのかも。「人生は皆がいうほど、良いものでも悪いものでもないんですね」






ロザリが連れ帰った赤ちゃんは本当にポールの子なのでしょーか??




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オン・ザ・ミルキー・ロード(2016年)

2017-10-05 | 【お】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 隣国と戦争中のとある国で、コスタ(エミール・クストリッツァ)は右肩にハヤブサを乗せ、村から戦争に行った兵士たちにミルクを届けるため、毎日ロバに乗って銃弾をかわしながら前線を渡っている。国境を隔てただけの近所で続く戦争がいつ終わるのか、誰にも分からなかった。

 それでも村には呑気な暮らしがあり、おんぼろの時計に手を焼く母親と一緒に住んでいるミルク売りの娘ミレナは美しく活発で、村の男たちはミレナ目当てでこの家のミルクを注文する。そのミルクの配達係に雇われているのがコスタで、ミレナはコスタに想いを寄せていた。戦争が終わったら兵士である兄ジャガが帰ってきて、この家に花嫁として迎える女性と結婚する。その同じ日に自分もコスタと結婚するという計画をミレナは思い描く。しかしコスタはミレナの求愛に気のない素振りで話をそらすばかりだった。

 そんな折、家に花嫁(モニカ・ベルッチ)がやってくる。ローマからセルビア人の父を捜しに来て戦争に巻き込まれたという絶世の美女である彼女とコスタは、お互いに人生を一変させるほどの重い過去の影があり、初めて会った瞬間から惹かれ合うものを感じる。

 まもなく、敵国と休戦協定を結んだという報せが舞い込む。久々に訪れた平和に村人たちはどんちゃん騒ぎを繰り広げる。やがて戦争が終結し、ジャガが帰還する。コスタの気持ちはさて置き、ダブル結婚式の準備は着々と進む。

 しかし、過去に花嫁を愛した多国籍軍の英国将校が、彼女を連れ去ろうと特殊部隊を村に送り込む。残忍な兵士たちによって村は焼き払われ、村人たちはみんな死んでしまう。村に帰る途中で蛇に引き留められたコスタは運よく生き残り、花嫁を連れて決死の逃避行を開始する。

 二人きりとなった彼らの愛は燃え上がるが、追手から逃げ切り、幸せをつかむことはできるだろうか……。
 
=====ここまで。

   
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 確か『エル ELLE』を見に行ったときに手にしたチラシを見て、本作の存在を知った。しかも、シャンテで上映するなんて意外、、、。クストリッツァの信者としては、まぁ、見なくっちゃね。モニカ・ベルッチも出ているし!


◆これまでとは何かが違う、、、。

 というわけで、見に行ったんだけれども、予想に反して重くて、しかも直球真ん中ストレートの悲劇、ってことで、いささか戸惑ってしまった。

 ストーリーはあってないようなもんで、これも、これまでのクストリッツァ作品とは若干趣を異にすると言えるかも。今までの作品は、ちゃんとした背骨があったのだけど、本作も、まあ、あるっちゃあるんだけど、それはストーリーというよりは、むしろ“反戦”という、イデオロギーとまではいかないまでも彼の信念みたいなものであり、もしかして本作が集大成のつもり? などとまで考えてしまい、それはそれでイヤだなぁ、寂しいなぁ、、、と複雑な気持ちになった次第。

 『アンダーグラウンド』を劇場で見た時の衝撃は、今でも忘れられない。もう、とにかく全てに圧倒されてしまい、終わった後もしばらく立ち上がれないほどだった。良い映画は世の中にごまんとあるが、ある意味、『アンダーグラウンド』は良い映画とは言い切れず、しかし、ツボにハマってしまった人にとっては、これ以上の映画はない、と思ってしまう、そういう映画だ。

 『アンダーグラウンド』の凄さについては、いずれ別記事で書く気になれば書こうと思うが、あの作品の魅力は、とんでもなく悲惨な話であるにもかかわらず、それをユーモアと溢れるパワーで描いているので、基本的には人生賛歌になっていることにある。戦争が悲惨な現実しかもたらしていないからといって、決してシニカルに世界を眺めているのではなく、とにかく「絶望の中でも生きる」ことをひたすら描いている。生きる意味など問わない。

 その後、何本も彼の映画を見たが、生きることを、何の前提もナシに全肯定して突き抜けているのが、彼の作品に通底しているものだと思う。

 本作も、ベースは同じだと思うのだが、突き抜け感はなかった。全編にわたって、暗い。もちろん、ナンセンスな、あるいはユーモアのあるシーンも織り交ぜられてはいるが、、、これまで彼の作品から発せられていた強烈なエネルギーは、感じられなかった。それ故、彼も歳をとったのか、、、と思ってしまったのだ。

 本作の評をあちこちで読んだけれども、これまで同様「パワフル」「賑やか」「ハイテンション」「エネルギッシュ」……といった言葉が並んでいた。でも、私には、本作の賑やかなシーンは、そうは見えなかった。これまでの作品が完全なる人生賛歌だったとすれば、本作は、人生の悲哀を全編に感じたといっても良いかも。

 従来のノリを期待して見に行っていたから、期待を裏切られた感じはあるけれど、でもまあ、やっぱしクストリッツァは不世出の映画監督であることは、本作からも確信させられることは間違いない。


◆女性を称えた映画 byクストリッツァ

 本作は、クストリッツァ初のラブストーリーと言われているけど、彼は基本的に人間愛、つまり愛を一貫して描いてきているわけで、本作を“ラブストーリー”だとフォーカスするのもなんだかなぁ、、、という感じがする。

 ただ、本作に暗さを感じる要因は、主人公2人の男女のキャラにあるように思う。つまり、花嫁の方は生きることに貪欲な一方、コスタの方は花嫁を守ることには必死だが、あまり自身の生への執着は感じられないのだ。花嫁を守るためには自分が死んでしまってはダメだ、という感じなのである。

 おまけに、終盤、その花嫁が悲惨な死を遂げることも、暗さを感じることに関係していると言える。しかも、この花嫁のために、コスタの暮らしていた村の人々は全滅させられているのである。それはもう、むごい方法で。この花嫁は、美人にありがちだが、自分の美しさを十分自覚しており、「私の美は不幸しかもたらさない」みたいなことをシャーシャーと言ってのける。コスタに守ってもらっておきながら。

 そんな花嫁の描写に説得力を持たせているのが、モニカ・ベルッチの美貌であるのは言うまでもない。絶世の美女だからこそ成立する悲劇なのだ。

 さらに言えば、花嫁が死んで15年後のコスタが、ラストシーンで描かれるのだが、どうもそのシーンが宗教っぽく感じられ、それもちょっと重さを感じた要因であり、違和感を覚えた。

 果たして本作は、本当にラブストーリーなのかなぁ、、、。

 『レオン』では、マチルダを守らざるを得なくなったレオンとマチルダの間に、恋愛の“愛”があったと感じたけれど、本作のコスタと花嫁の間には、なんというか、人として守らなきゃダメだろ、的な生き残った者同士の同志愛をコスタには感じたのだけど。

