映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

『キャンディ・キャンディ』に思う[5]

2022-03-13 | 映画雑感

絶望を生きる男 ~テリィとニューランド~ ①

関連映画:『エイジ・オブ・イノセンス』(1993)

 

 この記事では、マンガ『キャンディ・キャンディ』についての勝手な思いを書いています。『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』の“あのひと”が誰かを考察する趣旨では全くありません。


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**映画『エイジ・オブ・イノセンス』のあらすじ**

 1870年代のニューヨーク。上流階級の弁護士ニューランド(ダニエル・デイ=ルイス)は幼なじみのエレン(ミシェル・ファイファー)と再会し、次第に心惹かれていく。しかしニューランドには婚約者メイ(ウィノナ・ライダー)が、エレンには離婚を承知してくれない夫がいた…。

 
 映画『エイジ・オブ・イノセンス』を何度か見るうちに、DDL演ずるニューランドが、テリィと私の中で被るようになりました。キャラは違うんですけどね。

 余談ですが、このブログにも時々書いているように、私はDDLの(ファンではなく)信者なんですが、信者になったきっかけが、この映画でのニューランドなんです。私の中ではDDL=ニューランド、と言ってもよいくらい。ニューランド自身は正直それほど好きじゃないんですけれど。ニューランドを演じるDDLが美し過ぎました、、、嘆息。

 ま、DDLのことはおいといて……。テリィとニューランドについてです。

 この2人の男性は、どちらも同じ境遇に置かれております。つまり、愛する女性がいながら、その人とはどうしようもなく一緒になることはかなわなかった。そして、別の女性と生きざるを得ない、、、ということ。

 ニューランドは、映画の中で妻メイとの生活で「もう自分(の心)はとっくに死んでいる」とまで言っています。テリィはキャンディとの別離後、深い絶望感に襲われて、あれほど情熱を注いでいた役者業から逃避しズタボロになってしまいます。

 テリィもニューランドも、本当にどうしようもなかったのだろうか、、、ということについて、ちょっと考えてみました。

 

◆あなたを誰にも渡さない!

 ニューランドが愛するエレンとの人生を諦めたのは、周りの無言の圧力と陰湿な根回しに屈したからだが、以前は、“ニューランドが全てを捨てる覚悟があれば、エレンが離婚できなくても、事実婚状態でヨーロッパで一緒に暮らすこともあり得たのではないか”と思っていた。つまり、ニューランドは、リスクを取る勇気がなかったのではないか……と。

 けれど、何度か見るうちに、メイから逃れるのは、まずムリだったろうと思うに至った。

 なぜなら、メイにとってはニューランドが自分のそばにいることが何よりも重要なのであり、ニューランドが自分を愛しているかどうかは二の次三の次だからである。だから、ニューランドが物理的に自分から離れないためなら何でもするわけだ。

 彼女は、ニューランドの本心などとっくにお見通しだった。エレンと相思相愛なのも分かっていた。メイとしては「エレンと幸せになどさせてなるものか、、、」というよりは、「ニューランドは絶対に誰にも渡さない!」だったのだろう。

 で、このメイの気持ちと同じことをテリィに言った人が、スザナなのよ。メイは言葉に出しては言わなかったけど、スザナは、ハッキリ言う

 ある日、稽古場でキャンディからテリィ宛の手紙を拾ったスザナは、テリィにそれを渡す際に、自分の思いを告白する。そして「ききたいの! あなたの気持ちを!」と言って、テリィの本心を聞くんだが、テリィが「……おれは昔からあいつ(キャンディ)のことを……」と言い掛けたところで、スザナは「いわないで! いやよ テリィ あたし あなたのこと愛してる! ぜったいわたさないわ! キャンディにだってだれにだって!」と泣き叫ぶ。

 自分以外に愛する人がいる、しかも相思相愛の人がいる相手に向かって「あなたを誰にも渡さない!」って、私だったらそんなこと、とても言えまへん、、、。

 しかも、その直前には、キャンディをシカゴのホテルで追い返したときの言い訳を「ごめんなさい…… あたし とてもわるいと思ってた でも……あなたをだれにもとられたくなかったの」と言っている。

 「誰にもとられたくない」って、別にスザナとテリィは付き合っていたわけでも何でもないのに、これも私だったら絶対言えないセリフだな、、、。こういうところも、テリィ派の方々に毛嫌いされる一因かもね(ちなみに、私はテリィ派ですが、スザナのことは嫌いではないです)。 

 しかも、このシーンが、スザナがテリィをかばって片足を切断することになる大怪我をする直前にあるのがミソ。テリィはスザナの思いを知らされてしまうからね。そこまで自分を好きでいる女性が、捨て身で自分をかばって、女優生命を絶たれるような大怪我を負うわけだから、テリィは人情として「そんなん知ったことか!」と言えない状況に追い込まれる。


◆スザナがテリィに執着するのは仕方がない。

 ネットでは、スザナは異常なまでに悪者にされている。相思相愛のテリィとキャンディを引き裂いた極悪人扱い。悪人というより、イヤらしい女、というところか。

 あれがテリィでなければあんなふうに身を挺してテリィを助けなかったはず、、、だから、スザナは身の危険を承知でテリィに貸しを作った、、、と。おまけに、テリィの舞台初日に当てこすりのような自殺未遂騒動まで起こし、どこまでテリィを苦しめるのか、と。

 しかし、それは違うと声を大にして言いたいのです……。

 

 

>>>>[6]に続く

 

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『キャンディ・キャンディ』に思う[4]

2021-11-14 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること②

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[3]からの続き

 

 もう1つ強く感じたことは、原作者は、正編の“テリィとキャンディの永遠の別れ”を軌道修正したかったんだな、ということ。


◆続編にほかならない2つの新要素

 正編の終わり方では、テリィとキャンディは“訣別”、2人の未来はないとしか読者は受け止められない。それはもう絶対的なものとして。だからこそ、多くの読者は嘆き、落胆したわけよね。原作者にもその嘆きは数多く届いていたというくらい。

 裁判経緯を記した原作者自身のHPで見ると、リメイクの話が泥沼裁判の発端だったようだが、リメイクの話が立ち消えになったのは、リメイクのはずがいつのまにか「続編制作」にすり替わっていたから、だという。原作者は、正編でキャンディの物語は完結しているという姿勢を崩しておらず、正編後の話をするつもりは、当時はなかったということだろう。

 けれども、小説Fでは、思いっ切り「続編」にも等しい、2つの新要素(スザナの死と、テリィからの手紙)をぶち上げたわけだ。

 これは、正編の余韻を大切にしたければ書くべきことではないし、書く必要のない要素でしょう。でも敢えて書いたということは、余韻を損なうことになるのは承知の上だったということ。そうまでしてこの新要素2つを入れたというのは、“あのひと”が誰であれ、テリィとキャンディの未来に含みを持たせたかったとしか思えない。つまり、軌道修正したわけだ。

 実際、“あのひと”が誰かは曖昧にした、と原作者自身が書いている。正編でキャンディの物語は完結した、という原作者の姿勢を貫くのであれば、これは禁じ手に等しい。

 別に2つの新要素を書いたことを全否定するつもりはないが、前述のとおり、雑だし安易だという感は拭えない。

 これだけ、“あのひと論争”を長引かせるほどに、小説Fは巧みな仕掛けがされている証拠であり、そこはさすがと言うべきところなんだろうけれど。

 私が小説Fの担当編集者だったら、これはナシだと言うだろうな。原作者でなければできないことを敢えてしないばかりか、実に中途半端なことをしている。ま、編集者のタイプによるけれど、私ならNGだ。

 恐らく、原作者は、自身の手で決着をつけるのが怖いのだろう。“あのひと”をアルバートさんと明記しちゃえば、テリィ派は絶望し、再び嘆き悲しむ。でもテリィとしちゃえば、アルバート派は憤るだろう。どっちにしても、原作者は非難される。引いては正編の価値を更に貶めることになりかねない。

 “あのひと”が誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです。けれど、それを書くことはもうないでしょう。《下巻p.336》

などと「あとがき」に記しているが、まさに、その「長い物語」を書かなければいけなかったんではないの? こんな新展開をチョイ見せするくらいならば。これでは、ファンに媚びただけであって、ファンの期待に応えたことになっていない、、、ということを、どうして編集者は言わなかったのだろうか。

