油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

晩秋に、伊勢を訪ねて。  (11)

2020-03-04 13:15:33 | 旅行
 せがれのいびきは、夜を徹してつづくよう
に思われた。
 これはかなわん、なんとかしずめる方法は
なかろうか、と、せがれの鼻をいくどかつま
んでみる。
 すると、何を勘違いしたのか、せがれはに
こっと笑った。
 わたしのほうに、両手をのばしてくる。
 こりゃしくじった。彼の夢にまでわたしが
立ち入ってしまってはならぬ。
 そう思い、わたしは彼のいびきをとめるの
を断念した。
 せがれは今では、立派な中年男。
 しかし親からみれば、子は子である。
 彼がいくつになろうと、手塩にかけた日々
を忘れることができない。
 眠っていたって、こんないたらないわたし
を頼りにしてくれているんだ。
 熱い想いがひとかたまりになって、こころ
の奥底からわきあがって来る、
 それがのどのあたりでつかえ、胸がいっぱ
いになった。
 就寝中、その人の意識はどうなっているの
だろう。大脳生理学の見地からすると、細か
く説明がつくのだろう。
 「寝言に返事をしてはいけないよ」
 先年、鬼籍に入った母がよく言っていた。
 それはどうしてだろう。
 その疑問は、いまだにわたしの脳裡にこび
りついて離れない。
 眠っている人はもちろん、起きがけの寝ぼ
けまなこでいる人を、むやみに驚かしてはい
けないのは、わかりそうな気がする。
 驚きが、なにか、彼の大切な何かを奪って
しまいそうだ。
 人は夢うつつの世界にいるとき、彼の意識
は、こころの深い海で漂っているようなもの。
 あまりにびっくりさせると、命綱が中途で
切れてしまい、二度と水面に浮かんでこれな
くなる。
 潜在意識にかかわることなのかもしれない。
 過ぎ去ってしまい、はるか遠くになった若
き日をふり返る。
 せがれを追いつめたのは、未熟なわたしで
はなかったのか。
 彼に対して放った言葉が、つぎつぎとよみ
がえってきて、いたたまれなくなった。
 どうせ眠れないなら夜景でも観ていようと
思い、わたしは立ち上がった。
 ふとんに入る前に考えたことを、不意に思
い出し、背筋がひやりとする。
 枕もとの塩をラップから取り出し、左の手
のひらに盛った。
 右手で塩を少しだけつまみ、浴衣の胸にふ
りかけた。
 寝室のふすまを開け、浴室につづく廊下を
歩きはじめた。
 スリッパの音が、やけに耳奥で響く。
 浴室のドアは、閉ざされている。
 中に、だれかがいるはずもない。
 わたしの胸が高鳴る。
 不意にコーンと桶がどこかにぶつかる音が
して、わたしはぎょっとした。
 ザザザッと水音がつづいた。
 黒い人影が浴室内で動く。
(わるい夢でも観ているのだろう)
 わたしはそう思い、ベランダにつづくドア
を開けた。
 ひんやりした空気が、顔にふれる。
 小さな卓をはさんで、席が向かい合わせに
なっている。
 わたしは手前の席にすわり、向かいの席を
じっとみつめた。
 そこに、ホテルの浴衣を着た、ひとりの中
年の男の姿があった。
 やつれた顔。
 しばらく剃っていないのか、顔じゅう、髭
だらけである。
 「さぞ、お疲れでしょう」
 わたしが問うと、彼はひと呼吸おいてから、
ふうっとため息を吐いた。
 「ううん」
 とうなり、猫のように背伸びをした。
 彼の瞳の奥で青白い炎がちろちろ燃える。
 突然、大きな足音がして、ドアが開いた。
 ベランダの空気が、急激に圧縮される。
 一瞬で、わたしの眼の前にいた旅人が姿を
消してしまった。
 「お父さん、ま夜中だよ。なのになんでこ
んなところにいるんだ」
 せがれの剣幕に気おされ、わたしは一言も
発することができない。
 「おれのいびきのせいか?」
 わたしは何とも答えられない。
 ほとんと泣き顔になり、あわわわっと悲鳴
に似た声を発した。
 
 
 
 
  


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする