映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

めぐりあう時間たち(2002年)

2023-03-15 | 【め】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv32492/


以下、TSUTAYAの紹介ページよりあらすじのコピペです(青字は筆者加筆)。

=====ここから。
 
 1923年、ロンドン郊外。作家ヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)は病気療養のためこの地に移り住み、『ダロウェイ夫人』を執筆していた。午後にはティー・パーティが控えている…。

 1951年、ロサンジェルス。『ダロウェイ夫人』を愛読する妊娠中の主婦ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は、夫の望む理想の妻を演じることに疲れながらも、夫の誕生パーティを開くためケーキを作り始める…。

 2001年、ニューヨーク。『ダロウェイ夫人』と同じ名前の編集者クラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)は、親しい友人でエイズ患者の作家リチャードが栄えある賞を受賞したことを祝うパーティの準備に取りかかっていた…。

=====ここまで。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


 本作は、公開時に劇場には行かなかったが、DVDで見るのは2回目。前に見たのは、DVDリリース直後だったので、多分、20年ぶりくらいに見たのだけど、今回改めて見ようと思ったのは、METライブビューイング(後述)で上映されていたから、予習のためと思いまして。何しろ、内容ほとんど覚えていなかったもので、、、。

~~以下、ネタバレしています(結末に触れています)。~~


◆いつの時代も女はメンドクサイ。ええ、ええ、そーでしょうとも。

 そもそもヴァージニア・ウルフにあまり良いイメージがなく、最初に見たときもピンと来なかったのだが、今回は、感動した、、、というのとはちょっと違うが、ものすごくグッと来た。これって、私が年とったからですね、間違いなく。

 最初に見たときは、鬱映画というか、救いがない感じがしたが、それは私の理解力の低さの問題だったのだなと感じた次第。

 肝心のヴァージニア・ウルフ本人のエピソードは一番印象が薄く、ローラの巻はひたすら辛い。クラリッサの巻では、リチャードが見ていて苦しく、一番哀しかった。で、最後の最後に、リチャードの実母がローラだと分かり、トドメを刺された感じであった。

 ネットの感想を見ると、3人の女性たちが何をあんなに悩んでいるのかがよく分からん、というのが結構目に付いた。いつの時代も女はメンドクサイ、とか書いている人(男)もいた。悪かったね、メンドクサくて。

 特にローラについては、あんなに恵まれた環境で生活できているのに、何が不満なのか?と。

 しかし、これは、30代以降の女性ならかなり分かるんじゃないだろうか。ただ、今回の“分かる”は、初回のときのそれとは全然レベルが違う。正確に言えば、前回は、分かるというより“想像できる”だったが、今回はもう、肌感覚でリアルに分かる。嗚呼、、、ツラい、、、見ていて胸抉られる感じで分かる。

 ローラは、おそらく、一般的に女性に求められるケア能力というか、そういう適性がものすごく低い人なんだよね。そもそも好きじゃないんだと思うが、世間は(夫も)女はそんなもんとしか見ない中で、自分の在り様に強い違和感を抱きながら日々を生きて行かなくてはならない辛さ。時代の要請に従わざるを得ないがために、まったく自分に合わない鋳型に嵌められる。こんな苦しみってあるだろうか。そら、死にたくもなるわ、、、と。

 子供を捨てることで、辛うじて自死を免れたわけだが、こういう人を世間は“母性本能がない”とか言って責めるんですよ。捨てられた子からすればトンデモな話に違いないけど、そもそも母性本能をみんな信じ過ぎ。母性とか母性本能とか、科学的な確からしさをもって世間は言うけれど、それで苦しんでいる母親は世界中にごまんといるのだ。出産を経験した女でも、母親でいることが苦しいと感じるのは、別に不思議でも何でもないと思うのだが、なぜ世間は母親にばかり家族のケアの役割を負わせようとするのか。

 ローラは、むしろ、子を捨てることで、自分だけでなく、子も守ったと言えるかも知れない。結果的に息子のリチャードは自死したが、自死の直接的な原因はエイズの進行であり、遠因として母親の喪失はあるに違いないが、ローラが我慢してあのまま母親を続けていたら、もっと歪な親子関係が形成されて、リチャードの人生はもっと悲惨だった可能性もある。ローラは、最善ではないが、最悪ではない“マシな”選択をしたのだ、多分。

 私の母親も、結局のところ、あまり母親に向いていない人だったのだと思うが(実際、自分は生まれ変わったら結婚なんか絶対しないとしょっちゅう言っていた)、それでも周囲の圧力に反発する気力も能力もないから母親で居続けざるを得ず、引き換えに娘二人を過剰に支配・抑圧することで辛うじて自分を保っていたのだろうと、娘の私はこの歳になってようやく冷静に分析できるようになってきた。


◆オペラ化された「めぐりあう時間たち」
 
 で、今回、本作を見た後に、METライブビューイングの同タイトルを見たのだが、このお話は、圧倒的に舞台向き、しかも、オペラ向き(あるいはミュージカルでも良いのだろうが)だということを見せつけられた感じだった。

 つまり、本作は、3つの時代に生きるそれぞれのダロウェイ夫人(orウルフ)を描いているのだけど、映像だとそれをうまく表現する演出が難しい。画面を3分割して3人の女優たちに語らせるなんてのは、かなり違和感があるし、陳腐になるだろうから。本作について難解だとか、訳が分からんとかいう感想が並ぶのも、ココに理由があるのだろう。

 けど、舞台だと、それが容易に表現できる。同じ舞台上に3人を配し、それぞれが別の時空にいると設定しながら、同じアリアを歌うことで融合させることが出来るのだよ。すげー!