 パンフでは、「あなたは初めてラブストーリーを作りましたがなぜでしょうか?」という質問に対し、クストリッツァはこう答えている。

 「僕の映画はいつも、自分がどのように人生をとらえているかを示しているのです。今後は、自分を愛のために捧げたいと思います。そう、愛のためにこそ行動を起こしたい、残りの人生は、そう思い続けるでしょう」

 やっぱり、私には、狭い意味でのラブストーリーではなく、人類愛的な意味でのラブストーリーという風に感じるのだけれど。

 ちなみにクストリッツァは、本作について「今回は女性のための映画だと思っています。女性たちがパワーを見せつけているのです。男たちは、彼女たちが目標を達成することを時折手助けしているだけです。これまで何本も映画を撮ってきましたが、“女性を称えた映画を作るときがやってきた”と悟りました」と言っている。


◆お約束のシーン盛りだくさん。

 これまでのクストリッツァ映画と違う! とは感じたものの、クストリッツァ映画のお約束は本作でもしっかり守られていた。

 動物がいっぱい出てくること、結婚式のシーン、水中を花嫁が泳ぐシーン、空中浮遊するシーン、そしてバルカンミュージック、、、、どれも全部あった。

 特に、動物が本作ではひときわ活躍する。鍵になるのは蛇。蛇がミルクを飲むシーンとか、コスタに絡みついて身動きとらせなくしたりとか、すごく大事な存在として活躍する。動物のシーンは、蛇がコスタや花嫁に絡みつくシーン以外はCGナシだったというのだからオドロキ。コスタがいつも肩に乗せているハヤブサが、音楽に合わせてリズムをとるシーンは最高。

 相変わらず、画的な美しさは素晴らしく、これはスクリーンで見なきゃもったいない。セルビアのタラ山という山岳地帯と南部中心都市トレビニェでのオールロケで、撮影に3年掛かったというのも納得。

 愛の逃避行の相手に、決して若くはないけれど絶世の美女モニカ・ベルッチを選んだ辺りがニクい。ファンタジーの中の、妙なリアリティ。

 クストリッツァ教の信者の多くは本作を見ているはずだが、皆はどう感じたのだろうか、、、。興味津々。








『アンダーグラウンド』を超える作品は早々出てこないとは思うが、次作を期待。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お嬢さん(2016年)

2017-03-21 | 【お】



 以下、リンク先のあらすじコピペです。

 ====ここから。

 1939年、日本統治下の朝鮮半島。世間とは隔絶した辺鄙な土地に建ち、膨大な蔵書に囲まれた豪邸から一歩も出ずに支配的な叔父(チョ・ジヌン)と暮らす華族令嬢・秀子(キム・ミニ)。

 ある日、秀子のもとへ新しいメイドの珠子こと孤児の少女スッキ(キム・テリ)がやって来る。実はスラム街で詐欺グループに育てられたスッキは、秀子の莫大な財産を狙う“伯爵”と呼ばれる詐欺師(ハ・ジョンウ)の手先だった。伯爵はスッキの力を借りて秀子を誘惑し、日本で結婚した後、彼女を精神病院に入れて財産を奪うという計画を企てていたのだ。

 計画は順調に進むが、スッキは美しく孤独な秀子に惹かれ、秀子も献身的なスッキに心を開き、二人は身も心も愛し合うようになってゆく……。

 ====コピペ終わり。

 原作は「このミス」で1位となった、サラ・ウォーターズの「荊の城」。舞台を19世紀半ばのイギリスから、日本統治下の韓国に移しての映画化。


 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『未来を花束にして』を見に行った際に予告編を見て、面白そう、、、と思った次第。おまけに、一緒に見に行った映画友が「このミス」上位本は必ず読む派の人で、原作オススメと言うので、これは見るしかないでしょ。


◆劇場で音の出る菓子を食うな!!

 いきなり余談で恐縮ですが、、、。

 劇場で映画を見るときの宿命だけど、隣に座る人を選べないのですよねぇ。今回は、そういう意味で大ハズレ。

 隣になったのは、多分、私と同世代か少し若い目のオッサンだったんだけど、この人が、本編が始まってから、いきなり、音が出る菓子を食べ出したんですよ。落花生のせんべい。しかもガシャガシャ音のする袋に入っているヤツ。匂いであのせんべいだとすぐ分かったし、一応、バリバリ平気で音を立てて食べるわけじゃないけど、ガサガサ、バリッ、ボリ、、、ボリ、、、ガサッ、ガサガサ、バリッ、ボリ、、、、ボリ、、、、、、ってこれ、延々続いたわけ。最初の5分か10分くらいかと思っていたら、2時間半の映画のほとんどず~っと! てめぇなぁ、、、と思って「音立てないでもらえますか?」と、よほど言おうかと思ったけれど、そう言う私の声が周囲の迷惑になるよなぁ、と思ったり(結構混んでいたので)。

 ああいう人って、何考えてんですかねぇ。本編が始まるまでに食べりゃいいじゃん。予告編でガサガサ・バリバリ音がしていてもいいけど、本編はダメでしょうよ。ったく、、、。10代の若者ならともかく、イイ歳したオッサンがやることか。

 とはいえ、もう、途中からは、そんなオッサンに気を取られるのはもったいないと思い直して、映画に集中しましたけれど。でも、あの落花生せんべいの匂いだけはイヤでも鼻に入ってくるのだよ、、、、トホホ。


◆エログロ炸裂。

 と、余計なことはさておき。

 面白そうと思って見に行ったとはいえ、大して期待もしていなかったのですが、これが良かったのか、結構楽しめました。

 まあ、一言で言っちゃうと、エログロ・ギャグ映画、って感じかなぁ。さすが、パク・チャヌク監督だけあって、中途半端なことはいたしません。かなりぶっ飛んでいます。でもそこがイイ。ここまで振り切れちゃっていると、爽快でさえあります。

 三部構成で、第一部は珠子=スッキの、第二部は秀子の、第三部は伯爵の、それぞれ目線でという具合。第二部、第三部へと進むにつれて、コトの真相が分かってくると、ええ~~っ、っていう展開もちりばめられつつ、でも片方では一定のお約束な展開もあり、その辺のバランスも絶妙。逆に言えば、ギョッとするほど意外な展開ではなかったとも言えます。でも十分観客の興味を最後まで引っ張ってくれるので、エンタメとしては上出来なのでは。

 特に、第二部の終盤に展開する、スッキと秀子の恋模様はちょっと切なくもあり、大胆な濡れ場シーンも交えて、飽きさせないです。全体にユーモアもあり、人間の愚かしさを容赦なく徹底的に愚かしく描いている辺りが、イイです。

 ネット上で、日本の着物の着方や髪型、住まいの館の様式がヘン、といったツッコミを入れているレビューを見かけましたけれど、監督は承知の上でやっていると私は思いましたね。だって、それは、本作全体を見れば分かることでしょう。細部でウソを描くと白けるとは常々思うことですが、こういうのは、ウソを描いているのではなく、演出の一つだと、私には思えたんですけれどねぇ。

 でなきゃ、秀子に日本人の女優を使っただろうし、あんなあり得ない朗読会のシーンとか、そもそもおかしいでしょ、って話じゃない?


