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堂島薬師堂 聖徳太子の建てられた堂島の語源となったお堂

2016年03月17日 22時22分02秒 | 大阪鉄道病院

堂島薬師堂

大阪市北区にある薬師堂で、堂島の地名の由来になったと言われています。1999年元の位置である大阪駅南の桜橋交差点のさらに南にある堂島アバンザの庭園内に再建され、ミラーガラスと石で構成された現代的なビルと調和を図れるモダンなデザインのお堂になりました。

堂島は明治時代まで堂島川と曽根崎川(シジミ川)に挟まれた中洲の島で、薬師堂のある島なので「堂島」の地名になったと言われます。

堂島薬師堂のある直ぐ北にある東西の通りが堂島上通り、さらにその北にある東西の通りが新地本通りで、この2つの通りに囲まれたところに曽根崎川(シジミ川)が流れていました。

そもそも聖徳太子が四天王寺創建時、暴風雨で難破した建築用木材の運搬船が流れ着いたところに堂を建てたのが堂島薬師堂の起源と伝わっています。推古天皇の御代の693年のことです。沖合を航行する船からはっきりと見えるランドマークとなってたようでした。

 さらに時代が下り、1685年豪商でもあり、幕府の御用商人、土木家でもあった河村瑞軒により、曽根崎川(シジミ川)と安治川の大改修を行い、堂島新地、曽根崎新地を開き、大阪の東北天領米の一大集積地としての確立、その後の米会所などのなにわの大発展の元を築いたことで、大阪の恩人と呼ばれているそうです。安治川とは旧淀川の本流の大川が中之島で堂島川と土佐堀川に分かれて下流で合流した後の川の事でが、改修前は、浅瀬と多くの州に分かれて氾濫しやすく、大きな船の航行の妨げにもなってたそうです。河村瑞軒は、九条島を、大きく、削掘し、安治川を深く、幅の広い直線的な川筋にしたそうです。その時の掘り起こした土砂で盛り土して作ったのが波除山だったそうです。出来た当時は20メートルの標高だったとか。その後は、淀川の氾濫も収まり、西廻り航路からの千石船の往来も余裕で出来るようになったそうです。船は弁才船と言われ、ヨットのように帆の位置で横風、逆風でも前進出来たそうで、最大のものは2500石の米の積載可能なものも作られているそうです。

河村瑞軒は、三重県南伊勢町(南島町)東宮の出身で、僕の出身の南島町贄浦とは隣村になります。すごく親しみを感じます。南島町は平家の落人の集落が点在しており、伊勢からは本当険しい山道を通らないとたどり着けない陸の孤島のような地域でした。

また、東廻り航路と西廻り航路を開拓したことでも有名です。これは、江戸に天領からの年貢米を大量に安全に運ぶ大型船の航路を確立したのです。風向き、浅瀬の位置とか詳細に地元の漁師、船頭から情報かき集めて大成したそうです。山形は米どころの天領で、その酒田港が出発港です。内陸へは、さらに最上川を使います。最初は、津軽海峡経由の東廻り航路、そのあと下関、大阪経由の西廻り航路の開設です。特に大阪には最盛期には150万石の米倉が堂島にあったそうです。のちに、世界に先駆けた米の先物取引が盛んになったのも有名な話です。この河村瑞賢の銅像は酒田の日和山公園にあるものですが、酒田の大発展に大きく寄与した恩人ということで建てられたそうです。銅像はあと郷里の三重県南伊勢町東宮の河村瑞賢公園にも建てられています。

戦後、毎日新聞大阪本社の社屋拡張により薬師堂は、一時東方へ移転しましたが、堂島アバンザ建設にあたり、元の土地へ戻りました。明治44年にも近くに移転されましたが、その移転時には、工事関係者が次々と謎の死を遂げ祟りも噂されたそうです。

堂内には薬師如来像(室町時代作)のほか、地蔵菩薩像、弘法大師像などが安置され、節分の日には厄払いと鬼追い行事が行われます。あとは月二回の法要がされる程度ですが、かつては明治時代に始まった大阪大師詣りの行事では1番札所として1日数十万人の人出で賑わったこともあるそうです。すごいですねー。よるのイルミネーションは上記の行事の時と夜のキタ まちあかり探検イルミネーションで午後5時から午後11時まで年末から2月3日までされてたそうです。残念。写真のイルミネーションはホームページからお借りしたものです。

逸話ですが、堂島薬師堂の東となり移設前の鳥居とその奥に古い建物が残っていて現在はやきとり屋になってるとか。

桜橋交差点の少し西北にはブリーゼタワービルとその前に桜橋ボーリング場があります。





 

 


 



 

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