 ここで大事なのは、“歌う”ということ。3人の心情をそれぞれが独白で表現する演劇よりも、同じ歌を3人が歌うことで、時代を超えて共通の苦悩を抱えながら生きるというテーマが、見る者にダイレクトに伝わることがよく分かった。これこそ、歌で表現する意味があるのだなあ、、、と。

 いつもは、突然歌い出すミュージカルはヘンだ、と書いているのだけど、それはオペラでもまあ似たような感じを持っていたのだが、今回、初めてオペラがオペラでなければならない理由がちょっと分かった気がする。

 今シーズンのMETライブビューイングの演目の中に「めぐりあう時間たち」とあるのを見て、正直驚いた。あの話をオペラでどーやって??と。けれど、今は、オペラ化した人の英断に驚くばかり。世界初演とのことだが、これは定番で今後も度々上演されてほしい。世界初演だからだろうけど、主演3人はルネ・フレミング、ケリー・オハラ、ジョイス・ディドナートと、豪華そのもの。映画では一番印象の薄かったウルフだが、オペラではディドナート演ずるウルフが一番印象に残った。

 映画を見て、オペラを見て、相乗効果で感激。こういうのって、滅多にないことだから、幸せな時間でございました。
  
 

 

 

 

 

 

 

 

『ダロウェイ夫人』と原作を読んでみるか、、、。

 

 

 

 

★★ランキング参加中★★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メモリーズ・オブ・サマー(2016年)

2019-06-11 | 【め】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv67651/

 

以下、公式HPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 1970年代末のポーランドの小さな田舎町、夏。

 12歳の少年ピョトレックは母親のヴィシャとはじまったばかりの夏休みを過ごしていた。父イェジは外国へ出稼ぎ中だが、母と息子は、石切場の池で泳ぎまわり、家ではチェスをしたり、ときにはダンスをしたりする。ふたりの間には強い絆があり、ピョトレックは楽しく夏休みを過ごしていた。だがやがてヴィシャは毎晩のように家をあけはじめる。ピョトレックは、おしゃれをし、うきうきとした母の様子に、不安な何かを感じ始める。

 団地に、都会からマイカという少女がやって来る。母に連れられ、おばあちゃんの家へ遊びに来たマイカは、田舎町が気に入らないようだ。仏頂面のマイカに、ピョトレックは一目で惹かれる。やがてふたりは徐々に仲良くなり、郊外へ一緒に出かけるようになる。

 母は相変わらず出かけてばかりいる。月に一度、ふたりのもとに、外国で働いている父イェジから電話がかかってくる。喜んで話をするふたりだが、「ママに何か変わったことはないか?」という父の質問に、ピョトレックは沈黙する。その様子を見ていた母は、息子に「なぜあんな真似を」と怒りをぶつける。その日から、ふたりの間には緊迫した空気が流れ始める。そんななか、大好きな父が出稼ぎから帰って来る……。

=====ここまで。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

   数年前から続くマイ・ブーム、ポーランド。昨年2018年は、ポーランド独立回復100周年だった。プロイセン、ロシア、オーストリアによる三国分割が終わってから、ちょうど1世紀。そして今年は、日本とポーランドの国交樹立100周年だそうで。今月末には『COLD WAR』も公開されるし、本作もポーランド映画界期待の若手監督の作品だとか。ネットでチラッと評を見て、ちょっと面白そうかなと思って見に行って参りました。

 

◆一見静かな映画だけど……

 こういう雰囲気の映画は、かなり好きな方。あんまりセリフで話を進めないで、とにかく映像での描写に徹する作風が良いなぁ、と思った。

 父親不在で、母と息子の2人の生活。とにかく、序盤の2人は、とても仲が良い。12歳といえば、日本じゃ小学6年生か中学1年生辺りで、母親と一緒に(しかも抱きついて)寝ているってのは、、、まぁそんなもんかね。

 余談だけど、私の中学1年生の担任は30歳くらいの女性だったんだけど、パッと見が冷たい感じの厳しそうな先生で、入学式の後のHRで保護者たちを前に話した内容がインパクト大で、今でも鮮明に覚えている。

「中学生になったのだから、親御さんにもそれなりの対応をお願いしたい。例えば、天気が急に変わって雨が降り出した場合、よく親が傘を持ってきて下駄箱に掛けていったりするが、そういう行為は小学生までで十分ではないか。また、(異性の)子と一緒に風呂に入るのを得意げに親が語るのを見ることもあるが、1年生といえども中学生はもう大人の一歩手前である。異性の親と一緒に風呂に入るのはいかがなものか。差し出がましいと思われるかも知れないが、親と子の関係性についてはよくよく弁えていただきたい」

 ……みたいな話だった。まだまだガキンチョだった私には、かなり脳天直撃の内容だったが、半面、この先生は信頼できる、と何となく確信したのも覚えている。実際は、冷たいというより常にピリッとしていて、厳しいことも結構言われたが、つい数年前まで年賀状のやりとりをしていたくらい。返信が来なくなって、こちらから出すのも迷惑かと思い出さなくなったが、良い先生だったと思う。

 と、そんな原体験に近いものがあるので、小学6年生か中学1年生で、母親と親密すぎる関係ってのは、ちょっと??な気もする。が、まあ、欧米ではそれほど珍しいことでもないのかな。私の同級生は、息子が4年生までは一緒に寝ていた、と言っていた。それが2年延びたくらいのことなのか。日本でも今は普通なのかもね、よく知らんが。

 そもそも男はイイ歳になっても程度の差はあれ大抵マザコンだから、ピョトレックがお母さん大好きなのは12歳なら当然といえば当然だ。ピョトレックも実に嬉しそうなのよね、お母さんと一緒にいる時間が。なんか微笑ましいのです。

 でも、2人で泳ぎに行った帰り、自転車に乗って汽車と競争しているときに、ピョトレックは気付いてしまうのね、お母さんが泣きながら自転車を猛然とこいでいることに。「どうして泣いているの?」と、ピョトレックは聞けない。このシーンの感じがとても切ない。

 そして、しばらくするとお母さんはめかし込んで出掛けるようになる。直截的な描写は一切ないが、まぁ、男が出来たんだな、、、と見ている者は思うでしょう。そこから、ピョトレックの表情がだんだん暗く、、、というか、何となく憂を帯びてくる。ここでもピョトレックは、「行っちゃうの?」とは言っても「行かないで」となかなか言えない。挙句「行っちゃえ!!」なんて心にもない言葉を叫んでしまう。

 おまけに、、、このお母さんが夜ごと歩いて行く道は、かなり暗くて人通りもほとんどない、言ってみれば“結構コワい”道なんである。街灯らしきものも見当たらないし、ピョトレックが一度後をつけるのだが、あっという間に暗闇に消えて見失ってしまう。しかも、そこをパンプスを履いて歩いて行く、、、ってんだから、このお母さん、根性あるわ。私が彼女なら、いくら男が好きでも、あんな夜道を毎晩歩くなんておっかなくてゴメンだわ。そんな思いしてまで男とセックスしたいって気持ちにならない。男が車で迎えに来てくれるとかなら分かるが。

 しかし、ピョトレックが尾行し、お母さんを見失った直後に、暗闇から、小鹿が現れるんである。この小鹿がまた、可愛らしいんだけど、ホントに弱々しくて心配になるくらい。ピョトレックは、お母さんのことなど一瞬忘れたかのように小鹿に見入ってしまう。どちらも親を見失った者同士の思いがけない遭遇シーンも、何やらまた暗示的で胸に来る。

 そして、お母さんの恋は破れ、お父さんはお母さんの変化に気付き、、、

 ……てな具合に、一見静かで地味に進行していくのだが、実際に起きていることはピョトレックにとっては実にドラマチックで、ただのチョコケーキかと思ってフォークを入れたら、中からあっついチョコソースがジュワっと出てくるフォンダンショコラみたいな感じの映画だ。

 

◆本作の構成とかもろもろ

 本作は、割とよくある、ラストシーンを冒頭で見せる、という手法がとられている。もちろん、エンディングのオチは見せないけど。こういう構成は、正直言ってあんまり好きじゃないのだけれども、本作についていえば、これが功を奏していると感じた。

 つまり、本作は、この冒頭シーンがあるおかげで、最初から最後まで緊張感漲る作品になっている。もし、この冒頭シーンがなく、次の、お母さんとピョトレックの微笑ましいシーンから始まっていたら、観客は、そういう“ほのぼの系”映画だと思って、しかし見て行くうちに、その不穏さに???となっていき、あのエンディングに気持ち的に着いて行けないんじゃないかと思うのね。

 まあ、前半と後半で別の映画じゃないか?と思うくらいガラリと雰囲気が変わる作品は珍しくないし、それが一概に悪いとは思わないけれども、本作の場合は、やっぱり終始緊張感を見る者に感じさせた方が正解だと思う。だからこそ、あのラストシーンが効いてくるのではなかろうか。

 そのラストシーンについて、ここで書いてしまいたいけど、そうするとたとえネタバレ承知で読んだとしても、本作を見る価値が半減するので、やっぱりやめておく。

 でも、単なる少年のひと夏の成長譚で終わらせない人間ドラマに仕上がっているのは、この構成に負うところもかなり大きいと感じた。

 本作を見ている間、『ラブレス』(2017)が頭に浮かんでいた。設定は違うし、少年の置かれている状況は、圧倒的に『ラブレス』のアレクセイの方が厳しいのだけれど。作品の雰囲気(緊張感が途切れないところとか)が似ているのもあるけれど、両親の不和で家庭が安住の場でなくなり、少年が試練に直面する、というテーマが同じだからかも。

 ピョトレックの今後を考えると、なかなか厳しい感じがする。父と母の間には決定的な溝が出来てしまい、父は単身赴任のままだし、母とピョトレックもかなり緊張した関係になるだろう。そうすると、まだ内面的にはオコチャマなピョトレックとしてみれば、ちょっとキツい状況なのではないか。

 本作は、70年代のポーランドが舞台だが、ピョトレックの住むアパートの部屋とか、衣装などから、何となく時代を感じさせる。ソ連支配下の東欧って、やっぱりどこかちょっと重苦しさがあったんだろうな、、、。昨今は右傾化が懸念されるポーランドだが、2年前に行ったときはそんなこと微塵も感じさせないほどにワルシャワの街並みは美しかった。彼の地がずっとあのまま荒れることなくあって欲しいと、本作を見終わった後に思った次第。その前に自国の方がヤバいかもだけど。

 

 

 

 

ひと夏の経験、、、にしてはシビアすぎるお話。 

 

 

 

 

 

 ★★ランキング参加中★★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メアリーの総て(2017年)

2019-01-05 | 【め】



以下、公式サイトよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 19世紀、イギリス。作家を夢見るメアリーは、折り合いの悪い継母と離れ、父の友人のもとで暮らし始める。

 ある夜、屋敷で読書会が開かれ、メアリーは“異端の天才詩人”と噂されるパーシー・シェリーと出会う。互いの才能に強く惹かれ合う二人だったが、パーシーには妻子がいた。情熱に身を任せた二人は駆け落ちし、やがてメアリーは女の子を産むが、借金の取り立てから逃げる途中で娘は呆気なく命を落とす。

 失意のメアリーはある日、夫と共に滞在していた、悪名高い詩人・バイロン卿の別荘で「皆で一つずつ怪奇談を書いて披露しよう」と持ちかけられる。深い哀しみと喪失に打ちひしがれる彼女の中で、何かが生まれようとしていた──。
 
=====ここまで。
 
 小説「フランケンシュタイン」を書き上げるまでのメアリ・シェリーについての映画。2019年初っぱなの劇場鑑賞作。

 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 小説「フランケンシュタイン」が生まれる契機となったといわれる“ディオダディ荘の怪奇談義”を描いた、ケン・ラッセル監督『ゴシック』(1987年)という気の狂った映画を大昔に一度だけ、多分、テレビの深夜放送でたまたま見掛け、あまりのイカレっぷりに衝撃を受けたんだけど、内容をあんまし(というかほとんど)覚えておらず、ガブリエル・バーンの怪演と、ジュリアン・サンズの美貌だけがうっすら脳裏に残っていて、そもそもその映画がケン・ラッセル監督作だということも割と最近知り、DVDをamazonで物色したけど口コミに「映像があまりに酷い」とかロクなことが書かれていなかったので、どうしよう、、、と思っているうちに、昨年だったか久しぶりに検索したら既に品切れになってしまっていて、ますます再見する機会が遠のいてしまいました。

 仕方がないので、小説「フランケンシュタイン」を読んだり、『ゴシック』の中古パンフをamazonで購入したり、2014年のEテレ「100分de名著」で「フランケンシュタイン」が取り上げられたときにテキストも買ったりして、時々、この『ゴシック』にまつわるものに思いを馳せておりました。見られないとなると、異様に気になる困った性分、、、。

 そして、このたび、メアリの半生が描かれた映画が公開されると耳にし、しかも監督があの話題になった『少女は自転車にのって』(未見ですが)のハイファ・アル=マンスール(あのサウジ出身の女性監督)となれば、まあ、一応見ておこうかな、、、と気持ちが動いて、劇場まで行ってまいりました。

 まあ、、、これは言ってもせんないことだけど、私の中にある勝手なメアリやパーシーのイメージが、ちょっと、というかなり、エル・ファニングやダグラス・ブースとは違っていて、まあ、それでもそれがもの凄くネックになったというわけじゃないんだけど、2人の登場シーンから“あ゛ぁ、、、、”と心の中で頭を抱えたことは事実であります。

 ……というエクスキューズを最初にした上で、以下、感想です。


◆食い足りない、、、。

 割と史実の時系列に沿ったシナリオになっているようだけれども、まぁ、そんなことは映画ではあまり気にならない。正直なところ、全体にグッとこなかった。

 パーシーもバイロンも、ろくでもない男だってことは知っていたけど、映像で見せられると、マジで呆れる人たちで、こんなヤツと駆け落ちしたメアリまで(私の)見方が変わりそうで、何だかいたたまれなくなってしまった。

 18歳でSF小説の嚆矢「フランケンシュタイン」を書き上げたメアリは、両親も先進的な思想家でもあり、さぞかし賢く魅力的な女性に違いない、と勝手にイメージをしてしまいがちなんだけど、まぁ、賢い女が男を見る目も優れているとは限らないのは世の常で、メアリもその一例ということですかね。当時から結婚制度に懐疑的だったといわれるメアリの実父ウィリアム・ゴドウィンだが、自分の娘が不倫の恋に賭けて駆け落ちしようという際に、こう言う。

 「自分の子どもを捨てられる男だぞ」

 これって、妻を捨てられる男ならいいのかね? ……などというのは、あまりにも捻くれているかしらん。まあ、でも、このお父さんのセリフはそのとおりだと思うし、お父さんは実際、女性関係においてもかなり真面目な人だったように思われる。

 本作への有名人たちのメッセージを公式HPで目にし、フェミニズム的なコメントをしている人がちらほらいたけど、それはまぁ別に良いけど、「怪物よりも百倍怖いのは、 女の子の未来を食い潰す、 偏見、差別、男の身勝手な欲望だとわかる」ってのは、いささか引いてしまう。本作からそこまで読み取るかね? この時代、偏見、差別で未来を食い潰されたのは女の子だけじゃないし、イギリスはいまだに厳然たる階級社会。そもそも駆け落ちしたのはメアリ自身の強い意志であり、あの時代に、駆け落ちを選択できるだけ、まだメアリには勇気と行動力があったとも言える。そんな機会にさえ恵まれず、ただただトコロテンみたいに押し出されるように生きざるを得ない人々が圧倒的多数だったと思うけどなぁ。

 そういう意味では、姫野カオルコ「これは“昔”の話ではない。“今”の話だ。頭ごなしに否定されて暮らす人たちが今も世界中にいる。その一例としてのメアリーと、そして彼女の妹の物語は、現代の人間こそを惹きつける」というメッセージが一番しっくり来た。

 そして、グッとこなかった最大の理由は、恐らく、“ディオダディ荘の怪奇談義”のシーンがイマイチだったから。『ゴシック』でもパンフの表紙になっているあのフューズリの「夢魔」らしきものも出てくるが、かなりアッサリ(と私には感じられた)した描写で、ううむ、、、という感じ。別に、ケン・ラッセルと同じタッチなど全く期待していなかったつもりだけど。少しは期待していたのかしらん。


◆その他もろもろ

 俳優のイメージがもの凄くネックになったわけじゃない、と書いたけど、やっぱし、エル・ファニングのメアリは、かなりイマイチだった。エル・ファニング自身は可愛いし、演技も良いし、別に彼女に責任があるわけでは全くない。私のイメージと違うという、、、。