◆秀子の、自由への脱出物語。
 
 とはいえ、あんまり奥行きのある映画ではなく、見終わって何か強烈に心に残るものがあるわけじゃありません。

 ただ、叔父も伯爵もロクでもないヤツで、女性礼賛的な印象は強いです。そのほかにも出てくる男たちは、ただのスケベ親父的な扱われ方で、言ってみれば女を性の道具としてしか見ていないような男性像。それに抗い、自力で人生を切り開く若い娘たち、みたいな対比ですかね。斜めに見れば、旧体制VS新体制、のメタファーというか。

 少なくとも、男性目線で、“男が喜ぶ女”を描いてはいないです。男性は、本作を見てどういう感想を持つのかなぁ、、、。多分、女性受けの方が良いと思いますね。

 第三部の展開は、ちょっとグロで、私としては苦手なシーンが多く、あまり直視できませんでした。、、、つまり、痛いシーンが多いってことです。痛い目に遭うのは、もちろんニセ伯爵さん。痛い目に遭わせるのは叔父さん。どちらも胡散臭すぎなんだけど、まあ、どこか憎めない人に描かれています。

 ラストは、とことん叔父に抑圧されて、男たちの好奇の目に晒され続けてきた秀子が、スッキと奔放に愛し合うシーンで終わります。秀子はようやく抑圧から解放されたのです。


◆その他もろもろ

 冒頭に書いた、原作が面白いと言っていた映画友曰く、原作は、もっと繊細な感じらしい。面白いからオススメ! と言われたので、原作も読んでみたくなりました。

 秀子は日本人の設定だし、日本人に憧れる叔父の館に仕えるスッキなので、彼女たちや伯爵が日本語を話すシーンも結構あります。ただまあ、正直、なんて言っているのか聞き取れない部分も多々ありまして、、、。大勢に影響ありませんけれどね。

 秀子役のキム・ミニは34歳とは思えない若々しさで、美人というわけじゃないけれど、独特の退廃的な雰囲気と色気で、役柄にぴったりです。スッキ役のキム・テリは、なんと新人だというからオドロキ!! あの大胆な濡れ場シーンもですが、演技経験がないとはとても思えぬ役者っぷりです。顔もあどけなくてカワイイし。秀子の奥歯を、スッキがヤスリで優しく削ってあげるシーンとか、なかなか画になっていて見所の一つです。

 自殺しちゃった叔母役のムン・ソリがチョイ出ですが良い味出しています。また、秀子の子ども時代の女の子が凄くカワイイ。この2人がエロ本を朗読するシーンがあるんですが、「ちん○」とかいうNGワードが、フツーに彼女たちの口から飛び出しますので、その意外性にまた笑ってしまいます。

 邦画でも、ここまで大胆かつ、振り切れちゃった映画が、もっとたくさん作られると面白いんですけれどねぇ、、、。







あっという間の2時間半。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女と男の名誉(1985年)

2017-01-24 | 【お】



 イタリア系マフィア・プリッツィ家のドンに可愛がられている秘蔵っ子、チャーリー(ジャック・ニコルソン)は、ある日、ドンの孫娘の結婚式で美女アイリーン(キャスリーン・ターナー)に一目惚れ。2人は意気投合し、恋に落ちるが、アイリーンは、プリッツィ家の大事な金を持ち逃げした男の妻だった……! が、テキトーな言い訳をするアイリーンを信じたチャーリーの彼女への思いは変わることなく、プロポーズしてしまう。

 でも、実は、アイリーンは、プロで一匹狼の殺し屋だったのである。プリッツィ家の金を横領したのも、夫ではなくアイリーン自身だったのだ! そうとは知らないチャーリーは、アイリーンと結婚してしまう。

 チャーリーには、実は過去に結婚を約束した女性がいた。ドンの孫娘メイローズ(アンジェリカ・ヒューストン)。メイローズはチャーリーとの婚約破談後にヘンな男と駆け落ちしたことを咎められ、一族から勘当されていたが、4年ぶりに勘当が解かれ戻って来ていた。チャーリーにまだ未練がある様子のメイローズは、彼がアイリーンと結婚したことが面白くない。そこで、、、、。

 邦題からだと、“名誉”は、チャーリーとアイリーンの名誉のことかと思うけど、見終わって、さらに原題を見て、それが間違いであったことを思い知る、、、、ごーん。
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


◆名誉とは?

 3年前くらいにBSでオンエアしていたのをHDDに保存したままで、いい加減どうにかしなくては、、、と、やっとこさ見た次第。

 割と評判良いので長々とHDDに保存したまま消去しなかったのですが、まあ、見て損したというほどではないけれど、世間の評判ほど良いとも思えなかった、、、というのが正直なところです。ストーリー的には飽きずに見れましたけど。

 マフィアの幹部と、フリーの殺し屋が恋に落ちて結婚する。これで、何も起きない方がオカシイわけで、、、。チャーリーとアイリーンが結婚に至るまではかなり強引な展開だし、結婚後は、キツネとタヌキの化かし合いみたいな感じ。

 詰まる所、メイローズが裏で引いていた糸により、チャーリーとアイリーンは互いに殺し合うことになり、間一髪で難を免れたチャーリーとメイローズがイイ感じで電話しているところでジ・エンドとなる訳だけど、、、、。

 本作を見てグッと来なかった理由の一つは、多分、プリッツィ家が結局のところ「地獄の沙汰もカネ次第」を地で行くマフィアだったからかも。

 とにかく、何でもすぐに金金金! まあ、ヘンにヒューマンドラマを気取らないだけ良いのかな、という気もしますけれど。コルレオーネだってぶっちゃけそうだもんね。あっちの方が格調高い印象は定着しているけど、根っこは同じ。

 そうそう、本作の原題は、“プリッツィ家の名誉”なので、当然、チャーリーとアイリーンの名誉ではありません。強いて言えば、メイローズの名誉でしょうかね。あるいは、プリッツィ家の一番大事なものは金なわけですから、プリッツィ家の名誉=金、とも言えましょう。いずれにしても、プリッツィ家にとってアイリーンは目の上のたんこぶだったのでありました、、、ごーん。


◆ヤな女 VS イイ女

 正直、メイローズという女性が、私は同じ女としてキライです。だから、ラストでもカタルシスなど全然感じられなかった。何この女、ヤな奴! としか思えない。グッと来なかったもう一つの理由がそれ。

 チャーリーとの結婚が破談になって、当てつけみたいに駆け落ちしたり、チャーリーが結婚したらぶち壊そうと画策したり、、、。チャーリーを愛しているから自分のものにしたいから、、、ってことだろうけど、こういう“地球は自分中心で回ってる女”は、身近にいるともの凄くメイワクですよねぇ。自己完結してくれていればいいけど、そうはいかないんだよね、こういう人は。必ず回りを巻き込む。だって、自分の思い通りにならないと暴れるんだから。

