世界中のどこかに、もうひとりの私がいるのではないか……? あなたは、そう思ったことがありますか?
ポーランドとフランスに、同じ日に生まれたふたりのベロニカ。お互いの存在を知らないけれど、感じてはいる。でも、ポーランドのベロニカは突然の夭折。そのとき、フランスのベロニカは、どうにもならない虚無感に襲われ、、、。
キェシロフスキによる美しい幻想的な作品。
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どうしてもスクリーンで見たい映画、、、ってあると思いますが、本作もそのうちの1本と言えましょう。先週1週間、早稲田松竹でキェシロフスキ特集として本作が上映されていたので、見に行ってまいりました。同時上映は『トリコロール/青の愛』でござんした。トリコロール三部作については、またいずれ感想を書きたいと思います。
◆生きる上での“大いなる何か”
この映画のパンフを読んでみたところ、映画評論家の黒田邦雄という人が、この映画を「霊感映画」と呼んでいたんだけれども、私は、どちらかといえば妄想映画というか、キェシロフスキの妄想を映像化した作品という感じを受けた。まあ、そんな単純なものではもちろんないのだけれど、少なくとも、霊感映画はちょっと違うような。
ちなみに、黒田氏は、他の霊感映画としては、あの『ゴースト/ニューヨークの幻』や、スピルバーグ監督の『オールウェイズ』を挙げている。私は前者はテレビでながら見、後者は未見、ということでコメントしようがないんだけど、やっぱし本作と『ゴースト~』を同じジャンルで括られるのは違和感あるよなぁ。
本作で描かれていることは、全く別の土地で、自分と極めてよく似た人物が、全く別々の人生を送るのだけれども、どこか理屈ではない感覚的な部分で重なり合っている。人間は根っこの部分は割と同じで通じ合うものも多々あって、目に見えないものに導かれたり阻まれたりするわけで、そういう人生においてのもろもろを突き詰めると、人種や思想や国の違いという枠を超えた“大いなる何か”なのだ、、、というようなことだと思う。
キェシロフスキ自身は、「この映画は普遍性を持ったストーリーで、言葉ではうまく言い表せないテーマを描いていて、言葉にするとありきたりで馬鹿げたものになってしまうようなことがらである」「とても信心深い人間は、無神論者の人間と同じくらい歯が痛むのです。そして私はいつも、歯の痛みを語ろうと努めています」と言っている。至言。
人生において“大いなる何か”を感じるか感じないかは人によるだろうけど、私は常々感じている人です(ちなみに、「もうひとりの私が」などと妄想したことは一度もありません)。そう思わなければ割り切れないことが、人生には多すぎると思うから。じゃあ、“大いなる何か”とは何か、、、。まあ、運命みたいなものだと思います。以前、ネット上で、運命と宿命について論じている方がいて、運命は自力で変えられるもの、宿命は自力で変えようがないもの、みたいなことを書いておられました。へぇー、と思ったけれど、私は運命と宿命は同じようなもので、「不可抗力」と言い換えられると思っている。
「運命論は嫌いだ」と豪語する男性と複数会ったことがある(大昔にお見合いでね。皆さん、エリート様(キャリア公務員)でございました)けれど、私はこういうことをのたまう人間が昔から大っ嫌いなのです。生きていく上で自分の知見や力の及ばないものはない、という傲慢さ。……あれから20年以上経って、彼らの人生観も変わったかしらん、とも思うけれど、国民に自己責任を押しつける政策を悪びれもせず推し進める政府を見ていると、変わっていないんだろうなぁ、と想像せざるを得ず、、、。
◆セピア色の映像、人形劇、音楽、そしてイレーヌ・ジャコブ
ポーランドのベロニカが、クラクフの広場で、フランスのベロニカを目撃するシーンが素晴らしい。セリフはないのだけれど、セピアがかった広場の画を背景に、黒いコートに赤いセーターを着たベロニカが立ちすくみ、その目線の先には、自分にそっくりのフランスのベロニカがいる。なんて幻想的なシーン。
そして、ポーランドのベロニカは、まさしくドッペルゲンガーの都市伝説のとおり、その後まもなく、死んでしまう。しかも、彼女が臨んだ舞台で絶唱の最中に。そのシーンがまた劇的。
その後、お話しの舞台はフランスへ移るけれど、私が心を鷲掴みにされたのは、あの人形劇。あの人形の動きの一つ一つがもう感動的。あんな人形劇を実演するイイ男に心奪われるというのは、実に説得力のあるストーリー。私でも惚れてしまう、、、多分。その後、その人形遣いの男とベロニカの恋模様については、まあ、ちょっと理屈っぽくて、あんまりグッとくる展開ではなかったけれど。
終盤、その男が、ベロニカの人形を作っていて、なぜかその人形が2つある。ベロニカが「どうして2つあるの?」と聞くと、男は「壊れるから。酷使するからね」と。……本作の全てがこのシーンの伏線だった、、、とも言えそう。
あと、上下逆さまの映像が印象的。冒頭の、ポーランドの幼いベロニカが見ている景色も逆さま、クラクフへ向かう車窓からスーパーボール越しに外を見た風景も逆さま、、、。どんな意味があるのかなんて分からない。
特筆すべきは音楽かな、、、。ポーランドのベロニカが歌うのはオランダの作曲家の曲ということになっているけれど、この曲を作ったのは本作の音楽を担当したプレイスネルで、この音楽がとても効果的だと思う。ラストシーンで、フランスのベロニカが自宅の木に手を触れた瞬間に、その歌が聞こえてくる。その歌詞(ダンテの「神曲」らしい)がまた暗示的。
しかし、なんと言っても、本作はイレーヌ・ジャコブあってこそ。彼女の素の美しさ、優しさ、たたずまいの全てが、ベロニカそのものだった。……いや、逆か。彼女だからこそ、ベロニカがベロニカとしてスクリーンの中で生きた存在となったのだと思う。冒頭の、雨に濡れながら歌うシーンが感動的に美しい。大胆に裸体を晒してもゼンゼンいやらしくない、むしろ、神々しささえ感じてしまう。その特異な存在感は、きっとほかの役者では成り立たなかったと思う。本作が名作と言われるのも、彼女がベロニカを演じたことが全てと言っても良いのでは。
心洗われる、、、というか、しみじみと味わいたい映画です。
クラクフにも行きたかったなぁ、、、。いつか是非行ってみたい。
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