 若しくは、原作者は「長い物語が必要」などともったいぶって言っているだけで、実はそんなものは頭の中にさえなかったのか。そうは思いたくないけどね、、、。

「それを書くことはもうないでしょう」などとセンチなこと言ってないで、今からでも遅くないから書けば良いのに。アルバート派だろうがテリィ派だろうが、全ての読者が満足・納得する物語なんてそもそも存在し得ないのだから、著者の信念で書けば良いだけでは。マンガの連載のように、読者の反応を過剰に気にすることなどない。そう思っている読者も多いはず。

 私はテリィ派だが、キャンディとハッピーエンディングでなくても構わないですよ、と著者にはエールを送りたいなぁ。だからといって、アルバートさんと……てのは生理的に受け付けないのだが(義理とはいえ親子、、、)。キャンディには自立した女性として、富豪との結婚なんて安易な落とし所に収まって欲しくない、というのが本音。

 原作者がどうしてもそれは書けないというのなら、新要素2つなどぶち上げず、もっと人物描写を細やかに、正編を知らない読者でも読むに耐える骨太の小説を書けと、私が編集者なら説得するね。それこそ、『あしながおじさん』や『赤毛のアン』に匹敵するような後世に残る児童文学を目指して書け、と。それが出来るのは、原作者であるあなたしかいないのだよ、とね。アラフォーのキャンディなど登場させずとも良いではないか。

 ただまあ、これは私のただの勘繰りだが、「あとがき」で、小説Fの執筆については迷いがあったが、版元から度々口説かれたというようなことも書いてあり、恐らくこの版元には下心はあっても志はなかったのかな、という気はしている。真相は分からないからこれ以上の言及は控えるけど


◆小説Fの意義

 ……とイロイロ文句を書いたものの、何度も言うが、原作者の真意は分からない。

 感じるのは、原作者よりも、小説Fの担当編集者の方が罪深いかも、ってこと。少なくとも、小説Fは、独立した小説としては後世に残り得ない代物になっているのだから。正編をリアルタイムで読んでいた、今や50代のテリィ派の傷を舐めるだけの作品、、、というのが言い過ぎならば、リアルタイムの読者たちで内輪ウケするだけの作品、かな。

 正編終了後にいろんなことがあり過ぎて、原作者の考えが根本的に変わったということは大いにあり得るし、あって良い。それに、原作者が小説Fを後世に残る作品にしようなどと、ハナから考えていなかった可能性も十分にある。……であれば、小説Fが往年のファンを楽しませるだけのものであっても構わないわけで。

 皮肉にも後世に残るのは、発禁となった正編であって、間違っても小説Fではない。将来、著作権が切れて復刊があるとしても、それは正編だけだろう。つまり、キャンディの「物語」は、どこまで行っても、あの作画者による絵と一体となったマンガ『キャンディ・キャンディ』のことのみを指すのだ。

 だから、小説Fが正編の価値を貶めていたとしても、それは今だけ、せいぜい今後数年かそこらだろう。けれど、正編は今後、発禁が続いても語り継がれて永く残り、少女漫画史上から消えることはない。萩尾望都著『一度きりの大泉の話』の中でも言及されていたしね。正編の存在は、おいそれとは消えないはずだ。だから、小説Fが正編にとってどんな存在であれ、キャンデイの「物語」は自立しており、正編で語られていることが全てなのだ。

 私にとって、小説Fは、いずれ2人は一緒に幸せになれるのだよ、、、と思えることで、正編の「テリィとキャンディの生木を裂くような別れ」のシーンを読むときの絶望感が緩和される、、、、という存在でしかない。

 なので、小説Fについて言及することは、多分この先あまりないと思います。私にとって、やはりキャンディの「物語」は、マンガ『キャンディ・キャンディ』に尽きるからです。

 ……というわけで、次回以降は、テリィについて思うところを書いて行こうと思っております。

 

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『キャンディ・キャンディ』に思う[3]

2021-11-12 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること① ~その2~

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[2]からの続き

 

◆セリフを“いじる”

 また、正編から小手先としか思えないセリフの言い回しの変更が見られるのも残念。そこを変える必然性ってある?というのが目につき、変えるではなく“いじる”という印象だ。

 例えば、テリィが聖ポール学院を去りアメリカへわたる際にキャンディへ当てた手紙の文言。

 正編「キャンディ/ぼくは学院をやめてアメリカへいくことにした/やりたいことがある/どこにいてもきみのしあわせをいのる/テリュース」
 小説F「キャンディ/ぼくは学院をやめてアメリカに行くことにした。やりたいことがある。/どこにいてもきみの幸せを祈っている/テリュース」《下巻p.135》

 些末なことの様だけど、「きみのしあわせをいのる」と、「きみの幸せを祈っている」ではニュアンスが変わる。英語だと、多分どちらも「I pray for your happiness」なんだろうが、正編の方が決然としたものを感じる。何より、文体として流れが良いのは明らかに正編だろう。小説Fのは“字余り”感がする。

 ちなみに、正編では「きみのしあわせをいのる」は、何度かキャンディがテリィを思うときに繰り返し出てくる文言であり、結構重要なフレーズ扱いだった。だから私の記憶にも深く刻まれたのであり、ここを敢えて変えた原作者の意図が全く理解できない。

 “言葉尻くらいで目くじらを立てるな……”と思われる人もいるだろうが、セリフの言葉尻ほど大事なものはない。この言葉尻は、それを語る人の人物像を表す重要なファクターの一つだ。脚本家の大石静氏が、以前エッセイだったかTVのトークだったかで「言葉尻を脚本から勝手に変える役者は好きじゃない」という趣旨のことを言っていたが(ちなみに彼女は役者が変えても文句は言わないといっていた気がする)、それはそうだろうな、と感じた。セリフは、ライターが考えに考えて書いているのに、役者がどういう根拠で変えたにせよ、ライターに相談なく変更するのは、ライターへの敬意が希薄な気がするね。物語を紡ぐというのは、神経も思考力も消耗させるものなのだ。それでも大石氏が役者に文句を言わないのは、役者が演ずることもまた、創造の一環だと理解しているからだろう。創造とはそれくらい敬意を持って尊重されるべき行為なんである。

 でも、小説Fでの改変は、原作者自身の手によるものだ。だからこそ、余計に分からない。正編より良くなっているのなら分かるけど。まあ、正編より悪くなっていると感じているのは少数派なのかもしれないけどね……。

 あとドン引きしたのは、キャンディの悪口を吹込みに来たイライザにテリィが言い返すシーンのセリフ。

 正編「ご忠告ありがとう/ついでにあの子にぼくのことも忠告してやってくれないか/テリィは たばこお酒は人なみ以上/けんか数十回規則違反数万回の不良だとね」
 小説F「ご忠告、ありがとう。ついでに、おれのこともあの子に忠告してくれないかな。テリィは、喫煙、飲酒、万引き、喧嘩、お手のもの。規則違反なんて数万回の不良だってね」《下巻p.107》

 ……「万引き」って。喧嘩や規則違反とは、まるで別次元のことやん。イライザがキャンディは盗みグセがあるなどと言ったことへの当てつけだとしても、、、である。キャンディが盗みを働いたこと(実際はイライザの捏造だが)は正編でもテリィにチクっている。これ、テリィを思いっ切り貶めているではないか(気にならない人はならないかもだが)。そして、この改変も、やっぱり言い回しの流れが悪くなって、“字余り”感が漂う。

 というか、こんな風に“いじる”姿勢に、もの凄く嫌らしさを感じるのだ。

 こういう嫌らしさは、小説F全編を通してひしひしと感じる。確かに、正編の作画者に対して第三者からは計り知れない嫌悪感を抱いている原作者として、無理からぬ心情であることは理解できる。けれど、正編を愛する読者には与り知らぬ話。

 ハッキリ言って小説Fは、そもそも小説として非常にお粗末(中身スカスカな一方でマンガの余白を過剰に説明しウザい。特に下巻)である。正編を読んでいることを前提に書かれているとしか思えない。正編の存在がなく、小説Fだけが世に出たと仮定して、一体どれだけの人の心に届くだろうか。これは著者の執筆姿勢としていかがなものか。甘え若しくは怠慢なのでは?