 メイローズを演じたアンジェリカ・ヒューストンが、正直、怖い。顔もだし、人物造形も、、、かな。目の下にクマをわざわざ描いているシーンとか、怖すぎ。顔自体もインパクトあるから、余計にね、、、。

 一方のアイリーンは、愛すべきキャラじゃないですかねぇ。マフィア一家を笠に着ているメイローズと違って、自分の腕だけで生きて行くフリーの殺し屋ってのもカッコイイ。ホレた男と損得勘定せずに感情だけで結婚しちゃうところとかもgoo。そうはいっても、やはり、根は殺し屋。愛する男でも、自分を守るためなら殺すことも容赦しない、っていうドライさとかも痺れます。

 キャスリーン・ターナーって、やっぱりイイ女優さんだと思う。外見の変化が激しかったけれど、この頃は確かに美しいし、でも、どこか庶民的で、反面謎めいていて、、、と、とても多面体で、いろんな役をやるごとに違う顔を見せてくれる役者さんです。

 
◆その他モロモロ

 ジャック・ニコルソンとアンジェリカ・ヒューストン、私生活でも一時期パートナーだったとか。何か意外、、、。

 ジャック・ニコルソンが、本作ではあんまりイッちゃってませんでしたね、そういえば。なんか、フツーのおじさんっぽかったのが、むしろ特筆事項かも知れません。

 しかし、このあと、プリッツィ家はどーなるんでしょうか。あのボスも先は短そうだし、チャーリーはドンの器があるのでしょうか、、、。私にはあまりそのようには思えなかったんですけれど。

 アンジェリカ・ヒューストンは、監督ジョン・ヒューストンの娘さん。似てるかなぁ? ジョン・ヒューストン作品、実は、『アフリカの女王』くらいしか見ていないんですが、イーストウッド監督の『ホワイトハンター ブラックハート』は大昔に見て、うう~ん、って感じだったのはよく覚えています。もう一度見て見てみよっかな、、、。

 ジョン・ヒューストンは、私的には、『チャイナタウン』でのノア・クロスの印象が強いですね。彼の監督作品をもっと見れば印象も変わるんでしょうけれど。

 、、、グダグダな感想文ですみません。




金のためなら親でも子でも妻でも殺すのさ~




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女相続人(1949年)

2016-09-27 | 【お】



 19世紀半ばのNY。医師で財産持ちの男オースティン・スローパー(ラルフ・リチャードソン)と、適齢期(死語?)を過ぎた一人娘キャサリン(オリヴィア・デ・ハヴィランド)が高級住宅街の豪邸に2人で暮らしている。そんな地味で晩稲な娘が、イケメンだが文無し無職の男モリス・タウンゼンド(モンゴメリー・クリフト)と恋に落ち、、、。

 ま、トーゼン、お父さんはモリスが財産狙いのだめんずだと考えて娘の恋路を阻み、キャサリンは相続権を失ってでもモリスと結婚しようとすると、モリスは駆け落ちの約束をすっぽかすわけですが、、、。

 この映画はそんなストーリーからは想像もつかない衝撃的な映画です。見終わって、もの凄い余韻。ワイラー監督、恐るべし。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 ちょっと、今回の感想は長くなります。

 またまた、何でこのDVDをリストに入れたのかまったく記憶になく、送られてきたので見てみたのですが、、、、これは、衝撃大です。


◆ウィリアム・ワイラー監督作品と言えば、、、

 ウィリアム・ワイラー監督の映画というと、私には『ローマの休日』でも『ベン・ハー』でもなく、圧倒的に『コレクター』なんですよねぇ。そもそも、名画の誉れ高い前者2作は、恥ずかしながらちゃんと見たことないもので、、、。『嵐ケ丘』は見たはずなんだけれども、記憶にない、、、がーん。

 というわけで、どうして本作を見ようと思ったのかは思い出せませんが、よくぞリストに入れたものだと自分を褒めたいですね。

 もとは戯曲だそうで。なるほど、、、という気がします。印象的なセリフが多かったので、紹介がてら、、、。


◆最悪な父親

 ま、本作をそこまで秀逸なものにした最大の要素は、父娘の関係の描き方でしょう。一見、仲の良い父娘。人格者の医師で、一人娘を慈しみ、使用人からも慕われるジェントルマンな父。そして、そんな父を尊敬し、逆らうことを知らずにひたすら従順な娘。

 でも実は、この父親は心の中では娘をまったく認めていない。蔑んですらいるのです。娘と共に出席したパーティ会場で、父親はキャサリンがダンスをしている最中、親類の女性にこんなことを言っています。

 「娘は名門の学校を出た。音楽や踊りの習い事も、寝る前には社会の常識も教えてきた。のびのびと育てたがご覧のとおりだ。平凡で世間知らずの娘になってしまった」

 我が娘に対する言葉として、これだけでも怒髪天なんですが、親類の女性の「彼女に失礼だわ。期待し過ぎよ」という諫言に対し、さらに侮辱の上塗りをします。

 父「あの娘の母親を(知ってるだろう)? 気品があり、しかも明るかった。彼女の娘なのに、、、」
 女性「母親と娘を比べてはいけないわ。亡くなった奥さんを美化しすぎているわ」
 父「それは言わんでくれ。死んで初めて分かった。彼女の大切さが、、、」

 ……どーです、この会話。この父親のキャサリンを語る言葉の数々。これだけでもう、父親は地獄行きです。ま、実際、彼はこの後、地獄を見るのですが。

 恐らくこの男は、生前の妻も、心から愛して大切にしてはいなかったと思いますね。死んで初めて分かった、なんて、亡き妻からすれば噴飯ものなセリフなわけで。私が亡き妻だったら、呆れてモノが言えないと思うなぁ。そんなふうに勝手に美化して思い出してばかりいるより、現実に我が娘を全力で愛して、娘の幸せのために犠牲になってくれる夫の姿を空の上から眺めたいものです。

 それに、いくら表面的に良い父親を装っていても、いざとなると本性が牙を剥くのです。モリスとの結婚を貫こうとするキャサリンに対し、こんな暴言を吐きます。

 「今まで黙っていたが真実を教えてやろう。(モリスの目的はキャサリン自身ではなく)財産だ、それしかない。信じたくないだろうが、お前は昔から取り柄のない娘だった。唯一の例外は、刺繍ができることだ」

 つまり、モリスのようなモテ男が、お前なんかに惚れるわけねーだろ、このブス!! と言ったも同然な訳です。……この暴言により、キャサリンの父親への信頼は見るも無残に砕け散りました。

 このセリフは、その表面的な意味ではソフトに聞こえるかも知れませんが、その核心は、「初めて言うが、今までずっと親の私はそういうふうに娘であるお前のことを認定してきた。それだけの人間でしかなく、だからお前の考えも判断も到底信用も出来なければ尊重する意味がない」というものであり、まさに、娘への死刑宣告なのです。

 大げさな、、、とお思いのあなた。あなたは人の親ですか? であれば、大げさだと思わない方が良い。

 こういう人格を根こそぎ否定するような侮辱の言葉を、赤の他人ではなく、実の親に言われるということが、子どもの心にどれほどの衝撃を与えるか、世界中の親という存在は覚悟した方がよい。