 なんだろう、メアリは、もう少しキリッとした大人っぽい美人の方が合っている気がするのね。エル・ファニングは、童顔で愛らしいという感じでしょ? 知的、って感じもちょっと薄い。

 じゃぁ、誰ならいいんだよ? と自問してみたけど、最近の若い俳優さん知らないしなぁ。強いて挙げれば、アリシア・ビキャンデルの方が、まだエル・ファニングよりは大分良いと思う。アリシアのあの、意志の強そうな、根性ありそうな、それでいて細身の美人で、、、っていうのは、割と私の抱くメアリのイメージに近い。ナタリー・ポートマンの若い頃なら、かなり近いかも。まぁ、でもナタポーも、時代劇ではあんましパッとしないから違うかな。

 よく分からんけど、とにかく、エル・ファニングではない、ってことです、はい。

 あと、びっくりしたのは、メアリとパーシーの駆け落ちに、メアリの義理の妹クレアが着いてくること(後でよく読んだら、「100分de名著」のテキストにもちゃんと書かれていたが)。駆け落ちに着いてくる方もアレだけど、それを許すメアリとパーシーも凄い。しかもこのクレア、バイロンに迫って彼の子を身ごもるんだからね。当時の女性たちが虐げられていた一色ではないってことよ。こういう現代のオバサンから見ても引いてしまいそうな肉食女は人類の歴史と共にいたんだと思うわ。

 パーシーを演じたダグラス・ブースはイケメンらしいけど、私の目にはあまりそう見えなくて残念。ネットで検索したら、劇団ひとりの画像と並んでいるのがあって、ウケた。確かにちょっと似ているかも。まあ、放蕩児を演じるにはいささか真面目過ぎる感じかな。実態は真面目かどうかは知らんが。

 バイロンのトム・スターリッジは、なかなか良かったと思う。ガブリエル・バーンほどのキョーレツさはなかったけれど、十分ヤバい人だった。あと、「吸血鬼」の原作者とされるジョン・ポリドリを演じたベン・ハーディは、本作では存在感がやや薄かったけど、『ボヘミアン・ラプソディ』でロジャー・テイラーを演じていたと、後で知って驚いた。本作を見たすぐ後に『ボヘミアン・ラプソディ』を見たのに、ゼンゼン分からなかった!

 本作は、小説「フランケンシュタイン」が生まれるまでを描いた映画だけど、メアリはこのデビュー作以上の小説を、結局残せなかった。そういう意味では、彼女の人生のハイライトは、この辺りだったのかも知れない。パーシーとは、前妻が自殺したその10日後くらいに正式に結婚しているが、パーシーもその6年後に事故死していて、メアリの人生は波乱続きだ。彼女が幸せだったかどうかは分からないし、そんなことはメアリ自身が決めることだけど、デビュー作にして最高傑作となった「フランケンシュタイン」が、彼女の死後200年近くを経て、文学史におけるSF小説の金字塔となっていることは、メアリの苦労に一矢報いていることには違いない。










こうして小説「フランケンシュタイン」は生まれました。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めぐりあう日(2015年)

2016-09-08 | 【め】



 理学療法士のエリザ(セリーヌ・サレット)は、実の両親を知らない。自分のルーツを知りたくて、実母が住んでいるらしいフランス北部のダンケルクに一人息子のノエを連れて移り住む。そして、理学療法士として働く傍ら、実母探しをする。

 しかし、実母は“匿名出産”をしており、たとえ実の子が望んでも、母の身元を知ることは出来なかった。正攻法で母を探す道が閉ざされたエリザだが、エリザの下に、ある女性が腰を悪くして通ってくるようになった。その女性は、息子ノエの通う学校で働くアネット(アンヌ・ブノワ)で、ノエに目を掛けていた。

 エリザが素手でアネットの背や腰をマッサージし治療する。そんなスキンシップを伴う治療を重ねることで、2人の間には特別な空気が流れだすのだが、、、。

 自身が幼い頃にフランスに養子に出された経験を持つというウニー・ルコント監督の『冬の小鳥』(2009年)に次ぐ自伝的映画だとか。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 『冬の小鳥』は未見なんですが、映画友が見て「なかなか良かった」と言っておりました。そちらを先に見てから本作を見た方が良かったのかも知れませんが、私にはあんまりピンと来ない作品でした、これは。


◆子は親を選べない。

 実の両親を知らずに成長する、というのがどういうことなのか、感覚的に分からないのですが、想像すると、ものすごく心もとない、不安な感じが常につきまとっているのではないかな、という気がします。どこかこう、、、自分に自信が持てないというか。養父母が愛情深く育ててくれても、やはり、実の親への思いはまた別物でしょう。だから、エリザが実母を必死で探そうとする気持ちは、分かるつもりです。

 また、アネットが図らずも妊娠したことで匿名出産という手段によりエリザを産んだ、ということについても、子どもを捨てるなんて、、、とは思いません。私はそもそも子を持ちたいと思ったことがないのですが、我が子というのがどれほどの存在なのかも想像することしかできません。きっと、そんな想像を軽々と凌駕する存在なんでしょう。、、、だからって、アネットのしたことが母親としてとんでもない、と単純に批判するのも違うような気がします。

 若いアネットの行動や気持ちも、また、エリザの行動や気持ちも、どちらもまあ、人としては理解の範疇にあるものです。

 監督が「親に捨てられた子どもは誰しも、実の親のことを空想しながら暮らし、大きくなるものです」と語っているけれど、それはそうだろうなぁ、、、と。どこか理想化されるのではないかな、自分を捨てた親なのに、、、ね。それは、自分が愛されなかったことを受け入れられないことの裏返しなのかも知れませんが。