 少なくとも、小説Fだけを読んだら、私は絶対テリィを好きにはならない。むしろ嫌いかも。それくらい、正編とのキャラの乖離に苦しむ。そして、そのキャラのほとんどは、前述してきたような彼の“セリフ”に負っている。キャンディの魅力も色褪せているように感じるけれど、私はもともとキャンディのことは好きでも嫌いでもない(というか、少なくとも友達になりたい人ではない)ので、ガッカリ度は小さいのが救いかも。

 原作者は、裁判を通じて作画者によって正編を傷物にされたと思っているだろうが、私の目には、小説Fを上梓したことによって、原作者も同じ轍を踏んだ、と感じている。

 とはいえ、これは原作者だけの罪ではないのだよな、、、多分。

 

 

>>>>[4]に続く

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『キャンディ・キャンディ』に思う[2]

2021-11-07 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること① ~その1~

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[1]からの続き

 

 小説Fを読んで、強く感じたことが2つある。

 1つは、原作者の、作画者との合作である正編から、キャンディの「物語」を必死で切り離そうという執念みたいなものである。


◆展開の改悪

 正編の方が明らかに優れていると思える展開がいくつもあり、言っちゃ悪いけど、小説Fは正編の劣化版(もっと言えば、改悪版)としか思えない。

 例えば、アニーが孤児院出身であることがイライザに露見するくだり。

 小説Fでは、アニーとキャンディの間だだけでコトが解決してしまう。あれほどキャンディに対しわだかまりを抱えていたアニーが、その当のキャンディに「アニーのバカ!甘ったれるのもいい加減にしてよ!」《下巻p.43》、「ポニーの家の、孤児院のどこがいけないの?」「アーチーに知られるのがなんでそんなに怖いの!?」《下巻p.44》とか正論でもって叱られて(説得されて)、ケロッと素直に反省して仲直りするのだ。仲直りのシーンの2人のやりとり。

「……ごめんなさい、キャンディ……わたし、恥ずかしい」/(中略)/「わたし、アーチーに話すわ。わたしがブライトン家の養女だってこと……ほんとは、ほんとはキャンディと同じポニーの家で育ったっていうこと……」/「そうこなくっちゃ!」/二人はしっかりと手を取り合う。/「変わっていないわね、キャンディ!」/「アニーだって!」/手を取り合ったままふたりは微笑した。《下巻p.45》

 ちなみに、正編では、雨の中、岩場の間に入り込んで一人泣いているアニーを見つけたキャンディがアニーを呼ぶが、アニーは岩場から出て来ない。そこで、キャンディはアーチーに「あなたでなきゃだめなの」と言って、アニーの説得役をアーチーに託すのだ。アニーの心が強くなるのは、愛するアーチーが「きみがでてくるまでここにいる」と言って雨の中待ってくれたからであって、「孤児院出身であること」を“他ならぬアーチー”に「どこでそだとうときみはきみじゃないか」「強くなるんだ」と言ってもらえたからである。

 嫉妬心や後ろめたさを抱いている当の相手キャンディ本人に「甘ったれるな!」などと言われて、アニーの心が氷解するはずないだろう。このとき正編でのキャンディは、「どんなことをしてでもまもってあげる」と、アニーの気持ちにひたすら寄り添い、決して「甘ったれるな」などと残酷な正論を口にしてはいない。

 それに、この一件が起きることで、キャンディ、アニー、アーチーの関係が変わるきっかけにもなっているのに、小説Fではその流れも断ち切られている。

 これは明らかに「改悪」だと思う。

 まだある。

 キャンディが、乗馬するテリィをアンソニーだと錯覚して失神し、テリィに助けられるシーン。長くなるけど正編での展開を敢えて書くことにする。

  • キャンディが夜遅くに庭伝いにステアとアーチーの部屋へ行くつもりが、間違って隣のテリィの部屋へ飛びこんでしまう。
  • そこで偶然、女優エレノア・ベーカーの写真を見つけ、テリィが彼女の隠し子だと知ってしまう。テリィはキャンディに「このことをだれにもいうなよ、いったらおまえを……メチャクチャにしてやる」と口止めする。
  • キャンディはステアたちの部屋へ行き、そこで床に落ちているエレノア・ベーカーのブロマイドを見つける。ステアとアーチーは彼女のファンで他にもあるブロマイドをキャンディに見せるが、その中にアンソニーの写真が混じっていて、キャンディはそのアンソニーの写真をステアたちからもらう。
  • 一方のテリィは自己嫌悪に陥り、夜中にもかかわらず乗馬に。
  • 自室に戻ったキャンディはアンソニーの写真を見て哀しみにくれていたところ馬のいななきを聞き、バルコニーに出る。テリィの乗馬姿を見てアンソニーと錯覚して動転、階段から落ちて失神する
  • キャンディの悲鳴を聞いたテリィは、キャンディを抱えて医務室へ運ぶ。

 、、、となる。このとき、テリィに抱えられたキャンディがうわ言で「アンソニー」の名前を口にする

 一方の小説Fは、これに似たシーンはもっと早い段階で、キャンディとテリィが出会って間もない時期の話として出て来る。聖ポール学院でキャンディが初めて朝のミサに出席し、テリィが乱入騒ぎを起こした(このシーンは正編にもある)直後に、このシーンが挟まれる。テリィの起こした騒動のおかげでミサが長引き、女子たちがテリィの話題でもちきりになっているのを横目に、キャンディはアンソニーのことを思い出す。ちょっと長いけどその場面を抜粋。

そのとき、ふいに森の奥から馬のひづめの響きが聞こえてきた。/キャンディはハッと息を止めた。/(中略)/キャンディは影になって駆けてくる馬上の人を止めようと両手を広げた。/馬のスピードはゆるまない。/「来てはだめっ!」/叫んだ瞬間、キャンディは悲鳴を上げて気を失っていた。/(中略)/「アンソニー!」/うっとりとその名を呼びながら目を開けたキャンディは、次の瞬間、ギョッとして体を起こした。/キャンディをじっと見つめていたのは、テリュース・G・グランチェスターだったのだ。/(中略)/「アンソニー、なんてつまんない名前で呼ばないでくれ」/(中略)/「つまんない名前なんて……あんなすてきな名前はないわ! テリュースのほうがよっぽど、つまらない名前じゃないの!」《上巻p.269~270》

 あのねぇ、、、疾走してくる馬の前に立ちはだかるなんて、文字通り「自殺行為」で、ヘタすりゃ死ぬし、テリィだって大怪我でしょう。ヘンすぎる。

 また、テリィがアンソニーのことを貶すのは、正編では、それがキャンディの初恋の人だと分かった後、つまり無意識の嫉妬から出た言葉であり、上記のように、アンソニーが何者かも知らないうちから無意味に貶めるようなことをテリィが言うシーンはない。貶す内容も「(バラづくりなんかして)ひよわでナヨナヨした奴」レベルの話だ。大体“人の名前を貶す”ってのは、人格を疑いたくなるような言動なんだが、、、。応戦するキャンディのキャラも下げていると思うがどうだろう。(どうでもいいが、アンソニーといえば、あのレクター博士はアンソニー・ホプキンス、、、)

 それに、キャンディがアンソニーと錯覚するに至った経緯は、どう見ても正編の方が説得力がある。アンソニーの写真、そのアンソニーの写真を入手するきっかけとなったエレノア・ベーカーのブロマイド、それがテリィの出生の秘密でもある、、、。実によく出来た構成だと思うのだが。

 小説Fでは、キャンディがエレノア・ベーカーのことを知るのはこの大分後になっており、どうも、一つ一つの出来事がブツ切りな感がある。正編を知らずに読めば「ふーん」だろうが、正編を前提に書いているとしか思えないこの小説で、正編を思い浮かべながら読まれるのは著者も重々承知だろう。であれば、正編より明らかに必然性の感じられない展開は、改悪と言われても仕方がないと思うのだが。

 話は少し逸れるが、正編でテリィがキャンディを助けるのは、あくまで“そっと”である。シスターに命じられてキャンディを医務室のベッドに寝かせた後、再び、キャンディがうわ言で「アンソニー」の名前を口にするのを聞き、テリィはキャンディの閉じた目から流れる涙をそっと拭うのだ。そしてシスターたちが来る気配がすると、テリィは窓から出て行ってしまう。その後、渡り廊下を部屋へ戻るキャンディを、庭から遠く見つめているテリィは、キャンディのうわ言を思い出して気にする、、、という、情緒あるシーンなのに、小説Fではテリィは思いっ切りキャンディに自分が助けたことをアピールしており、ここでもテリィのキャラが変わってしまっている。

 テリィのキャラは、小説Fを通じて、正編よりかなり“改悪”されていると、私の目には映る。余計なことを書き過ぎだし、書くべきことは書いていない。

 展開の改変に話を戻すと、改悪例は挙げれば他にもいろいろある。スザナがキャンディから劇団に届いたテリィ宛の手紙を何通も隠していたり、反対にスザナからテリィと別れさせてしまったことへの懺悔の手紙がキャンディ宛に送られて来たり、、、。どこまでスザナを貶めるのか。ファンサービスかも知れんが、こういう手法は個人的に好かん(私自身がスザナをそれほど嫌いじゃないってのもあるだろうが)。 

 「改悪」が言い過ぎなら、ほとんどの改変に必要性が感じられず、正編を“切り刻んで組み替えた”印象だ。原作者として、やってはいけないことをやってしまっているようで残念極まりない。

 

 

>>>>[3]に続く

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『キャンディ・キャンディ』に思う[1]

2021-11-06 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』がもたらしたもの

 


 少し前に、少女マンガ『キャンディ・キャンディ』の愛蔵版(中公新社刊)を5年ぶりくらいにじっくり読みました。連載時(70年代後半・小学生でした)にリアルタイムで何度も何度も読んでいたし、その後も何度も何度も読んでいるので、愛蔵版を入手してからは、じっくり読むのは5年に一度くらいのペースになりました。読まずとも絵もセリフも脳裏に浮かぶので、、、。

 読む度に、あれこれと思うことがあるのですが、今回、それらをちょっと文字にしておこうという気になりました。

 ただ、マンガ『キャンディ・キャンディ』について書くには避けて通れない本があり、それは2010年に上梓された『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』です。これは、ざっくり言うと、マンガの後日談を含めた原作者によるリライト小説ですが、なぜ避けて通れないかというと、マンガ『キャンディ・キャンディ』にまで影響を及ぼしかねない後日談が新たに展開されていたからです。

 ちなみに、私が読んだのは、マンガ『キャンディ・キャンディ』(原作 水木杏子 作画 いがらしゆみこ/単行本全9巻&愛蔵版全2巻)と、『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』(名木田恵子(=水木杏子)著/上下巻)のみです。小説版は『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』以外にもいくつかある様ですが全て未読、アニメは全く見ていません。

 私の手元にあるのは愛蔵版のみで、単行本は持っていません。愛蔵版を買ったのは、確か94年頃で、原作者VS作画者の泥沼裁判はその直後から始まり、裁判の結果(原作者の全面勝訴)、キャンディの絵に関するものは一切封印されることになったので、当然、マンガも絶版。よくぞ愛蔵版を買っておいたものだと、後になって思いました。

 『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』も今は絶版となっており、図書館で借りて読みました(読んだのは2度)。

 マンガを好きだった者にとってみれば、この裁判は最悪な出来事であり、判決も(原作者の権利が認められたことは良かったのですが)キャンディ関連の絵は一切お蔵入りという最悪の結果です。仕方のないこととはいえ、これについては思うところもあるので、追々触れることになると思います。

 なお、以下、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記します。

 これから書くことは、正編をご存知ない方には??な内容になります。


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◆終わらない“あのひと”論争

 小説Fは、正編終了から長い年月(「アンソニーの死から20年以上がたった今でさえ」《上巻p.218》とある。一方あとがきで、「第二次大戦を目前にした頃のキャンディ」が原作者に語りかけた《下巻p.335》とか書いてある)が経った現在のキャンディ(35歳前後か。1899年生まれのキャンディなので、1939年だと40歳)の回想という形で書かれたもの。

 で、現在のキャンディには、一緒に暮らす“あのひと”がいる。あのひとは「愛するひと」《上巻p.232》なのだ。小説Fのラストシーンはこう締めくくられている。

そのとき、突然、部屋の灯りがともった。/「灯りもつけずに、どうしたんだい? キャンディ」/わたしを、いつもときめかすやさしいその声――。/あのひとが扉の前でわたしを見てほほ笑んでいる。/わたしの大好きな微笑。/あのひとが帰って来る車の音が聞こえなかったなんて。/「おかえりなさい!」/わたしはこの言葉が言える幸せに声をつまらせながら椅子から立ち上がると、あのひとが広げた腕の中に飛びこんでいった。《下巻p.331》

 でも、この“あのひと”がハッキリ名指しされていないがために、ネット上では論争(?)となり、小説Fが絶版になった今も現在進行形。

 もちろん、“あのひと”の候補はアルバートさんテリィの2人に絞られるんだが、小説F中に、現在描写として散りばめられた材料が、どちらにも取れるようになっているわけです。これは、原作者自身が意図したもので、小説Fの「あとがき」で以下のように書いている。

みなさまに、おことわりしなくてはなりませんね……。/それは“あのひと”のこと――。/はじめから曖昧にしようと決めていました。/(中略)/そう、“あのひと”が誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです。けれど、それを書くことはもうないでしょう。/それに、“あのひと”を明かしてしまうと、長年の読者たちの夢を奪うことになるかもしれない、とも思いました。(きっと、賛否両論でしょうが)謎は謎のまま、想像の世界を楽しんでもらえたら、と(ちょっと、いたずらっぽく)願っています。《下巻p.336》

 ……なんとじれったい。

 まあ、正編のラストシーン(ポニーの丘で待つアルバートさんに向かってキャンディが笑顔で駆け寄る)を見て、アルバートさんとキャンディが結ばれることを予感した読者たち(これらの人びとを、便宜上「アルバート派」と呼ぶことにします。ネット上でもそう言われているしね)にとっては、この小説Fはそれをダメ押しするものになったのでしょう、、、多分。

 しかし、私のように、あの正編のラストシーンを見ても、“キャンディはアルバートさんと結ばれる”とは全く受けとれず(ウィリアム大おじさまと丘の上の王子さまの正体が明かされただけと受けとめた)、かつテリィLoveだった読者たち(こちらは便宜上ネットの呼称に倣って「テリィ派」とします)にとっては、むむっ??っとなったこと必定。

 なぜなら、小説Fでは、初めて明かされた新展開があったから。それは、スザナの死と、その後のテリィから届いた手紙の存在(詳細は後述)。

 これで、長年、キャンディとテリィの絶望的な別離に心を痛めていた大勢のテリィ派(もちろん私も)は色めきたったわけですヨ。テリィとキャンディの間の、最大の障害であったスザナが死んだ!! しかも、その後テリィからあんなストレートな思いを伝える手紙がキャンディの下に届いていた!!!

 そら、論争になるわね。論争になるってことは、アルバート派の方々も、これはもしや、、、という一抹の懸念がある証拠でしょう。

 ……というような前提があった上で、揺るぎないテリィ派である私には、“あのひと”はテリィに決まっているんだけど、でも、アルバートさんでも別に良い。正直なところ、どっちだって良いのだ。原作者がわざわざ「曖昧にした」と明かしているんだから、原作者の真意など分かりようがない。

 絶対的に分からないことで思い悩むのは虚しいし、原作者も言っているように「想像の世界を楽しんで」しまえば良いではないか。ネット上には、“あのひと”について微に入り細を穿った検証がなされたサイトや、小説Fの内容を基にした二次小説が書かれたサイトがたっくさんあります。私もその一部を興味深く拝読しました。

 

◆テリィ派は小説Fを喜んで読んだのか。

 しかしですね、、、正直言うと、私は小説Fに好意的になれない

 テリィ派が驚喜する新展開の2つの要素が含まれていて、多少報われた思いがしたのは確かだけれど、小説Fを好意的に受け止められない理由も、まさに、この2つの新展開要素。スザナの死と、テリィからの手紙。

 スザナ殺しちゃうのかーーー、ってね。邪魔者は消しちゃえ……ってか?? テリィからの手紙もだけど、雑な展開というか。いわゆる、ご都合主義的だよね、、、と。テリィ派の長年のやり切れない思いをなだめるためにはどうしても欠かせない要素であることは十分承知だけど、こう来たかぁ、、、と。