 この父親のさらに悪質なところは3点あります。

 1つ目は、今までは理解あるよき父親を演じて来たこと。腹の中では亡き妻と比較しては蔑んでいたのに、表面を取り繕って25年もキャサリンを欺いてきたのです。

 2つ目は、結局自分が一番大事な人であること。なんだかんだ言っても、結婚に反対したのはモリスに自分が築いた財産を食いつぶされるのがイヤだからです。娘が相続した遺産は娘のものだと思えない。もの凄く自己チューな上に、強欲です。

 3つ目は、自覚がないこと。亡き妻が素晴らしかったのに、こんな娘で、、、と彼は思っている。しかし、キャサリンは、その亡き妻と自分の間に出来た子であり、亡き妻の良い所に似ても似つかぬのであれば、そのダメダメ要素は自分が授けたものであるはずだ、ということに思いが至らない。自分がどんだけ素晴らしい男だと思っているのか。傲慢甚だしい。

 こんな父親が側にいては、キャサリンに訪れようとする幸せも逃げて行ってしまうのは、むしろ自明の理であります。なんと罪深い父親。

 しかし、この父親の一番の罪は、今まで書いてきたものではありません。一番の罪、それは、キャサリンを“完全な人間不信”にしてしまったことです。

 山岸凉子の作品に『天人唐草』というのがありますが、あれと話はちょっと違いますが、似ていると思いました。あの主人公、岡村響子の行き着いた先よりは、キャサリンの方がまだマシかも知れません。キャサリンはどこの誰とも分からない男にレイプされてもいないし、少なくとも一生喰うに困らない財産と、心は凍りついても正気な頭はありますので、、、。


◆キャサリンの変貌ぶりが見もの

 本作の見どころは中盤以降。もちろん、そのための序盤なのですが、序盤~中盤にかけてのキャサリンのダサさ、従順さ、素直さ、そういうものが後半、モノの見事に、それこそオセロの白を一気に黒に裏返すがごとく反転していきます。美しく垢抜けたキャサリン、しかし、性格は冷たく、頑なに、、、。

 終盤、モリスが、5年ぶりにキャサリンを訪ねてくるシーン。叔母のラヴィニアが何とかキャサリンに女性としての幸せを味わってほしいと、2人をとりもとうとします。言い訳がましい上に、白々しいセリフを吐くモリスですが、キャサリンはその夜、結婚しようと約束し、彼の気持ちを受け入れるかに見せて、一旦、モリスを帰します。が、しかし、キャサリンはその後、ラヴィニアにこんなことを言うのです。

「彼はまた現れた。同じ嘘を並べながら、さらに強欲になって。初めは財産だけだったのに、今は、愛まで欲しがっている。来るべきでない家に2度も訪れるとは。3度目は許さない」

 ショックを受けるラヴィニアをよそに、おめおめと再び現れたモリスを完全に拒絶するキャサリン。外で戸を激しく叩くモリスの横顔に被るエンドマーク。

 でも、思うに、キャサリンはまだモリスのこと、好きなのです。それは、キャサリンの微妙な表情に現れている気がします。私がキャサリンなら、たとえ嘘だと分かっていても、モリスと結婚しちゃうなぁ。だって好きなんだもん。好きな男があそこまで言ってくれるのです、嘘でも。

 灯りを手に、玄関の戸をモリスが打ち鳴らす音を聞きながら、決然と階段を上がって行くキャサリンは、なにかこう、、、荘厳でさえありました。そして、哀しい。とても。復讐は果たしたかも知れないが、キャサリンの心はこれでもう、一生閉ざされたままの可能性が高いのですから。

 この一連の終盤のシーンについて、ネットの感想など見ると、“女はコワい”みたいのがチラホラありました。コワいと書いているのは大抵男性の様でしたけれど、コワいってどこが? 本当に怖いのは、何度も言うけど、父親ですよ、本作では。

 娘が生まれてこの方、ずーーーっと、腹の底ではバカにし続けてきた、娘を欺き続けてきた父親。ああ、やっぱり『天人唐草』の父親と同じに思えます、私には。


◆モリスは本当に財産“だけ”が目的だったのか。

 さて、本作のもう一つの主眼は、果たしてモリスは本当にキャサリンを愛していたのか、ですが、、、。まあ、これは本作の中では意図的に曖昧にされています。見る人によって受けとめも違う、、、というか、まあ、大抵は財産目当てに軍配ですよね。

 でも、父親があそこまで決め付けなかったら、、、? 見る人の見方も変わるのでは。私は、ロミジュリの変型版という解釈もアリだと思うのです。

 親に反対される結婚だけれど、当人たちの気持ちだけは確かである。少なくとも今は。1点の曇りもない(つまり財産度外視ではない)、、、わけじゃないけれど、でも愛していることは間違いない。そういうのだってアリでしょう。純粋に、無一文でも愛さえあれば、ってのじゃなければ愛ではない、なんて決め付けすぎない方が、案外幸せなんじゃないでしょうか。

 同じ山岸凉子の作品に『ブルー・ロージズ』というのがありますが、これはキャサリンのように引っ込み思案で晩稲な女性がある男性と恋愛関係になるんだけれど、相手は元カノと復縁してしまい、、、。結果は別れとなるけれど、でも、女性は、恋愛経験を通して、一人の男性に愛されたことで自信を得ます。「自信とは愛情だった。……自分を愛せるということは、ひとをも愛せるということなのだ」という女性の心の声のセリフが印象的です。

 キャサリンがどこか自信なさげで、凡庸に見えたのは、父親に愛されていなかったから。ルックスが人並みでも、キラキラしている人って、普通にいるじゃないですか。キャサリンも、序盤でパーティの支度をしながらラヴィニアと交わす会話はユーモアもあり、決して気の利かない凡庸な娘ではありません。そしてもし、モリスの愛を知ったら、、、。キャサリンは、その後モリスと破綻しても、人間不信などにはならず、また誰かを愛することが出来る人間になれたはず。


◆その他もろもろ

 オリヴィア・デ・ハヴィランドは本作でオスカーを受賞しているそうですが、なるほどの演技です。前半と後半の明暗の素晴らしさ。前半の野暮ったさと言ったら、、、もう、娘というより“オバサン”に近い。モリスに恋してからは、オバサンぽいままだけれど、恋の悦びを全身にまとって素晴らしい。可愛く見えるんですもん。モリスにすっぽかされた後、ガックリと、自室への階段を上がるときの、あの暗い階段が聳え立つシーンが、何ともいえず切なく哀しいです。

 モリスを演じたモンゴメリー・クリフトは、私的には好みじゃないけど、なるほどイケメンです。リズの恋人でもあったとか。モンティ自身はバイセクシャルだったそうですが、確かに、これは男にも女にもモテそう、、、。

 そして、悪し様に罵って来た父親を演じたラルフ・リチャードソンは名演ですね。最期、娘にも看取られない憐れな父親役ですけれど、顔には知性も品性もあって、ちょっと意地悪そうで、ぴったりのハマリ役。