 でも、捨てられなくても、親に虐待されている子も大勢いるわけで、ホント、こういう話の数々を見聞きすると、“子は親を選んで生まれてくる”などと言うのがいかに大人にとって都合の良い理屈かと、腹立たしくなりますわ。

 「親も子を選べない」とは、私の両親の言葉ですが。こんなのが出てきてスンマセンでしたねぇ。だったら作るな・産むな、と言いたいよ、こっちは。


◆何の根拠もなく、ただ“感覚”だけで互いに母娘と分かる“エスパー母娘”

 ハナシの前提は理解できるのに、なぜピンと来なかったか。

 それは、エリザとアネットが互いに実の母娘であることを“何となく感覚で”分かったからです。

 本作は、監督の自伝的作品らしいが、もちろん設定はイロイロ異なるのだけれども、監督も、実母と“何となく感覚で”分かったんですかねぇ。パンフを読みましたけれど、それに関する説明はなくて。『冬の小鳥』に描写があったのかも知れませんが、、、。

 エリザは患者の身体を素手でマッサージ等によって施術するんですが、その肌と肌との感覚が、2人の血のつながりを呼び覚ました、みたいな展開は、私にはちょっとトンデモな話にしか思えませんでした。

 確かに、アネットの住んでいるであろう町に移住してきたわけだし、偶然出会う可能性はゼロではないだろうけれど、何となく分かるものだろうか? と。

 この肝心の実の母娘の、母と娘としての再会の経過が、私にはあまりにも説得力がなさ過ぎで、まったく気持ちが着いて行けませんでした。この人たちは、エスパー母娘!?


◆邦画『愛を乞うひと』を思い出し、、、

 ただまあ、アネットは登場した後から意味深な描写なので、彼女がエリザの実母であろうことは見ているものには初期から想像がつきます。つまり、本作は、母探しのミステリー作品ではない。母と娘がいかにして互いを気付いて行くか、というのがミソなのですね。そのミソが、私にはまったく納得できないものだったので、作品に対しての感想は低調なんですけれど、一つ一つの要素はとても丁寧に作られた良い作品なんだろうと思います。

 私は、あまり“偶然”というものに支配された物語が好きではないのです。何でもロジカルでないと気が済まないわけではありません。ただ、生まれてから一度も会っていない肉親を、“感覚で”探り当てる、というのは、いかにもファンタジー過ぎて、この作品のシリアスな構えにそぐわなすぎるように思いました。

 お話自体は、実の母と娘の絆を取り戻しつつありそうなエンディングで、一応、報われる結果なんですけれど。自分のルーツを手繰りあてたことによって、エリザにしてみれば、これまでの人生が肯定できるものになったのではないかしらん。それまでの足元が揺らぐような心もとなさが、一気にか幾分かかは分からないけれど、解消されたことは間違いないでしょうね。

 ちょっと邦画『愛を乞うひと』を思い出しました。あれは、母親に捨てられたのではなく、虐待された挙句に、娘自ら逃げ出したハナシでしたが。恩讐の果てに再会した実の母と娘のシーンは、あまりに辛く、胸が苦しくなりました。

 でも、本作は、そういうヒリヒリするような感じはありません。虐待という要素がないからだと思うけど、母と娘の、敢えて言っちゃうと“感動的な”再会が描かれています。

 内容が内容だけに好きな映画とは言い難いけれど、より心揺さぶられたのは、やはり『愛を乞うひと』の方ですね。本作は、私にとっては、いろんな意味で中途半端な感じがしました。


◆その他もろもろ

 本作は、エリザのアネット探し物語ですが、エリザとノエの母息子の物語や、エリザと夫の関係、アネットとノエの関係、アネットとその母親の関係、と、いろんな家族同士のつながりが丁寧に描写されています。

 ただ、その語り口は非常に静かで、セリフも少なく、表情で見せる場面が多かったような。そういう意味では、俳優さんたちは皆、素晴らしい演技だったと思います。

 特に、セリーヌ・サレットは、エリザのすごく意志の強く、頭の良さそうな女性そのまんまで、とても美しい。あまり笑うシーンがないのだけれど、とても表情豊かです。プロフィールを見ると、かなりたくさんの作品に出演していらっしゃるけど、私が見たことのある作品はソフィア・コッポラ監督の『マリー・アントワネット』くらいかなぁ。全然記憶にありませんが、、、。





自分を捨てた母親、自分が捨てた娘。私ならどちらも会いたくない、多分。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眼には眼を(1957年)

2016-02-20 | 【め】



 中東のとある国に赴任している白人医師ヴァルテルは、腕が良く冷静で、公私の別を明確にする人間である。

 ある雨の晩、ヴァルテルは仕事を終え、アパート(?)の自宅でくつろいでいたところ、アパートの入り口に1台の車が乗りつけるのが見える。何だろうと思って見ていると、管理人が車から降りてきた男に応対したかと思うと、ヴァルテルの部屋の電話が鳴る。どうやら、今来た男の妻が車に乗っており、腹痛を訴えているので診てもらいたいと言ってきたらしい。ヴァルテルは、しかし、もうオフであることから管理人に応急処置の方法を教え、車で20分行けば病院があることを伝えろと言って電話を切る。男は納得したのか遠目では分からないが、再び車に乗り込み走り去って行った。

 翌朝、出勤途中のヴァルテルは、昨夜の男の車が無人で路上に停まっているのを見掛け、不審に思う。病院に着いた後、当直医だった若手医師から、男の妻は、最初は盲腸だと思ったが、その後、状態が悪化し緊急手術したところ子宮外妊娠と判明し、手術の甲斐なく死亡したことを聞かされる。しかも、車が途中で故障したため、男は妻を連れて雨の中6キロも歩いたことも知った。

 その出来事以降、ヴァルテルの身に不審なことが続けて起きる。どうも、その男ボルタクに尾行までされていることに気付くヴァルテル。遂に、ヴァルテルはボルタクに事情を説明しようと接触を図るのだが、そこから、思いもよらない地獄絵巻にヴァルテルは引きずり込まれていくのであった、、、。

 なんという逆恨み、、、。じわじわと苦しめ、嬲り殺すという、まるでアリ地獄のような恐ろしさ。復讐譚はやっぱり不条理だ。  

  
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 これも「観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88」で紹介されていたので、復讐譚は苦手なのに見てしまいました。

 ヴァルテルのとった行動は、何ら倫理的にも問題ないし、もちろん法にだって触れない、あくまで正当なモノ。ボルタクの車が故障したことなんて、ヴァルテルには何の関係もありません。

 なのに、ボルタクはヴァルテルを恨む。もし、ヴァルテルが遊びに行っていて不在だったら? ボルタクはヴァルテルを恨まなかったんじゃない?

 そう、そこにいたのに、診もしなかったじゃねーか、お前。、、、ってことです。そして、ヴァルテル自身も、そこに負い目を感じてしまっている。これは人間ならそう思うのも当然でしょう。でも、結果がどう変わっていたかなんて、誰にも分からない。ある意味、ボルタクの妻は、そういう運命だったのです。

 大切な人をそういう形で亡くしたら、、、。自分ならどうするだろうかと、想像してみました。確かにヴァルテルを恨むかなぁ。殺してやりたいと思うかも。しかし、車が故障したのはヴァルテルのせいではないし、病院に着いた後、誤診したのは当直医であってヴァルテルではない。私なら、むしろ、恨むのは病院と当直医なんじゃないかなぁ。

 つまり、ボルタクは、腕のいいヴァルテルなら誤診はあり得ない、だから最初からヴァルテルが診ていれば妻は助かった、、、という思考回路だったのか?

 ボルタクの執念深さは、ちょっともう、私の理解を遥かに超えていて、訳が分かりません。大体、ボルタクは夜道で車が脱輪したところをヴァルテルに助けてもらい、しかもそこから自宅まで120キロもあるのに、ヴァルテルは夜中にもかかわらずボルタクと娘を送ってくれたのですよ? 普通、いや、私ならそれでもう、ヴァルテルに対する逆恨みは消えるような気がします。娘もいるのだし、娘の将来のために生きようと思うなぁ、多分。

 でも、ボルタクは違う。同居している親や妹がいるから娘の将来は彼らに託せばいいと考えたのか、自らの命と引き換えに、ヴァルテルを砂漠におびき出し、見渡す限りの砂漠地帯を、水も食料も潰えた後もひたすら歩き回らせるという、、、想像を絶する方法で復讐するのです。自らの死と引き換えの復讐なんて、もう、復讐される方に勝ち目はありません。

 ヴァルテルの行動もイマイチ理解できないんだよなあ。ボルタクの家人に砂漠地帯に病人がいると言われると、遥かな道のりを車で行くのです。これがボルタクの罠だと、普通なら直感しそうな気がするんですが。仮に鈍感でも、そんな遠くまで行かないでしょ、普通。それこそ「悪いが仕事があるので」と言って帰っても良いのに。そこが、ヴァルテルの負い目につけ込んだボルタクの巧みなところでもあるんだろうけど、、、。遠路はるばる行ったのに、当の病人は村人たちがヴァルテルに触らせないし、仕方なく車に戻ると、車のタイヤが外されているという、、、。やり方がえげつなさ過ぎ。

 ヴァルテルも人が良いというか、歩いて帰ると決めた後、「こっちの方が近い、信じるか信じないかはあなたの自由だけど」というボルタクの巧みな誘導に乗っちゃうのだよね。車で来た道を戻れば確実なのに。そんな恐ろしい男の言うことを信じるってことは、そいつに自分の運命を託してしまうこと。冷静に考えれば分かるのに、平常心のヴァルテルなら分かっただろうに、状況的に、ボルタクのおびき出しに乗ってしまったのです。嗚呼。

 「あの山を越えればダマスの町だ」とボルタクに言われ、その山を越えるがそこには砂漠が広がるだけ。怒るヴァルテルに、ボルタクはこう言い放ちます。「一つ山を間違えた。先生だって間違えることあるでしょ?」と。こえぇーー。これぞまさに「眼には眼を」。

 ラスト、ヴァルテルに傷付けられ力尽きたボルタクが、「もう動けない。行って助けを呼んできてくれ、ここをまっすく行けばダマスの町だ」とヴァルテルを先に行かせる。再びとぼとぼ歩きだすヴァルテルの後姿を見て、ボルタクは、何と笑うのです。声を上げて。そして、画面は空撮に切り替わり、ラストシーン、ヴァルテルの行く先に広がるのは、、、乾燥した砂漠の山々。まさに絶望の映像です。

 まあ、この後、ヴァルテルもボルタクも干からびて死ぬのでしょう。

 ボルタクとヴァルテルが、砂漠の谷を渡るケーブルカー(といっても、細いケーブルに、板だけの乗り場がぶら下がっている粗末なモノ)に乗るシーンがあります。もうこれが、怖い!! しかも途中で止まりかけるんです。で、再び動き出した反動で、ヴァルテルの水と食料の入った袋が深い深い谷底へ落ちていくという、、、。もう、今、こうして書いていても掌に汗が出てくるほど怖いシーンでした。