 ちなみに、スザナの死後届いた、テリィからの手紙の文面はこちら。

キャンディ/変わりはないか?/……あれから一年たった。/一年たったらきみに連絡しようと心に決めていたが、迷いながら、さらに半年がすぎてしまった。/思い切って投函する。/――ぼくは何も変わっていない。/この手紙が届くかどうかわからないが、どうしてもそれだけは伝えておきたかった。/T・G 《下巻p.283》

 ……ううむ。原作者も相当慎重に言葉を選んでこの文面をひねり出したんだろうなぁ、、、と思う。テリィのキャラを壊さないようにという苦心の跡がうかがえる。

 でも、どうだろう。

 テリィを愛する者からすると、この手紙で、、、というよりは、小説Fによってテリィのキャラは十分壊された気がするんだよね。これが小説Fを歓迎できない決定的な理由です(多分)。

 小説Fを読んで、私が強く感じたことが2つあり、次回はそれらについて書きます。

 


>>>>[2]に続く

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ロシア映画2本 @早稲田松竹 2020.02.11

2020-02-22 | 映画雑感

 新型コロナウイルスが凄まじい勢いで広がっている。この騒ぎで、海外旅行をキャンセルした人も多いらしい。私はもちろんキャンセルするなど微塵も考えていなかったけど、ロシアから来るなといわれる可能性はあるなぁ、、、と思っていた。が、どうやら入国拒否などということにはなっていない様子。先ほど、添乗員さんから最終確認の電話を受けたので、行けるみたい。

 むしろ、この時期、超過密人口の街・東京になんぞいない方が良いのかも知れませぬ。きっともう、市中感染なんてあちこちで起きているに違いない。

 というわけで、ロシア行きを目前に控え……などということではなく、これは、上映決定されてから絶対見たい! と思っていた。1週間限定上映だったから、恐らく混むだろうと思い、開館50分前から並んだ。案の定満席。まぁ、想像はしていたけど、いや想像以上に(特にフルスタリョフの方)脳髄を直撃する内容で、2本立てはかなりキツかった。

 なので、2本まとめての感想を書いておくことにいたしまする。


☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆


◆動くな、死ね、甦れ! (1989年・ソ連)

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv16754/

 第二次大戦直後、雪に覆われたソビエトの極東にある炭鉱町スーチャン。収容所地帯と化したこの町では、窃盗や暴力が横行していた。そんな殺伐とした空気に満ちた町に生きる12歳の少年ワレルカ。純粋無垢だが不良ぶっている彼は、たびたび騒動を引き起こし、唯一の家族である母親への反発と相まって、悪戯をエスカレートさせていく。

 そんなワレルカの前に、守護天使のように現れては、危機を救ってくれる幼なじみの少女ガリーヤ。 二人に芽生えた淡い想いは次第に呼応していくが、学校を退学になったワレルカが町から逃亡することで、彼らの運命はとんでもない方向へ転じていく…。

早稲田松竹のHPよりコピペ~

 当時54歳の新人監督ヴィターリー・カネフスキーが自伝的映画として発表し、カンヌで絶賛されたんだとか。

 ワレルカっていう少年が、まぁ、何とも可愛くないガキで、ガリーヤの商売(お茶を売っている)の邪魔ばっかりする。自分もお茶を売っているんだが、「そっちのお茶にはゴキブリが入ってる! こっちは泉の水で入れたお茶だよ!!」なんてことを言う。少年特有のいけずな行為と思えば微笑ましくもあるんだが。

 まあとにかく、、、舞台はソビエトの極東、炭鉱の町。多分、強制収容所とまではいかないが、強制労働をさせられる地区と思われる場所。いつもいつも寒そうである。地面は雪に覆われているか、土が顔を出していても雪の溶けた水を含んでぬかるんでいる。寒そうな風景ってのは、それだけでちょっと見ている方の心が強ばる。

 人々、、、大人たちも何かこう、とげとげしい。共産主義体制下ということもあるだろうが、子供を統制しようとばかりする教師、正気を失った学者、強制労働に従事させられている者などが描かれ、見ているのが辛くなってくる。とにかく全てが“貧しい”。

 ワレルカとガリーヤの淡い初恋の成り行きが、脈絡なく描かれる。本当なら微笑ましく思える設定なのに、そんな余裕を感じられない。ずーーっと切羽詰まった感じ。おまけに、ワレルカを始め大人たちも皆、いつも怒鳴るようにしゃべるので、見ていて疲れる。

 そして、終盤、ワレルカの初恋にいきなり終止符が打たれる。ガリーヤが死んでしまうのだ。でも、その瞬間はよく分からない。なぜ?? 次のシーンは、ガリーヤの埋葬場面。悲しみのあまり気が触れたガリーヤの母親は全裸になって走り回っているという、、、。そして、監督の「ここでいいだろう」という声でエンドマークである。ややドキュメンタリー調だが、この辺も何だかヘンな感じである。

 見ている間は疲れたのだけれど、実は、見終わって時間が経ってからの方がじわじわと胸に迫るものがある。もう一度見てみないと分からないところもたくさんあるし。ワレルカが可愛くないガキだと思っていたが、ラストから遡って思い出すと、イメージがゼンゼン変わってしまうのも不思議だ。

 

☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆

 

◆フルスタリョフ、車を!(1998年・仏露)

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv31472/ 

 主人公はモスクワの病院の脳外科医にして赤軍の将軍、ユーリー・クレンスキー。大富豪の長でもある彼は、病院と、家庭と、愛人のところを行き来する日々を送っている。決してアルコールを手放すことはない。

 時は1935年、反ユダヤ主義の色濃い時代、将軍はスターリンの指示のもとKGB(秘密警察)が企てたユダヤ人医師を迫害する計画に巻き込まれてしまうことになる。気配を察して彼は逃げようとするが、すぐに捕らえられ、強制収容所で拷問を受ける。ところが突然解放されて、スターリンの側近ベリヤに、ある要人を診ろと言われる・・・。

 タイトルの「フルスタリョフ、車を!」というのは、ソビエトの独裁者スターリンが息を引き取る直前、側近を通して命じたという言葉。映画は、そのスターリンの死の1953年に始まり、約10年後で終わる。

~早稲田松竹のHPよりコピペ~

 いや、もう、この映画は、ホントに見終わった後、脳が揺れている感じで気持ち悪ささえ感じた。

 とにかく、もう、徹頭徹尾“訳分からん!!”なんである。ネット上である人が「クストリッツァの『アンダーグラウンド』を彷彿させる」と書いていたが、私はそれには明確に異を唱えたい。言いたいことは分かる。『アンダーグラウンド』も、最初から最後までフルパワーで疾走する映画なので、めちゃくちゃ疲れるのは同じ。でも、本作よりも分かりやすい、、、というか、ちゃんと見る人が分かる様に作っている。私は、『未来世紀ブラジル』を見たときと同じ感覚になった。見終わって疲弊しまくって、気持ち悪くなる感じ。

 本作は、シーンとシーンのつながりに脈絡はなく、もう完璧に見ている者は置き去り。おまけに、こちらも登場人物たちが皆、怒鳴るようにしゃべるのである。このようなしゃべり方ってのも、この灰色の空が重く垂れ込めた鉛のような社会で抵抗する、、、というか必死に生きるためには、自然にそうなるものなんだろうか。

 本作は、理解しようとする映画ではない。とにかく目の前に次々に現れるものをただただ見る映画である。理解しようとするから、無駄なエネルギーを使って疲れるんだと思う。……でも、私の脳ミソは、大して働きが良くもないのに、映画を見ていると理解しようと足掻くのである。だから、疲れる。

 もう一度見たいとは、正直言って今は思えないのだが、しかし、死ぬまでにもう一度くらいは見てみたいとも思うのもまた事実。ヘンな映画だ。

 ……というわけで、まともに感想を書くことができません。

 

 

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午前十時の映画祭7(『戦場のピアニスト』 2002年)