原作(ヘンリー・ジェイムズ著『ワシントン広場』)を読んでみたくなりました。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狼の挽歌(1970年)

2016-02-09 | 【お】



 一匹狼の殺し屋ジェフ(チャールズ・ブロンソン)が、ヴァネッサ(ジル・アイアランド)といういわくつきの悪女に騙され続け、挙句、取り巻きの男たちもろとも彼女も葬ってしまうことに、、、。

 決してイケメンじゃないのに、渋いゼ、ブロンソン   

  
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 チャールズ・ブロンソンといえば、私なんかの世代はしょっちゅうテレビで放映していた『狼よさらば』と、マンダムのCMでおなじみのオジちゃんです。子ども心に、決してオトコマエじゃぁないけれども、なんかカッコエエなー、このおっちゃん、と思って見ていたのはよく覚えています。ゼンゼン笑わないし。かといって、無表情、というわけでもなく、、、。

 大分前にBSで録画してあったのを、ようやく見ました。

 冒頭、美女とパンツ一丁のブロンソン。やっぱし、ムサイおっちゃんだよなぁ、顔だけ見てると。でも、どこかキマッてる。美女のビキニの紐解いたりしちゃって。その手つきもどこか不器用な感じだけど、悪くない。

 セリフはないまま、その美女と車に乗ると、お決まりの、なぜか誰かにつけられる、、、という展開。ここからが見もののカーチェイス。

 私は、カーチェイスといえばイーストウッドだと思っているのですが、ブロンソンのそれもなかなかカッチョ良かったです。圧巻は、車幅ギリギリの階段を無理矢理上がって行くところ。ガックンガックンなりながら、上がり切る。しかし、そんな苦労したのに、敵は結構すぐに追いついてきちゃう。うーーん、ナンダカ。

 で、やっぱり一緒に乗せていた美女は、裏切り者でござんした。いわゆる悪女ってやつですね。男たちを手玉にとって、自分は上前を見事にはねていく、ってやつです、峰不二子みたいに。、、、でもまあ、ジル・アイアランドはおキレイなんですが、あまり悪女の迫力はないですねぇ。可愛すぎです。
 
 マフィア(?)の親玉は、テリー・サヴァラスで、迫力あります。この人はやっぱし悪役が似合うなぁ。彼が演じるウェーバーに雇われていた弁護士スティーブが結局はラスボスなんですが、迫力ではテリー・サヴァラスの方が圧倒的です。でも、テリー・サヴァラスでは弁護士役はちょっと、、、ってことでしょうか。

 この弁護士スティーブ、どっかで見た顔だなぁ、、、と思いながら見ていたんですが、こないだレビューを書いた『地獄に堕ちた勇者ども』でシャーロット・ランプリング演じるエリザベートの夫ヘルベルト役を演じていた人だった! ウンベルト・オルシーニ。道理で、見た顔のはずだわ。ヘルベルトは頭の良いリベラル派の正義漢でしたが、本作では、知性派でマフィアも出し抜く悪徳弁護士、と対極にある役どころ。まあ、、、ブロンソンとサヴァラスに挟まれてちょっと影薄かったかも。この人、『ルートヴィヒ』にも出ていたんでした。知らんかった。

 ブロンソン演じるジェフは、殺し屋としての腕前は一流なんだろうけど、なんつーか、ちょっと殺し屋にしては人間臭すぎるよな~。ヴァネッサがどうしようもない女だと分かっていながら、好きなもんだから何度でも騙される。自分を殺そうとした人間を消しに行っても、そこで、ウェーバーの手下に証拠を握られ利用される。、、、超一流の殺し屋ってのは、やっぱし冷酷非道なわけで、まあ、だからジェフは、ラストでああいうことになっちゃうんですけれども、、、。

 ウェーバーが新しいビルを手に入れて、それをジェフに案内するシーンがあるんですが、そのビルが特徴的で、エレベーターが外付けというのか、ガラス張りで、大通りから丸見えなんですよ、上がったり下りたりするのが。、、、で、それを見て、このエレベーターがもしや狙撃現場になるのか? と思っていたら、ホントに終盤そうなっちゃうんだからビックリ。

 スティーブに寝返ったヴァネッサが、2人でそのエレベーターに乗ります。最上階の会議室に向かうところ。エレベーターに乗った時は意気揚々、最上階でエレベーターの扉が開いたときには死体になっている2人、、、。そう、ジェフが向かいのビルからこのエレベーターに狙いをつけて2人を射殺したんです。スティーブが最初に殺られ、残ったヴァネッサは、ガラスの壁に両手を広げてジェフの方に向かって呟きます、「一発で殺して、、、」と。もちろん、ジェフには聞こえませんが、なかなかの見せ場ではないでしょうか。

 まあ、ストーリー的にはかなりお粗末な感じはありますが、個性豊かな俳優陣のおかげで、それなりに楽しめます。





ジル・アイアランドはブロンソンの2番目の妻だそうです。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おとなのけんか(2011年)

2015-10-21 | 【お】



 2人の男の子がケンカをし、片方が木切れで片方の歯を折ってしまった。傷付けた方の両親が、傷付けられた方の両親宅へ出向き、今後について話し合いを持った。

 そこで繰り広げられる2組の夫婦、いい歳した男女4人のシャレにならない本音バトル。

 元が舞台劇の、ワンシチュエーションもの。・・・退屈はしないけど、途中から、なんかいたたまれなくなってきた。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 少し前のBSオンエアを録画してあったのをやっとこさ見ました。・・・これは、正直、自分の姿を見せつけられているみたいで、中盤以降、笑えなくなりました。

 4人のオトナは、ある意味、世間によくいるタイプのカリカチュアでしょう。意識高い系ペネロペ、似非自由人マイケル、自意識過剰ナンシー、エリート傲慢系アラン、、、て感じですかねぇ。

 強いて言えば、私はマイケル型人間かな。ハムスターを放置したのだけは除いて、、、。

 でもって、一番嫌いなタイプは、アランくん。でぇっきれぇ~なタイプ。

 ペネロペとナンシーは、まあ、ありがちというか。少しずつ、自分にも彼女たちのような要素は持っていると思うし。

 息子たちのケンカについて話し合っているうちに、最初は、夫婦VS夫婦で、互いの息子の正当化バトルになるんだけど、局面によっては男VS女だったり、プライド高い系VSマイペース系、こだわり系VS気まま系、と、括りがイロイロ変わり、対立する面々も変わってくる。必ずしも2対2じゃなく、2対1だったり、3対1だったりする。でも、誰かしら、必ず誰かとぶつかる。

 そう、人間って決して一面だけじゃないってことですよねぇ。4人のオトナについてそれぞれカテゴライズして書いたけれど、それだって、一番よく見えやすいものがそうだってことであって、その陰に隠れているものはたくさんあるわけです。夫婦だからってそれを全部見せ合っているとは限らない。夫婦だから見せられる部分と見せられない部分が当然あって、夫婦だから見せられないものでも友人には見せられるものも当然あって、だから、夫の知らない妻を、友人は知っている、とか、、、。

 でもって、図らずも、こういう場面で普段は見えていない部分が、しかもサイアクな形で露呈するという、、、。夫婦にとっては一番避けたいパターンでしょ。

 と書いてきて思い出したんですが、大昔に母親とケンカになったとき、母親に「親に見せてる顔と、友達に見せてる顔が同じわけないでしょ~(呆)」と言ったことがあるんですよね。これが母親にはショックだったのか、怒り狂って「何でそんな使い分けんねや!! イヤらしい!!!!」と、もう手が付けられない激昂振りでした。私としては、そんなのアタリマエ~、な話だったんですけど、、、。だってそうでしょう? “友達”に限らず、職場の同僚or上司、好きな男、近所のおばさん、親戚のおじちゃん、誰にだってぜ~んぶ同じ顔なわけないじゃんか。好きな男の前で見せてしまう顔を、親に見せるはずなかろうが。ちょっと考えれば分かることなのに、母親は、当たり前すぎることを言語化して真正面から娘に言われて、気持ちの持って行き場がなかったんでしょうなぁ。それは分かるけど、あの激昂振りはちょっと酷かった、、、。

 さらに余談だけれど、・・・だから“裏表のない人”ってのは、私は逆にイマイチ信用できないです。悪く言われやすい“弱きに強く、強きに弱い人”ってのはある意味分かりやすい人なわけで。でも、誰にでもニコニコ愛想が良くていい人、ってのは怪しい。人に悪く思われないよう立ち回る、、、むしろ腹黒さを感じちゃう。嫌われたってイイじゃない、人間だもの、、、、って相田みつをかって感じですけど、やっぱりある程度のオトナになると、開き直ってて程々に良くて悪い人が、まあ好きかな。こういう人は、修羅場くぐってるだろうし、だからこそ自信に裏打ちされた相応のプライドをちゃんと持っていると思うし。自分もそうでありたい、という思いもありますが。

 そう考えて本作の4人を見ると、ペネロペ、ナンシー、マイケルは、プライドと自信アンバンランス組じゃないかな。アランは根拠のない自信家だからある意味バランスとれているけど、4人の中じゃ一番幼稚、っていう見方もできる。イイ歳して自分を客観視できないヤツ、みたいな。

 だけど、まあ、プライドと自信をバランスよく形成するって、やっぱり凄く難しいと思う。ちょっと痛いとこつかれて、タガが外れちゃったら、誰でもこんな風になる可能性大いにあると思う。だからこそ、見ていて辛くなってしまった訳で、、、。

 ジョディ・フォスターが額に青筋立てて激昂しているのは、もう演技を超えていました。ケイト・ウィンスレットはもう、、、途中、ちょっと正視できませんでした(もちろんそれは“あの”シーン)。クリストフ・ヴァルツとジョン・C・ライリーも素晴らしい。

 こんな風に、オトナ4人が口角泡を飛ばして罵詈雑言の応酬をしているのを知ってか知らずか、息子同士はちゃっちゃと仲直りなんぞして、生死を危ぶまれたハムちゃんも元気に公園の芝生を闊歩している、、、ってのがサイコーでした。そう、世の中、自分の思いとは全然カンケーないところで勝手に回って行くもんなんですよ、ホントに。いきり立ってるの、アホらしいです。ケ・セラ・セラ~~~

 ポランスキーって、やっぱしスゴイなぁ。この後の『毛皮のヴィーナス』も面白かったし。守備範囲広すぎ。






あなたは4人のうちのどのタイプ?




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おみおくりの作法(2013年)

2015-02-11 | 【お】



 ジョン・メイ、44歳、独身。几帳面で慎重派の男。22年間、役所で、身寄りのない人々の葬儀から埋葬までを、淡々と、しかし、故人に敬意をもって担当して来た。

 が、突然の解雇通告。今、手掛けているビリー・ストークの葬儀と埋葬が終わったら職を離れることに・・・。このビリー、相当の曲者だったらしいが、彼の一人娘ケリーにも接し、どうにかケリーの臨席の約束も取り付けた。これで、最後のお勤めを終えられそうだ・・・。

 と、安心して、いつになく慎重さを欠いた行動に出た途端、、、!!


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜

 
 昨今、悲劇の象徴みたいに言われる“孤独死”がテーマです。ジョン・メイが扱うのは、例外なく孤独死した人々の、いわば後始末です。ジョンの上司が言うように、「火葬して終わり」でも良いわけです、法的にも倫理的にも。

 でも、ジョンは、故人の人となりや好きだったものなどを遺品から見つけ、手厚く弔うのです。これは、彼の性格でもあり、仕事をする上での信条でもあるのでしょう。本人も、この仕事を「好き」だと言っています。

 彼の仕事は丁寧ですが、それは故人への敬意から来るものであり、孤独死したことへの憐みではないことが、見ていると非常によく伝わってきます。本作に好感が持てる最大の理由はここです。孤独死なんかしちゃって可哀想、という上から目線は、ジョンには一切ありません。

 ただ、彼がクビを言い渡されたのは、その丁寧な仕事ぶりが割に合わないと上司に判断されたからで、まあ、これは人の価値観の違いなので、上司を責めるのも無理があるかも知れません。ジョンは、仕方なく受け入れます。今扱っているビリー・ストークの件が終わったら、という条件付きで。

 で、ビリーのことも、相変わらず根気よく調べます。その過程で、これが最後の仕事ということで、ちょっと気持ちが開放的になったのか、いつもなら飲まない酒を瓶ごとホームレスたちと回し飲みしたり、アイスクリームは食べない主義なのに、配送車から落っこちたハーゲンダッツを食べたりするんだけれど、この辺の描写が可笑しい。劇場でも笑いが起きていました。イギリス独特の雰囲気だと感じました。

 ジョンは、これもやはり最後の仕事だったからでしょう、自分のために購入していた墓地の一区画をビリーの埋葬場所にと譲ってしまいます。そこは、日の良く当たる見晴らしの良い場所。ジョンがそれをビリーに譲ろうとしたのには、ビリーの生きざまをちょっと羨ましく思ったというのもあるでしょうが、ビリーの娘、ケリーに惹かれたのも大きかったと思われます。

 ケリーは、身寄りのない犬(ま、捨て犬ですね)の飼い主を探す仕事をしていまして、ジョンは、ケリーが優しく犬に接している姿を見ています。それでいて、父親ビリーに対する複雑な思いも抱えている。この二面性にグッときちゃったのかも知れません。

 そうして、ケリーも心がほぐれ、ジョンの人柄にも好感を抱き、亡き父親の葬儀に出ようと決意します。彼女はジョンに言います。「お葬式の後、お茶でもしませんか?」

 ジョンは、失業はするけれど、新しい人生の予感を得ます。

 しかし、、、。ここから先は、書けません。書きたくない、という方が近いかな。結論だけ書くと、ジョンも孤独死するのですが。

 ラスト、ジョンが埋葬された後のお墓に、ジョンがこれまで手厚く弔ってきた孤独な霊たちが集って来ます。なんてことないシーンですが、これで、私の涙腺は決壊してしまいました。

 一緒に見に行った映画友に、劇場を出た後「どーだった?」と聞かれたのですが、ラストで大泣きした割には、案外さっぱりしたもので、「ジョンはあれはあれで、幸せな人生だったのではないかと思った」というような感想を話しました。そして、少し時間の経った今も、やっぱりそう思います。

 ジョンは、自分が好きだと思える仕事に携わり、自分が納得するやり方で22年間勤めてきたわけです。確かに、結婚せず家族もいない、傍から見れば“地味で寂しいヤツ”だったかもしれないけれど、人生の幸せ度というのは、傍目から見て計るものではなく、自分の感じ方でしかありません。だから、概ね幸せ、だったのではないでしょうか。

 それに、これは常々思っていたことだけれど、孤独死=不幸、という世間の図式も、ハッキリ言って、孤独死した方々に失礼千万なモノの見方じゃないですかね。独りで死ぬのが、そんなに悲惨なことでしょうか。こんだけの長寿社会、生涯独身率もどんどん上がっていく社会で、孤独死なんて、日常茶飯事になるのは目に見えています。

 それは、誰かに見とられる死に方がこれまでは多数派だったから、孤独死=不幸、に映るだけで、孤独死が当たり前になったらそんなもんか、ってとこでしょう。それに、多くの人に囲まれて死んだって、死ぬ人はたった独りで旅立つことに変わりありません。

 孤独死の最大の問題は、遺体が長期にせよ短期にせよ放置されるところにあるのであって、亡くなり方の不幸度の問題ではないはずです。そんなことは、他人はもとより、たとえ縁者であっても知る由もないことです。孤独死という一側面だけを見て、故人の人生を周囲が勝手に評価するな、と言いたいですね。

 ジョン・メイも、孤独死だったけれども、充実した人生だったことでしょう。少なくとも、そういう描写でした。地味ぃ~な逸品です。

 イチャモンをつけるとすれば、この邦題ですね。沢木も新聞で書いていたけれど、私も、最初に本作の予告編を何かで見た際、やっぱり『おくりびと』が頭に浮かびましたもん。これはセンスが悪い。

 ジョン・メイを演じていたエディ・マーサンは、44歳の役にしては若干老けている気がするけれど、実にイイ味を出していました。監督さんが彼に当て書きしたというだけあって、まさにピッタリの配役。また、ケリーを演じていたのは、ドラマ「ダウントン・アビー」でメイドを演じているジョアンヌ・フロガット。彼女も地味ながら、知的な美人です。適役でした。




どんな死に方しても、こんな風に葬ってもらえたら、人生すべて◎と思える




  ★★ランキング参加中★★
クリックしていただけると嬉しいです♪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オネーギンの恋文(1999年)

2014-09-02 | 【お】



 9月号の文芸春秋を間違って買ってしまい(本当は季刊秋号を買う予定だったのに・・・。池上&佐藤の対談を読もうかと思って)、あんまし興味ない内容ばっかだなー、などと思いながらパラパラ見ていたら、いきなり「レイフ・ファインズ」の文字と、彼のすっかり老けた写真が目に入って、なんだなんだ、と思ってよく見ると「スターは楽し」という芝山幹郎氏のコラムでありました。vol.99とあるので、随分長い連載なんだと思うけど、初めて見たわ。まあ、分厚い冊子の、ほんの見開き2ページだから見過ごしちゃってたのかなぁ・・・。たまにしか買わないしね、文芸春秋。

 で、芝山氏、えらくレイフ・ファインズをホメていらっしゃいます。へぇー、なんか意外。『グランド・ブダペスト・ホテル』で、彼が新境地を開いたと非常にお喜びです。確かに新境地は私も同感だわ。良かったですねー、パチパチ。

 というわけで、レイフ・ファインズです。本作は、彼に尽きる映画なわけですが、まぁ、長年彼を見てきたけれども、やっぱしこういう、どーしよーもない男が実に似合いますね、この人は。ジェレミー・アイアンズと、「ザ・情けない男」を演じさせたら大ハマり、で双璧でしょう。

 オペラにもなっているくらい有名なお話なんで、ストーリーはともかく・・・。まあ、オネーギンがタチアナの思いを拒絶するってのは、非常によく分かります。若い男性、特に、オネーギンのような世の中斜に構えて見ているニヒルなヤツは、若いが故に分からないんですよね、失うととてつもなく痛手を負うもの=愛、ってのが。でも、歳を重ねて、世間が見えてくると、急に、失ったものの大きさが分かってくるんだけれども、すでに時遅しの場合が多く、本作でももちろん「遅すぎる」とタチアナに拒絶されます。哀れなり、オネーギン。

 ただ、再会したタチアナが、以前に増して美しくなっていたことと、何より「公爵夫人」になっていた、ってことが、オネーギンの喪失感に火をつけたのは間違いありません。タチアナが、以前よりやつれ、貧乏貴族か成金の妻になっていたら、オネーギンは若かりし日の自分の選択の正しさを再確認して終わりだったわけで。ここが、人生の皮肉ですねぇ。そう、女が、自分を振った男へ復讐したいのなら、今の100倍美しくなること、そして現代女性ならば玉の輿婚なんぞでなく、確固としたものを身に着けていること、これに尽きます。

 象徴的なシーンがあります。若いオネーギンは、タチアナからの情熱ほとばしる恋文をいったん暖炉に投げ入れるんだけど、思い直して取り出し、丁寧にたたみます。一方、2人が再会後、オネーギンからの哀切極まる恋文を受け取ったタチアナは、ビリビリと破いて暖炉に放り込み、手紙は灰となります。一方のオネーギンは焦げ付いたタチアナからの手紙を後生大事に胸にしまっているのです、ずーっと。嗚呼、オネーギン!!

 でも、私はタチアナを拒絶した若いオネーギンを「大馬鹿野郎」の一言で嘲笑う気にはなれないのです。男に限らず、女だって、若い頃は、若さゆえの怖いもの知らずな傲慢さを持っています。一人でも生きていける、なーんて思っちゃう。でもでも、やはり一人で生きる、ってのは言葉で言うほど簡単な、いや、楽なものではないのです。パートナーがいたらいたで苦しみは生じるけれども、一人で生きることの寂寥感は、歳を重ねてみないと分からないのではないですかね。そうして、傲慢だった自分が自ら手放したものの大きさに押しつぶされる、、、。まあ、恋愛に限らずですが、こういうことは生きていれば誰にでも経験があるわけで、オネーギン、君だけじゃないよ、愚かなのは! と言ってあげたいです。

 ところで、芝山氏のコラムでは、レイフ・ファインズのDVDベスト3として『シンドラーのリスト』『クイズ・ショウ』『ことの終わり』が挙げられているんだが、この中で、同意できるのは『クイズ・ショウ』だけかなぁ、私は。恋愛ものじゃないのも結構イイんです、彼。

オネーギン、君だけじゃないよ、愚かなのは!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする