朝起きると隣のふとんが空っぽ。
風呂好きのせがれのこと。部屋の浴槽にで
もつかっているんだろう、とわたしは勝手に
思い込んでしまった。
せがれのいびきやお化けさわぎでゆうべよ
く眠れなかった頭のまま、浴室に行こうとし
て、その扉の少し前で立ちどまった。
結局、わたしは扉はあけなかった。
真向かいの洗面所で顔を洗いながら、浴室
の様子をうかがうことにする。
ことり、ともしない。
なんとなく背中がぞくそく。
(おまえは生来の小心者。だから何でもな
いことに、からだが反応するんだろう)
わたしは鏡に映った自分に向かって、そう
言い、不安にかられ、いらだつ気持ちを、少
しでも落ちつかせようとした。
「男はね。六十五を過ぎてからの老化がき
わだってくるんですよ。髪の毛が極端に少な
くなるのも、そのあたりからです」
いつだったか、ある床屋さんがわたしにそ
う言った。
じっくりと鏡の中の自分を観る。
その頭の上のほうに、今問題にしている浴
室のドアの一部が映った。
わたしはちらっとそれを眺め、すぐに目を
そらした。
思った通り、胸がどきどきしはじめたので、
ああ見なけりゃよかったものを、と悔いた。
だが、もう遅い。
思わず、わたしは目を閉じ、右手で水道の
蛇口をさがした。
ようやくにして、水を落とす。
それから次第に水量をふやした。
両手いっぱいに水を受け、何度も何度もね
ぼけ顔にたたきつけた。
おかげで、それまでのぼんやりした気分が
しゃっきりしたが、顔じゅうひげだらけ。
旅行前あれやこれやで忙しく、二、三日剃っ
ていなかったのである。
ちょっとは男前にして、うちに帰らないと、
かみさんの繰り言を、またしても聞くことは
めになってしまう。
「髪の毛も切らないし、そのひげづら。あ
んたはそれでいいでしょうよ。だけど、嫁さ
んがいるのにって、わたしが世間に笑われる
んよ」
といった塩梅である。
灰色に広がったしみや深いしわ。
わたしは鏡にぐっと顔を寄せると、初めて
自分の顔を見るような気持で、詳細にパーツ
をチェックした。
美顔に凝っているかみさんのセリフで表す
とこうなる。
灰色に広がった染みや深いしわ。
これはわたしが数十年強い陽ざしのもとで、
田畑や車の運転などと、懸命に働いてきたあ
かし。
そう思うと、なぜか目じりがうるんだ。
わたしは間もなく、ホテルに備えられてい
る石鹸やかみそりを用い、かみさんがほめて
くれるような、きれいなじじい顔に変身した。
近頃老人に対する世間の評価が、あまりに
低い。
テレビを観れば観たで、やれ加齢臭だなん
だのコマーシャル。あんまりひどいこと言う
んじゃない。
老人という言葉が死語に近い。
年寄りを高齢者と呼び。前期だ、後期だのっ
て、のたまう。
とにかく敬老の精神がない。
年寄り自ら、若者に尊敬されるべく努力し
なけりゃならないのは当然である。
長年積み重ねた知恵で、若者を導いてやっ
てこそ、彼らに尊ばれるんだ。
年取るだけなら猿だってできる。
わたしは、鏡の前で、愚痴っぽく、こんな
セリフを長々と繰り返した。
この日は、旅の最終日。
もう一件、この部屋で解いておかなきゃな
らない課題がある。このままでそれを放置す
るのはあとあと自分のためにはならない。で
ないと、この先旅行を楽しむことができなく
なる。
わたしは勇気を奮い起こし、もうひとつの
謎に挑戦することにした。
ベランダの椅子に腰かけていたやつれ顔の
男のこと。
あえて洗面所わきのドアを開け、ベランダ
をのぞきこんだ。
がらんとしている。
テーブルをはさんで、空のシートがふたつ
あるだけだった。
カーテンが引いてあっても、ぶ厚いガラス
を通して差しこむ朝の光りが、せまい空間を
温めていた。
そのせいで、ふわんとした雰囲気が漂う。
「お父さん。しょうがないな。まだ寝ぼけ
てるんだ。こんなとこで。早く朝飯を食べに
行こう。遅れてしまうよ」
突然、せがれの声が背後で聞こえた。
どうやら彼は、今まで大浴場にいたらしい。
「わるい夢みたいなのを、ゆうべ、いっぺ
んにふたつも見てしもてな。ゆっくりさせて
もろたんで、きっと日頃の疲れが出たんやろ」
思わず、わたしは関西弁でしゃべった。
幻をみたのは、自分の疲れのせいが原因。
そういうふうにすることで、この場面をう
まく乗り切ることができた。
せがれの健康を、なんとかして、とりもど
すこと。それが旅行の目的。
どこにでもある、旅館やホテルの幽霊ばな
しにつきあってなぞ、いられなかった。
風呂好きのせがれのこと。部屋の浴槽にで
もつかっているんだろう、とわたしは勝手に
思い込んでしまった。
せがれのいびきやお化けさわぎでゆうべよ
く眠れなかった頭のまま、浴室に行こうとし
て、その扉の少し前で立ちどまった。
結局、わたしは扉はあけなかった。
真向かいの洗面所で顔を洗いながら、浴室
の様子をうかがうことにする。
ことり、ともしない。
なんとなく背中がぞくそく。
(おまえは生来の小心者。だから何でもな
いことに、からだが反応するんだろう)
わたしは鏡に映った自分に向かって、そう
言い、不安にかられ、いらだつ気持ちを、少
しでも落ちつかせようとした。
「男はね。六十五を過ぎてからの老化がき
わだってくるんですよ。髪の毛が極端に少な
くなるのも、そのあたりからです」
いつだったか、ある床屋さんがわたしにそ
う言った。
じっくりと鏡の中の自分を観る。
その頭の上のほうに、今問題にしている浴
室のドアの一部が映った。
わたしはちらっとそれを眺め、すぐに目を
そらした。
思った通り、胸がどきどきしはじめたので、
ああ見なけりゃよかったものを、と悔いた。
だが、もう遅い。
思わず、わたしは目を閉じ、右手で水道の
蛇口をさがした。
ようやくにして、水を落とす。
それから次第に水量をふやした。
両手いっぱいに水を受け、何度も何度もね
ぼけ顔にたたきつけた。
おかげで、それまでのぼんやりした気分が
しゃっきりしたが、顔じゅうひげだらけ。
旅行前あれやこれやで忙しく、二、三日剃っ
ていなかったのである。
ちょっとは男前にして、うちに帰らないと、
かみさんの繰り言を、またしても聞くことは
めになってしまう。
「髪の毛も切らないし、そのひげづら。あ
んたはそれでいいでしょうよ。だけど、嫁さ
んがいるのにって、わたしが世間に笑われる
んよ」
といった塩梅である。
灰色に広がったしみや深いしわ。
わたしは鏡にぐっと顔を寄せると、初めて
自分の顔を見るような気持で、詳細にパーツ
をチェックした。
美顔に凝っているかみさんのセリフで表す
とこうなる。
灰色に広がった染みや深いしわ。
これはわたしが数十年強い陽ざしのもとで、
田畑や車の運転などと、懸命に働いてきたあ
かし。
そう思うと、なぜか目じりがうるんだ。
わたしは間もなく、ホテルに備えられてい
る石鹸やかみそりを用い、かみさんがほめて
くれるような、きれいなじじい顔に変身した。
近頃老人に対する世間の評価が、あまりに
低い。
テレビを観れば観たで、やれ加齢臭だなん
だのコマーシャル。あんまりひどいこと言う
んじゃない。
老人という言葉が死語に近い。
年寄りを高齢者と呼び。前期だ、後期だのっ
て、のたまう。
とにかく敬老の精神がない。
年寄り自ら、若者に尊敬されるべく努力し
なけりゃならないのは当然である。
長年積み重ねた知恵で、若者を導いてやっ
てこそ、彼らに尊ばれるんだ。
年取るだけなら猿だってできる。
わたしは、鏡の前で、愚痴っぽく、こんな
セリフを長々と繰り返した。
この日は、旅の最終日。
もう一件、この部屋で解いておかなきゃな
らない課題がある。このままでそれを放置す
るのはあとあと自分のためにはならない。で
ないと、この先旅行を楽しむことができなく
なる。
わたしは勇気を奮い起こし、もうひとつの
謎に挑戦することにした。
ベランダの椅子に腰かけていたやつれ顔の
男のこと。
あえて洗面所わきのドアを開け、ベランダ
をのぞきこんだ。
がらんとしている。
テーブルをはさんで、空のシートがふたつ
あるだけだった。
カーテンが引いてあっても、ぶ厚いガラス
を通して差しこむ朝の光りが、せまい空間を
温めていた。
そのせいで、ふわんとした雰囲気が漂う。
「お父さん。しょうがないな。まだ寝ぼけ
てるんだ。こんなとこで。早く朝飯を食べに
行こう。遅れてしまうよ」
突然、せがれの声が背後で聞こえた。
どうやら彼は、今まで大浴場にいたらしい。
「わるい夢みたいなのを、ゆうべ、いっぺ
んにふたつも見てしもてな。ゆっくりさせて
もろたんで、きっと日頃の疲れが出たんやろ」
思わず、わたしは関西弁でしゃべった。
幻をみたのは、自分の疲れのせいが原因。
そういうふうにすることで、この場面をう
まく乗り切ることができた。
せがれの健康を、なんとかして、とりもど
すこと。それが旅行の目的。
どこにでもある、旅館やホテルの幽霊ばな
しにつきあってなぞ、いられなかった。