2016-11-12 | 映画雑感

 今年で7年目となる「午前十時の映画祭」。7年目にして、初めて足を運びました。

 というのも、どうしても『戦場のピアニスト』をスクリーンで見たかったから。公開中に見に行かなかったことをこれほど後悔した作品はありません、、、。

 毎年、上映作品が発表されるとチェックはしていたのですが、何が何でもスクリーンで見たい!! と思う作品は、、、まあ、なかったんですよねぇ。

 見たいなぁ、くらいならたくさんあったんですよ、もちろん。特に、昨年だったかな、、、『ダーティハリー』や『リトル・ダンサー』が上映されたときは、かなり行きたかったんですけれども、平日の午前10時なんてほとんどムリだし……。とにかく自分でも呆れるほどの出不精で、週末は人と約束していなければ(orチケットをとっているとか、予約している何かがあるとかでなければ)出掛けない主義で、自宅でダラダラするのが至上の悦び、というグータラ人間のため、「是が非でも見たい!」という強烈な思いがなくて行動に移せないで来たのです。

 でも、今年は、上映作品の発表があった2月だったか3月から、11月が来るのを指折り数えて待っていたのです。それはもちろん、『戦場のピアニスト』が上映されるから。

 作品自体の感想は、前の記事で書きましたので、ここでは重複はやめておきますが、やっぱりスクリーンで見るのはゼンゼン違いますね、作品から伝わってくるパワーが、、、。まあ、当たり前なんですけれども。

 劇場は100席弱でしたが、8割がた埋まっていましたね。1日1回の上映、本作は幸いなことに1か月間(2週毎劇場入れ替え)上映してくれていますので、通常の2週間よりは行くことが出来る日が多くなって嬉しい限りです。

 DVDで見た時も、かなり衝撃を受けて、胸に迫りましたが、今回劇場で見て、もう息をするのも忘れそうになるくらいスクリーンに吸い込まれそうになっていました、2時間半ずっと。

 どうしてもスクリーンで見たい作品は、他には『アンダーグラウンド』と『鳩の翼』くらいかなぁ、、、。『アンダーグラウンド』は、もう2回劇場で見ているけど、やっぱり何度見ても飽きないし、あの迫力はスクリーンで見てなんぼ、という気がします。『鳩の翼』は公開時に見に行っているけど、やっぱりもう一度スクリーンで見たいです。でも、どちらも、ちょっと、午前十時プロジェクトには選ばれそうにないような、、、。

 『戦場のピアニスト』とカップリングされているのが、なんとあの『モンパルナスの灯』。ジェラール・フィリップ教の信者としては、こちらも逃し難い。あの美しい姿を大スクリーンで拝みたい。

 ああ、でも、『戦場のピアニスト』は今度いつまたスクリーンで見られるか分かったものではないので、あと2回くらい見に行っちゃうかも。というか、少なくとも、後1回はもう行く予定なのだ! ゼンゼン出掛けるのが苦痛じゃないって、我ながら凄いと思う。自分にとってそんな凄い作品と出会えたなんて、幸せだ。





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白雪姫、スノーホワイト、、、、あれこれ ~その③~

2016-09-06 | 映画雑感
 その②のつづきです。


◆母娘の確執の“核”
 
 ジェンダーだの何だのと書いてきましたけれども、お姫様が王子様に見初められて幸せになりました、というのは、白雪姫においてはサイドストーリーです。メインストーリーは、飽くまで“母と娘の確執物語”。

 そう、実に普遍的なテーマが白雪姫の本質で、この辺りも女性学では割と論じられてきたところでして、、、。

 “母と娘の確執”については、いろいろな人がいろいろな所でいろいろなことを言っておられますけれど、経験から、母と娘に確執が起きるその原因は、ひとえに、“母の娘に対する嫉妬心”だと思うのですね。

 母娘の確執の根っこ、コアな部分にあるのは、まさに母の娘に対する“嫉妬”です。

 これは、私自身が経験し、あれこれ苦しんで悩んで20年ちかく考えた末にようやくたどり着いた結論です。ここに気が付いたとき、私は母親に対する全ての不可解・疑念・疑問が一気に氷解し、腑に落ちました。

 比較的、問題の少ない母娘関係を築いてこられた方々はもちろん、現在、母娘の確執を抱えているご本人でも、「母親が娘に嫉妬??」と疑問に思われるかも知れません。私自身、そこに気付くまでに、いろいろな書物等の活字で「娘に嫉妬する母親」というものを読んでも、まったくもってピンと来ませんでした。「そんな母親いるんだ、、、? ウチも母娘の確執を抱えてるけど、ウチはこれはナイわぁ~」と真剣に思っていました。

 でも、ナイどころか、まさしく“それ”だったのでした、ウチも。


◆娘に嫉妬する母親

 娘に嫉妬する、とはどういうことか。

 それは、“娘が自分の人生を自力で歩もうとすることを全力で阻止する”ってことです。

 なぜ全力で阻止するのか。娘に執着しているから、娘の人生を利用して生き直しをしようとしているから、、、、等々言われていますが、もっと単純なんだと思います。多かれ少なかれ、自分が果たし得なかった、抑圧されてきた部分を、娘が超えようとしてしまう様を目の当たりにし、我慢ならなくなるのです。

 精神的に自立できている母親は、自分が果たせなかったことを娘が果たそうと挑む姿を見守ることができるはずですが、自立できていない母親には、それがもの凄く難しい、というより不可能なことなのです。

 自立できてない母親というのは、大抵、何かに依存している。ある人は家族に、ある人はお金や権威に、、、。一番タチが悪いのが、子に依存している母親。子が親離れしようとすることを“裏切り”と受け止めるんだからね。子は地獄ですよ、マジで。

 ここでいう自立は、経済的な自立ではなく、精神的な自立です。まあ、経済的な自立と精神的な自立は、比較的連動しているとは思いますが、必ずしもそうとは言い切れません。

 いずれにせよ自立できていないということは、自分の意思が貫けないか、もともと意思を持てない人なわけです。だから意思を持って行動しようとする人に対し、反発心が自然に起きる。

 でも、本人はそれを嫉妬心だとまるで自覚していない。特に、我が子、いえ、我が娘が意思を持って行動しようとすることが、“生意気”とか“偉そう”とかに見えるんです。だから、許せない。親を差し置いて何事か、、、とね。親である自分がないがしろにされたみたいな気持ちになるんでしょう。それが、裏切られた!になる。実に憐れな思考回路です。

 白雪姫の実母である魔女も、まあ同じですよね。彼女の場合、依存しているのは魔法の鏡。ある日突然、魔法の鏡に裏切られる。鏡は鏡の意のままにモノを言っただけなのに。

 そこで怒りは白雪姫に向かい、白雪姫を追い出すけれども、白雪姫が自分の知らない所で幸せそうにしていると、激しく嫉妬する。生意気な娘!! 許せん!! そして、毒りんごですよ、毒りんご そこまでして白雪姫の人生を破壊したいという衝動の恐ろしさ。


◆自分に自信がない人ほど攻撃的

 でもこれは、詰まる所、“自分に自信がない”ってことでしょう。

 魔女は鏡に確かめないと、自分の美貌を信じられなかった。だから、鏡に白雪姫の方が美しいと言われれば、それを真に受けてしまう。ホントは、魔女の方が美しいかも知れないのに。そして、過剰に攻撃的になる。周りはいい迷惑なんですけどね、、、。ちゃんと自己処理してくれよ、と言いたい。

 でも自信を持つ、って難しい。根拠のない自信家なら、結構いますもんね。それはそれでまた周囲に対して害悪です。

 自分なりの考え方を確立し、なおかつ独善的にならない、というのは実に難しいバランスの取り方です。でも、これは、日々意識していないとなかなかできるようにはならないし、油断すると、何かに依存したり、独善的になったりと、どちらかに針が振れてしまう。

 そうすると、何か壁にぶち当たった時に、回りのせいにするか、あの時ああしておけば良かったと後悔するか、、、どちらかでしょう。魔女は、白雪姫のせいにして、自分の存在意義をなんとか保とうとしたけれど、それは虚しい結果に終わってしまった、、、。

 依存ではなく、自分を確立すること。これが、魔女にならない唯一の道でしょう。

 母親に嫉妬されて苦しんでいる娘は、世の中にたくさんいると思うけれど、彼女たちもある意味、そんな母親に依存しているのです。まずは、その魔女的な母親から自立すること、自分の足で立つことが、苦しみから解放される第一歩だと思うなぁ。

 例の“ディズニー諸悪の根源説”も、今や昔。アナ雪では、♪ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの~~、と歌っている。隔世の感がありまする。











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白雪姫、スノーホワイト、、、、あれこれ ~その②~

2016-08-29 | 映画雑感
 その①のつづきです。


◆白雪姫の主役は、実母である魔女
 
 さて、そんなダークな白雪姫のお話ですが、その世界観を形成しているのは、白雪姫が猟師に連れ込まれた広くて深い森や小人の家といった環境要素が5%、7人の小人の存在そのものが5%、残りの90%は魔女、、、というのが、私の勝手なイメージです。

 そう、このお話は、白雪姫orスノーホワイトというタイトルがついていますが、主役は実母である魔女です。というか、白雪姫とは、魔女の物語であり、白雪姫の物語ではないと思うのです。だって、白雪姫自身、話の中で何もしていないですもん。

 まあ、、、こういうハナシについては、これまでさんざん、女性学においてジェンダーの視点から語られておりまして、今回“白雪姫&フェミニズム”というワードで検索を掛けたら、案の定ありました。ジェンダーから見るおとぎ話のお姫様を斬った『お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(若桑みどり著、ちくま新書)、いわゆる“フェミ本”批判のブログ記事が。私は当の書籍を読んでおりませんが、なるほど、批判を書かれたブログ主さまがツッコミを入れたくなる分析が多々あったようですね、、、。

 まあ、単純化すると一般大衆にはウケやすいのでこういう書き方をしたのでしょう、著者は。でも、こういうことをやってるからフェミは攻撃されるんです。脇が甘いというか。


◆童話の功罪

 ただ、ブログ主さまの主張と思われる“ただのオハナシだと、どーして受け止められねーんだ、おめぇら”、というのには、一応、反論を。

 そう、これは童話。ただの童話。元はといえば民話。ただの民話、、、? え? ただの? 民話ってのは、人々の暮らし、風習から自然発生的に生まれたものである以上、そこには人間の営みに根差したお話であって、ただのオハナシと片づけられるものじゃないんですよねぇ。これが厄介なのです。

 確かに、フェミ的な切り方である“お姫様信奉”には、それこそバイアスが掛かっておりまして、ミイラ取りがミイラになっている感がありますけれども、なぜ、オハナシとして聞き流せないかというと、何より、これが童話だからです。こういうオハナシを思考が固まらぬ幼少期から繰り返し聞かされることで、“刷り込み”が起きるのは火を見るより明らかでしょう、今の社会のありようを見れば。

 ちょっと昔、アメリカのTVドラマ『アリー my love』で、アリーとルームメイトのレネが暖炉の火でマシュマロをあぶりながら話しておりました。

アリー「ねぇ、何で? 何で女って結婚にこだわるんだろ。何で?」
レネ「洗脳されてるの。子どものころ読んでもらったのは、白雪姫、シンデレラ。どれも男に見初められたり助けられておしまい。最近だと、リトルマーメイドにアラジン、ポカホンタス。男をモノにしておしまい」
アリー「てことは、女を毒してるのは、あの……」
レネ「ディズニー!!」

 これ、結構、的を射ていると思うのですよねぇ。アリーは、毒されているのが女だけだと言っているけど、男もそうだと思います。ディズニーに限らずですが、「(王子様と)結婚して幸せに暮らしましたとさ。おしまい」というオハナシの終わり方を、念仏のように聴かされては、そら、洗脳されますわ。

 だから、ただのオハナシで済ませられないと思っちゃうのね、女性学を齧った人間としては。そもそも、結婚してからの方が現実は大変なことの方が多いわけで。おとぎ話でそんな現実にヴェールを掛けちゃって良いのか、という見方もありますし。

 男も女も、ディズニー(だけ)で毒されているわけではなく、そういう社会の風潮に、もう知らず知らずのうちにどっぷり毒される。気がついたころには、中毒状態。ここから毒を抜くのは容易でないのは、これまた、現実の社会を見れば明らか。、、、まあ、一昔前よりはマシになったのかも知れませんが、まだまだこの猛毒ははびこっていると思いますねぇ。


◆ジェンダーは過激思想ではない

 男も女も一緒だーー! と、本来のジェンダーは言っているのではありません。いつぞや国会で性教育本を取り上げてお怒りだった議員がいましたけれども、あれはジェンダーではありません。“性別による社会的役割分業”をなるべく減らしましょう、というのが趣旨であり、生物的に差異があるのは前提です。この辺を、フェミ自身も踏み外している人々が多いので、目の敵にされがちなのですよねぇ、悲しいことに。

 まあ、しかし、世の中が変わりつつあるのを肌で感じている筆頭が、当のディズニーかも。最近のヒロイン像は、もはや男に助けられるだけでおしまいのお姫様ではありませんものね。そんなヒロインを描いていてはウケない、と分かっているのだと思います。

 実際、ステキな男(がいるのかどうかは別として)と結婚して、メデタシメデタシなんて、ウソ臭すぎる世になっているのよね、現実が。

 大体、ステキな男って、何でしょうか。逆に、ステキな女ってどんなんでしょうか?

 白雪姫ってステキな女ですか? 美しい女であればステキな女とは限らないでしょう。少なくとも、物語の中の白雪姫は、7人の小人に何度注意されても魔女の罠に引っ掛かるという、かなりオツムの弱そうな女です。これが果たしてステキな女なのか。

 王子様だって、ステキな男でしょーか? 白雪姫の死体に一目惚れして、棺ごと運ぶんですよ? ネクロフィリア、かつロリコン、、、と言っては夢がなさ過ぎ? ハッキリ言って気持ち悪いと、私は子ども心にちょっと思ったんですけど、この王子様、、、。いえ、ネクロ……なんて言葉はもちろん知りませんでしたけれども。

 まあ、そう考えると、今回見たポルノ白雪姫は、あながち元のオハナシの要素を外しているとは言い切れないのかも、、、。頭悪そうな白雪姫と、変態王子様のセックス。他の要素はまるで見当たりませんケド、、、。


その③につづく)





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白雪姫、スノーホワイト、、、、あれこれ ~その①~

2016-08-24 | 映画雑感
◆『スノーホワイト 白雪姫の純潔と妖艶の女王』

 今回、送られてきたDVDのうち1枚を先日見たのですが、これが、ビックリなことに、ポルノだったのです。TSUTAYA DISCASでレンタルしているので、ポルノは別枠のはずなんですが、、、。

 で、何を見たかと言いますと、『スノーホワイト 白雪姫の純潔と妖艶の女王』であります。これ、どうしてリストに入れたのか記憶はないのですが、多分、レアものだったので、きっと隠れた名作か何かだと勝手に思い込んだのだと思われます。ほとんどの場合、借りる作品の情報は、あんまり詳しくチェックしないので。でも、後からジャケ画像見たら、確かに、ちょっとそれっぽい感じではありました。

 白雪姫のストーリーを借りてはいますが、ほとんどがHシーンでして。最初は、「むむ?? この後、どんな展開??」と5分くらい見ていたんですが、延々セックスシーンで、ちょっと、ウンザリして来たので早送りしたんですけれども、セリフがあってストーリーが展開(?)するのは、4シーンくらいかなぁ。あとは延々、、、。飽きるよ、これじゃ。

 なので、102分の作品ですけど、30分くらいで見終わってしまいました。ハハハ。

 白雪姫や魔女の衣装からは、どう見ても、ディズニーアニメ版のそれ。そのイメージを見る者に与えつつ、映像ではセックスシーンを延々映す。このギャップですかね、大人としての楽しみは。 


◆映画と、BD「ピノキオ」(ヴィンシュルス著)との共通項

 、、、というわけで、映画については、あんまし書くこともないので(大体、早送りの連続じゃぁ見たとは言えないし……)、今回は、ちょっと「白雪姫」について色々と考えてみました。

 というのも、本作を見て、ある絵本をまた読みたくなって引っ張り出したんです。その絵本とは、「ピノキオ」(ヴィンシュルス著、原正人翻訳、小学館集英社プロダクション)。絵本というよりマンガ、BDです。

 余談ですが、この著者のヴィンシュルス、本名はヴァンサン・パロノー。あの『ペルセポリス』や『チキンとプラム』をマルジャン・サトラピと監督・脚本した映像作家です。『チキンとプラム』はイマイチでしたが、『ペルセポリス』はなかなか良かったし、まあ、マルジャン・サトラピの原作が好きだというのもありますが、このパロノー氏も注目人物だな、と思っていたところへ、この絵本が発売になり、迷わず入手しました。

 本の詳細は、リンク先をご覧いただけば良いのですが、まあ、とにかく、このヴィンシュルスは、天才です。こんなブラックな世界を、ここまで究めて描けるなんて、ホント、信じられません。もちろん、子どもに見せられる絵本じゃありませんし、好き嫌いがハッキリ分かれると思いますが、ハマる人にはどツボな作品だと思います。

 余談はさておき、なぜ、白雪姫なのにピノキオか、というと、リンク先をご覧いただけば分かると思いますが、白雪姫が出てくるんです、このマンガの中に。それも、もう、とんでもないオハナシになって、、、。まあ、ピノキオ自体がとんでもないことになっていますし、このBD自体がもう、、、ぶっ飛んでいるんですけど。

 映画を見て、“セックスの対象としてしか描かれていない白雪姫”という共通項で、このBDを思い出したのです。ご興味のある方は是非。図書館でも借りられます(というか、少なくとも私の居住する自治体の図書館には開架で置かれています。置いていない所もあるとは思います。内容が内容なので、、、)。


◆「白雪姫」がモチーフの作品群

 思えば、白雪姫をモチーフにした映画ってたくさんありますよねぇ。私はその多くを見てはいませんが、見たのは、1997年の『スノーホワイト』(シガニー・ウィーバー主演、マイケル・コーン監督)と、2012年の『ブランカニエベス』(スペイン映画)の2本くらい。

 97年版は、劇場で見たのに内容を全くと言っていいほど覚えていない。ただ、ものすごくダークな世界観で、ひたすらシガニー・ウィーバーが怖かったのだけは覚えています。

 『ブランカニエベス』は、白雪姫をベースにしていますが、救いのない悲劇です。大人のダークファンタジーですかね。モノクロで映像がとても美しく、音楽も良くて、これも劇場に見に行ったんですが、わざわざ劇場に行った甲斐があったと思いました。

 その他にも、最近では、シャーリーズ・セロンが出演している、『スノーホワイト』シリーズとかもありますよねぇ。評判はイマイチですけれど。ポスター画像の印象からだと、明るい戦闘系のようで、あまりダークな世界観ではなさそうな、、、。ちょっと食指が動かないですねぇ、、、。


◆白雪姫=ダークな世界

 元ネタの白雪姫のお話ですが、まあ、一般的にはディズニーアニメが下敷きにしたグリム童話が普及版といったところでしょうか。グリム童話はそもそもが民話をグリム兄弟が再話したものですから、実は、白雪姫と似た話は民話レベルには数多あるようです。こちらの素晴らしいサイトに色々な白雪姫の源流であるお話が掲載されています。

 大昔、「グリム「初版」を読む」(吉原高志・素子著、白水社)という本を読んだのですが、白雪姫のお話については、私はほぼ初版の内容と同じものを子どもの頃に英語教材で聞いていましたので、驚きはありませんでした。この本が上梓されて以降、“怖い童話ブーム”が巻き起こったわけですが、グリムに限らず、童話は結構エグいことは、確か高校の授業でも習いましたし、なぜ今さらブーム? と思ったものでした。

 初版を読んでみると、そもそも白雪姫はダークな世界観です。魔女は白雪姫の実母ですし、そもそも、白雪姫が生まれたいきさつも、実母が雪の降る日に、黒檀の窓辺で裁縫をしていてうっかり針で指を突いたら、雪に赤い血が3滴落ち、それを見た実母が「雪のように(肌が)白く、黒檀のように(髪が)黒く、血のように赤い(頬と唇の)女の子が欲しい」と思い願った、、、、というもの。このセリフが鮮烈ではありませんか。

 それに、このエピソードに王様の存在などまるでありません。子ども心に“処女懐胎か?”と思ったものです。

 白雪姫の方が美しいと鏡に宣告された後、猟師に白雪姫を森に連れて行き殺し、心臓を持って帰って来い、と命じる実母ですが、この森のイメージがとんでもなく暗くて怖いです。そして、たどり着くのが7人の小人の家。ディズニーアニメでは可愛い小人の絵でしたが、私が英語教材を聞いて連想した小人のイメージは、『ブランカニエベス』に出てきたそれに近い。だから、怖い。

 ラストの魔女の最期は、熱く灼かれた鉄の靴を履かされて、炎に包まれて踊り狂って死ぬ、、、のです。想像すると恐ろしい光景じゃないですか? しかも、白雪姫の婚礼の場で、ですよ? えげつない&グロいことこの上ない。

 英語教材でこの話を聞いたのは、小学生の頃でしたが、結構ショッキングでしたね。それまでは、改訂された白雪姫を聞かされていたわけですから。

 そういう意味では、シガニー・ウィーバー版の映画は、結構、私のイメージする白雪姫のダークさに近いものがありました。なのに、内容を覚えていないとは、、、。今度DVDで再見してみようと思います。

その②につづく)




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『絞殺』についての考察

2016-02-02 | 映画雑感
 昨日レビューをアップした後、なぜかふと思いました。

 新藤監督が、あそこまで勉についての描写を表面的にした理由ですが、、、。もしかすると、あれは、両親の見ていた勉だったのかな、と。両親といっても、父親目線の方が強いかな、、、。

 つまり、それくらい、あの親たちは我が息子のことをちゃんと両目を見開いて見ていなかった、ということなのではないか。

 食事のシーンで勉がずっと後姿だったのも、親たちは勉の顔を見ているようで見ていなかった、、、とか。

 ブレッソンの『やさしい女』を思い出したんです。あれも、夫が自殺してしまった妻のことをゼンゼンちゃんと見ていなかった作品だったんですが、それを、飽くまで夫目線でのみ描くことで、見事に表現していたんですよねぇ。生前の妻の行動は謎だらけだし、脈絡がないように一見感じるのだけれども、実は、その行間を想像すると、妻は妻なりに足掻いていたことがぼんやりと分かる気がして来るし、それよりも強く見ている者に伝わってくるのは、いかに夫が妻のことを自分の都合の良いようにしか見ていなかったか、ということ。そう、夫目線で描くことで、夫が妻をどう見ていたかが浮き彫りになっていたのでした。

 、、、ということが、なぜだか、昨夜、拙記事をアップした後に、ふっと頭に浮かんだのでした。であれば、本作もそうなのかも、、、と。

 そう考えると、割と腑に落ちる気がしたのです。手練れの新藤監督です。私が疑問に思うまでもなく、勉の描写については十分考察されたはず。その結果があれだとすると、なるほど、あれは親の見ていた勉だったのだ、と。

 ただ、そうすると、矛盾も出ては来るんですけれど。勉と初子の描写とかね、、、。もしかすると、バッサリなくても良い設定だったかもしれません。むしろ、その方が、もっとダイレクトに、親目線であることが見ている者に伝わって来たのではないか、、、。

 勉の親父が、何度か口にするセリフがあります。「何だ、親に向かって!!」、、、これ、私も何度も母親に言われましたが、こういうことを繰り返し言う親は、どうして我が子にそんなことを言われたりされたりするのか、我が身を省みる、という視点がすっぽり欠落しているのですよね。だから、「親に向かって」なんていう、身も蓋もない言葉が出て来てしまう。しかもなんのためらいもなく。

 結局、こういう親は、自分の“願望”もしくは“思い込み”というフィルターを掛けて我が子を始め、周囲を見ているので、現実がきちんと見えていないことが多いのだと思います。そのフィルターを外す、ということに思いが至らない。もっと言えば、自分がそういうおかしなフィルターを通して物を見ていることにさえ気付いていない。

 とはいえ、実際の“開成高校生絞殺事件”の一家がそうだったのかは分かりません。根深い何かがあったのは間違いないでしょうが、親がきちんと子どもと向き合っていなかったとは言い切れません。大抵の親は、子どもに良かれと思って頓珍漢なことをしてしまうこともある訳で、子どもの性格も大きく作用するし、親がああだから子がああなっても仕方ない、的に、本作を見て納得してしまうのは危険だな、とも思います。

 いずれにせよ、何となく本作に対する感想が、ちょっとだけ変わったので、書き記しておこうと思いました。





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