 何となく本作のタッチはクルーゾー作品のそれと似ている気がしました。見ている者をギリギリと追い詰める感じ。終始緊張を強いられるところとか。アンドレ・カイヤットという名前は初めて知りましたが、他の作品も見てみようかな。

 それにしても、、、やっぱし、復讐譚は嫌いかも。松本清張が本作をお好きだったそうで。阿刀田高は、本作を見て書いたのが「霧の旗」じゃないか、と推理しておられます。ううむ、、、。






ラストの絶望の映像、画面の左下にヘリの影が。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めぐり逢い(1957年)

2015-12-30 | 【め】



 NYに向かう豪華客船の中で、世界にその名を轟かせる遊び人ニッキー・フェランテ(ケーリー・グラント)と、クラブ歌手をしていたテリー・マッケイ(デボラ・カー)は出会う。互いに富豪の婚約者がいる身でありながら、惹かれ合った2人であったが、無情にも客船はNYに着いてしまう。

 NYに着く前日、ニッキー(=ニコラ)は、これまで自分はまともに働いたことがない身であるが、半年頑張ってみるので、半年後、もし生活が軌道に乗っていたら結婚して欲しい、とテリーにプロポーズする。テリーは、では半年後の7月1日午後5時に会いましょう、会えたら結婚しましょう、と返答する。そして会う場所は、あのエンパイアステートビルの最上階、天国に一番近い場所で、と約束し、互いに未練タラタラ下船する。

 下船後、莫大な遺産で大金持ちの婚約者を袖にしたニコラは、絵の才能を活かし、美術商に自分の絵を売ったり、看板の絵を描いたりしながら真面目に生活し、一方のテリーもクラブ歌手に戻って地に足の着いた生活をお互いに送っていた。

 そして、約束の7月1日。5時にエンパイアステートビルの最上階にはニコラがテリーを待っていた。エレベーターの扉が開くたびにテリーの姿を探すニコラだったが、、、。

 コテコテのメロドラマ、、、。ラストは、意外な展開で、無事ハッピーエンドです。
 
 
 
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜


 最近、もしかしたら痴呆症ではないかと思うほど、まるで記憶にないDVDが送られてきまして、びっくりすることが多いです。本作もそう。なので当然、予備知識ゼロ。

 船上での出会いと恋、ってんで、何かシャルル・ポワチエの出ていた映画に似てるな~、、、と思って見ておりました。そしたら、案の定、シャルル・ポワチエ出演の『邂逅』という作品のリメイクだそうで。そもそも『邂逅』なんてタイトルも忘れていたし、内容もぼんやりとしか記憶になく、特に、NY編はまるで覚えていなかったので、見終わった後にネットで情報を見るまで全く分かりませんでした。トホホ、、、。

 まぁ、でもおかげで、純粋に本作を見ることが出来ました。

 正直な話、私はケーリー・グラントが全然イイ男に見えなくて困りました。何か、ムダに日焼けした感じの肌色だし、お世辞にもあんまり品が良いとは思えないお顔。まあ、世界に名の知れた遊び人という役だから、あんましお上品でもなんだけど、ううむ、、、。しかも、この時の彼は53歳くらいで、横顔のショットなんか首のたるみがすごくて、なんというか、、、あんまし見ている方としてはときめかないんですよ。ライトの当たり具合でやたら顔が黒光りしているシーンとかもあって、歳の割にギラギラのオッサンみたいに見えちゃって、、、。風情のないこと書いてすみません。

 対するデボラ・カーは36歳でギリギリ何とか美しさを発揮しておられます。まあ、大人の恋のオハナシということで割り切って見るしかないんでしょうけれど。

 いや、、、でも、例えば、下船のシーンとか、2人が迎えに来たそれぞれの婚約者を見ながら目で会話するシーンなんか、もう、オヤジとオバサンがやることかよ、とか思っちゃって、見てて恥ずかしい、、、。実年齢が53歳であろうと36歳であろうと、見た目が若々しければいいんですけど、それなりの見た目ですし。ああいうのは、若い子たちがやるから可愛くて微笑ましいんじゃないかしらん。というのは固定観念、思い込み、なんでしょうけれど、やはりスクリーンには画になるシーンが映っていて欲しいものです。

 映画としては、前半より後半の方が見応えあります。すれ違いが起き、2人はどーなるの!? と思って見ていたら、思いがけずニコラの描いた絵が鍵となり、2人はすれ違いの誤解が解け、めでたしめでたしになり、ホッとします。前半で白け切っていた私も、ラストシーンは気付いたら涙しておりました。

 でも、なんかちょっと気に喰わないというか。

 思いがけない事故でテリーは天国に一番近い場所に行けずじまいでしたが、それで足が不自由になったことで、ニコラの負担になりたくないから本当のことをニコラには伝えない、という彼女なりの意地を通します。これ、どーなんでしょうか。テリーの気持ちも分かりますけれど、ニコラの気持ちを考えたら、たまりませんよ。ニコラには、裏切られたとしか思えません。ニコラを大切に思うのならば、きちんと事情を話すべきでは。こんな勝手な意地のせいで、片方は蛇の生殺しみたいな地獄を味わわされて、たまったもんじゃないでしょ。私がニコラだったら、腹立つと思うなぁ。それに、足の不自由さを負担に思う、なんて、随分信頼されていないものだと悲しくなるかも。

 テリーのあまりにもヒドい自己完結ぶりが巻き起こしたドタバタで、ラストこそじーんと来たものの、全体的には「なんじゃこりゃ」でした。





テリーを健気と思うか、勝手と思うか、どちらでしょうか。




 ★★ランキング参加中★★
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする