作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv37832/
以下、wikiからあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。
=====ここから。
1964年、ニューヨーク。厳格なカトリック学校の校長シスター・アロイシアス(メリル・ストリープ)は、まだ年若い教師であるシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)に、全ての事に疑惑をもって当たれと厳命していた。
そんな折、進歩的で生徒達の人気も高いフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、黒人少年ミラーと性的な行為を行なったという疑いをジェイムズは持ち、アロイシアスに告白する。
僅かな証拠からその疑いが確信に変わるのを感じたアロイシアスはフリンを問い詰めるが、フリンは単なる勘違いであると具体的に証明し、ジェイムズは疑いを解く。
しかし「神の意に沿う行為を為すためには、神より遠ざかる手段をとることも辞さない」との信念を持つアロイシアスは、執拗にフリンの「罪」を追及してゆくのだった。
=====ここまで。
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昨年末にDVDで鑑賞したのですが、これ、本邦公開が09年だったのですね、、、。15年も経っている! 公開当時、ちょっと見たいかも?、、、と思いつつ、結局行かずに終映していて、その後、DVDをリストに入れっぱなしにしていたら、今頃届きました。いつリストに入れたかさえも覚えていない、、、ごーん。
◆睡魔に襲われる。
白状すると、1回目見たとき、寝てしまった、、、。何度か巻き戻してどうにか完走、、、したけど、なんかイマイチよく分からなかった。
でも、ちょっと気になったところもあり(後述)、別の日に、気になるシーンだけザッピングして見ているうちに、結局、もう一度全部見るハメに。2回目を見て、印象が(良い方に)変わったのだった。渋くて考えさせられる映画だった。
というか、眠くなった理由は明らかで、ものすごーく静かで淡々とした描写のシーンが続くから。これは終始一貫していた。だから、集中して見ていないと、よく分からない、ただのオバサンとオジサンのケンカの映画みたいに思えちゃう。
1回目見終わって、私が「気になった」のは、フリン神父が性加害行為をしたとシスター・アロイシアスが確信した“何か”を私が見落としたのかな、、、という点。それくらい、アロイシアスを演じるメリル・ストリープが、フリン神父のフィリップ・シーモア・ホフマンを怖ろし気なダミ声で“ド詰め”していからである。
で、チャプター検索で見直しましたよ。でも、別に“何か”は何もなく、眠い目で見ていたとはいえ、見落としたものはなさそう?? いや、でもどこかにあるのかも、、、などと思い、結局アタマから見たけど、やはりなかった! そう、何の証拠もなくアロイシアスはフリン神父を罵っていたのだ。
さらに、ラストシーンが思わせぶりというか、これがなければ、私は気になるシーンさえ見直そうとしなかったかも。首尾よくフリン神父を追い出したアロイシアスなのに、なぜかシスター・ジェイムズの前で号泣するのである。“I have doubts. I have such doubts!”と言って。
本作のタイトルでもある“doubts”である。字幕では、確か「疑い」or「疑惑」とまんま訳されていたように思う。この「疑い」とは何に対する「疑い」なのか、、、。これが見た者たちを悩ませる。
◆疑い、、、
最初は、単純に、“証拠もないのにあそこまでフリン神父をド詰めしてしまった自分自身”に対する疑いかなぁ、、、と考えた。つまり、フリンを冤罪で追い出してしまったのではないか、、、という迷い。自責の念。
でも、それってストレート過ぎ?? その前に、同じシーンでアロイシアスはシスター・ジェイムズにこう言っている。「悪に対処するためには時に神から遠ざかることも必要」と。神を遠ざけることはあっても、飽くまでも彼女の支柱は神にあるということだろう。その確固たる信念の前で、彼女が自身を疑うだろうか?? この場合、彼女が自身を疑うということは、フリン神父が無実であるかも知れない、、、という疑いも持ってしまっている、ということになる。
ラストシーンをよく見ると、アロイシアスが号泣しながらロザリオを握りしめた後、袖の中に隠してしまう。これはもしや、、、彼女の疑いは、自分の信じている“神”へのそれではない? とも考えた。
そうすると、何となく腑に落ちる気がする。というのも、フリン神父はカトリック学校を辞めたけれども、実質的には栄転だったのだ。辞めることになったのは、アロイシアスが「フリンの前歴を調査した」と教区の責任者に直訴したため(とアロイシアスは言っている)。「前歴を調査した」はアロイシアスの大噓であり、シスター・ジェイムズにも白状している。「前歴がなければキッパリ否定するだろう」というのが彼女の言い分で、フリン神父を辞めさせたことが彼女の言い分の正しさの証だと。けれど、フリン神父は大出世していた。
彼女が信念を持ってとった行動が、結果的には裏目に出ちゃった、、、ってことじゃない? 彼女はもともとフリンのことが大嫌いだったから、学校からいなくなりさえすれば良かったのであれば、何も泣くほどのことではないのでは。しかし、神の支配する世界で、フリンが以前に増して高い地位についてのさばり続けるのは、彼女にしてみれば神を疑うには十分な状況ではないのか。
割と、素直に「自分が証拠もなくフリン神父を追い詰めたが、本当にフリン神父はクロだったのだろうか?」という迷いを「疑い」と解釈している人が、ネットでは多いみたい。
イロイロ考えても結論は出ないけど、私がアロイシアスだったら、彼女と同様、フリン神父は嫌いだろうし、嫌いな奴に係る不確実な悪い情報を得たときに、「絶好のチャンス到来か!!」と色めき立つだろうな、と思う。だって、嫌いなんだもんね。
でも、行動に移すとなると、小心者の私にはできませんね。自身の倫理観からではなく、自身の保身から。やはり怖いでしょ、行動を起こした後のことが。
本作は、監督が当時のアメリカの情勢(イラク侵攻)に影響されて戯曲として書いたものを映画化したのだそうだが、そういう背景を考えると、あのラストシーンの“疑い”は素直に「証拠もなく人を陥れたのではないかという迷い」と捉えるのが良いのかも。でもなぁ、、、直球過ぎてつまらん、、、。
◆直感は当たるのか?
で、フリン神父はクロかシロか、、、だが。私はクロだったと受け止めている。理由? アロイシアスと同じ、私のただの“直感”である。
上記あらすじにもあるが、フリン神父は、進歩的とされているが、本当? アロイシアスが保守的なのはそのとおりだけど。アロイシアスがフリン神父を嫌うのは、彼が進歩的で脅威に感じたから、、、ってのはちょっと違う気がする。
彼女は、フリン神父に胡散臭さを感じていたのだと思う。それこそ“直感”として。負の直感は割と当たる。その逆は当たらないことが多い気がするが、、、(良い印象を抱いた人ほどハズレってこと)。初めて誰かと対面したときは、ほとんどの場合、その人に対して抱く感情はニュートラルではなかろうか。よほどのイケメンとか美女なら「キレイだな」くらいは思うだろうが、内面までは分からんもんね。だから、初対面の印象がどちらかにもの凄く振れる、ってのは、あまり良いことではないのだと思う。
私がフリン神父に胡散臭さを一番感じたのは、シスター・ジェイムズが疑念を抱いた少年とのやりとりのシーンではなく、彼の手がアップになったシーンである。その爪の長さ(といっても、5ミリくらいか)が、私には、何とも言えず気持ち悪く感じたのだ。彼は意図して爪を伸ばしており、それを自慢気に生徒やアロイシアスにも話してもいる。キレイに手入れはされているが、却って、余計に気持ち悪い。
もちろん、シナリオ的にも敢えてフリン神父を怪しげに描いており、見る者を誘導する。ましてや、演じるのはフィリップ・シーモア・ホフマンとくれば、もう“クロ”と思わせたいのがバレバレである。足りないのは証拠だけ。
けれども、性犯罪なんてのは証拠がないのが普通で、さらに、被害者が少年であれば、被害者自身が被害者意識を持たない可能性が高いわけで、少年への性加害は表沙汰にならないのが大半だろう。でも、確実に被害者の精神に良くない影響を及ぼすものであり、被害者は成長するにつれて、自分がされた行為の意味を理解することで、被害を自覚するのだ。日本の刑法でも、ようやく“性的グルーミング”が処罰されるようになったことからも、その深刻さは分かる。
進歩的と言えば聞こえはいいが、進歩的と見せかけた、ただの奔放、快楽主義者という可能性もあり得るし、私は、フリン神父はその類の人間だという印象を持った。まあ、監督の意図にまんまと嵌ったとも言えるが、、、。
だとすれば、証拠の無い“疑惑”の段階で調査を開始するのは間違いではないはず。
性加害の被害者とされた少年は、学校初の黒人であり、しかも、少年自身がゲイであるということが、本作の中盤で明かされる。アロイシアスが少年の母親を呼び出し、フリン神父による少年への性加害の疑惑について話した際、母親は涙ながらに「卒業まであと6カ月なんだから放っといて!」と打ち明ける。
この母親の言動は、アロイシアスにとっては大きな誤算だったはず。アロイシアスにとって、正解はただ一つだから、きっと母親も自分と一緒に大騒ぎして、フリン神父を糾弾してくれると期待していたに違いない。でも、母親は、息子がその性的嗜好により父親に虐待されており、フリン神父が息子にとっての唯一の救いだったと聞かされる。
このように、フリン神父がクロかシロかを惑わせるネタがあちこちに仕込まれている。なので、見る人によって判断は分かれるだろう。
ただ、私がクロだと確信したのは、もう一つ理由があり、それはチラッとだけ映るあの押し花である。その映し方が、明らかに意味があるもので、それを大事に持っているのはフリン神父その人。ならば、これで決まりだろう、、、知らんけど。
メリル・ストリープもフィリップ・シーモア・ホフマンも演技巧者で、実に適役。フリン神父が別の役者だったら、作品自体の印象が大分変わると思うな。
ダウトってゲームあったよなぁ、、、(古い?)。