久しぶりの暖かい朝。
紅白の梅を愛でようと、最寄りの高台
にのぼる。
坂道のわきは、山林。
道の先にある墓地を仕切る、お寺さん
の持ち物である。
先だっての愛宕山のお祭りの際、氏子
連が下草を刈った。そのせいで見通しが
すごくいい。
(これだと危険きわまりない猪の姿を、
すぐに発見することができるぞ)
わたしはぐるりと首をまわし、一匹も
いないことを確認してから、ふうっと息
をはいた。
それでも、足どりが重い。
原因をつらつら考えてみる。
先週うちの塾に来てくれた子どもの様
子がおかしかった。
なんとなく、そわそわしていた。
今月の第一週目の授業だった。
四年生の女の子が、もの言いたげな眼
差しで顔をあげた。
いつもより大きく目を見開き、家から
持参した算数の教科書を机にのせた。
彼女は今までに教科書を、一度も持っ
てきたことがなかった。
「どうしたの。きょうは。教科書なん
てめずらしいね」
「うん。だってコロナで学校休みになっ
ちゃったんだもの。勉強、うちでやんな
さいって。学校の先生が」
「へえっ、そりゃ大変」
彼女は、分数のページをゆびさし、
「ここ、ここなの。わかんないのはね。
分数の仲間らしいんだけど、漢字の意味
がわかんないし」
仮分数や帯分数。
それらを初めておそわるらしい。
子どもにとって、解りにくい領域とい
える。
「どれどれ、先生がわかるように、黒
板で説明してあげよう」
「はい」
算数というのは、階段をのぼるように
勉強するようにできている。
まず三年生のおさらいをしてから、先
に進むことにする。
子どもにとって、横棒の上と下に、数
字がのっているのが、なんとも奇妙に思
えるものだ。
最初わたしはりんごの絵をかき、半分
の量や三等分の量を、分数で表そうとし
た。
しかし、りんごの表面が丸いのが気に
なった。
まずいと感じたので、直方体の羊羹を
例にとった。
「ほら、ここに一本のようかんがある。
これを包丁で半分に切る。二等分するっ
ていうことだね」
「はい」
納得がいったようで、彼女の目がぱっ
と輝いた。
「同じ大きさにふたつに分けたひとつ
ぶん。これを二分の一といい、こうやっ
て書くんだ」
ここでわたしは短く横棒をひき、上に
1、下に2と書いた。
「そんなこと三年生のときに習っちゃ
ったもん。知ってるもん」
「そうだね。真分数って言うんだ。じゃ
あ、三分の一ってのは、わかるかな。知っ
てたら黒板に書いてくれる」
彼女は、わたしが彼女に手渡した白い
チョークを右手に持つと、
「こんなの、かんたん、かんたん」
と言い、黒板に三分の一をさらさらと
書いた。
「よし、よくできた」
「こんなの、誰だってできるわ」
「そうかな。じゃあこれはどうだ。三
分の一の量が三つ分では?」
「三分の三。楽勝、楽勝」
「それじゃ、三分の一が四つ分では?」
「三分の四」
彼女は、黒板に、すばやくふたつの分
数を書いた。
「すばらしい」
うれしそうに、彼女は自分の席にもどっ
て行った。
「そこで、だ。三分の三とか、三分の
四とか。ちょっと変だと思わないかい」
ううんっとか、ええっとか言いながら、
彼女は懸命に考え始めた。
「ここで質問。三分の三ってね。ほか
の数字でね、つまり整数なんだけど、そ
れで表すと、どうなるかな」
わたしは黒板に描かれた羊羹をゆびさ
しながら問いかけた。
彼女は小首を傾げた。
ふり向きざま、彼女はすぐ後ろで算数
のドリルの難問に挑戦中だった兄に助け
を求めた。
彼は小声で、ようかん、ひとつぶんだ
よ、と言う。
「わかった先生。一本分でえっす。だ
から、答えはいち。それでいいですか」
「はい、ご名答。じゃあ三分の四は?」
「ひとつ分と、残りは、ええっと三分
の一だから。ええっとええっと」
ここで、わたしはこの量を、一と三分
の一だと言い、黒板に帯分数で表した。
「えっなんだろね。それって」
「これってたいぶんすうって言うんだ。
つまりね。横棒の上の数字(分子)が下
の数字(分母)と同じか、それより大き
い分数を仮分数(かぶんすう)それからね。
整数と真分数でできてるのは帯分数」
「そうなんだ。よくわかりました」
と言い、彼女はほほ笑んだ。
(まだこの子らはしあわせだ。食べるも
のが充分にある。しかし、かの国の子ど
もたちは今、こんなに笑えるだろうか)
それまで坂道の表面ばかり見ていたわ
たしは、ふいに顔を上にあげた。
灰色の雲が、空を半分くらいおおって
いる。それでも、カラスが飛び交ったり
とんびが上空で輪をかいたりしている。
けきょ、けきょけきょと、うぐいすが
鳴きはじめた。
警戒せよ、となかまに呼びかけている
のである。
(人間だけがなあ、まったく。こうもり
やねこを食べるなんてこと、どうしてま
た?そんなものをどうして・・・。ひょっ
としてほかに食べるものがなかったんだ
ろうか)
わたしは古くからなじみのある、隣国
の庶民の生活を思いやった。
「今になってお互いのことを、世界中
で思いやるなんて。もっとずっと前から
そんな具合にできなかったんだろうか」
わたしはそうひとりごちた。
右前方に視線を移した。
紅白の梅が、人間界の騒ぎを知ってか
知らずか、今が盛りと咲きほこっている。
紅白の梅を愛でようと、最寄りの高台
にのぼる。
坂道のわきは、山林。
道の先にある墓地を仕切る、お寺さん
の持ち物である。
先だっての愛宕山のお祭りの際、氏子
連が下草を刈った。そのせいで見通しが
すごくいい。
(これだと危険きわまりない猪の姿を、
すぐに発見することができるぞ)
わたしはぐるりと首をまわし、一匹も
いないことを確認してから、ふうっと息
をはいた。
それでも、足どりが重い。
原因をつらつら考えてみる。
先週うちの塾に来てくれた子どもの様
子がおかしかった。
なんとなく、そわそわしていた。
今月の第一週目の授業だった。
四年生の女の子が、もの言いたげな眼
差しで顔をあげた。
いつもより大きく目を見開き、家から
持参した算数の教科書を机にのせた。
彼女は今までに教科書を、一度も持っ
てきたことがなかった。
「どうしたの。きょうは。教科書なん
てめずらしいね」
「うん。だってコロナで学校休みになっ
ちゃったんだもの。勉強、うちでやんな
さいって。学校の先生が」
「へえっ、そりゃ大変」
彼女は、分数のページをゆびさし、
「ここ、ここなの。わかんないのはね。
分数の仲間らしいんだけど、漢字の意味
がわかんないし」
仮分数や帯分数。
それらを初めておそわるらしい。
子どもにとって、解りにくい領域とい
える。
「どれどれ、先生がわかるように、黒
板で説明してあげよう」
「はい」
算数というのは、階段をのぼるように
勉強するようにできている。
まず三年生のおさらいをしてから、先
に進むことにする。
子どもにとって、横棒の上と下に、数
字がのっているのが、なんとも奇妙に思
えるものだ。
最初わたしはりんごの絵をかき、半分
の量や三等分の量を、分数で表そうとし
た。
しかし、りんごの表面が丸いのが気に
なった。
まずいと感じたので、直方体の羊羹を
例にとった。
「ほら、ここに一本のようかんがある。
これを包丁で半分に切る。二等分するっ
ていうことだね」
「はい」
納得がいったようで、彼女の目がぱっ
と輝いた。
「同じ大きさにふたつに分けたひとつ
ぶん。これを二分の一といい、こうやっ
て書くんだ」
ここでわたしは短く横棒をひき、上に
1、下に2と書いた。
「そんなこと三年生のときに習っちゃ
ったもん。知ってるもん」
「そうだね。真分数って言うんだ。じゃ
あ、三分の一ってのは、わかるかな。知っ
てたら黒板に書いてくれる」
彼女は、わたしが彼女に手渡した白い
チョークを右手に持つと、
「こんなの、かんたん、かんたん」
と言い、黒板に三分の一をさらさらと
書いた。
「よし、よくできた」
「こんなの、誰だってできるわ」
「そうかな。じゃあこれはどうだ。三
分の一の量が三つ分では?」
「三分の三。楽勝、楽勝」
「それじゃ、三分の一が四つ分では?」
「三分の四」
彼女は、黒板に、すばやくふたつの分
数を書いた。
「すばらしい」
うれしそうに、彼女は自分の席にもどっ
て行った。
「そこで、だ。三分の三とか、三分の
四とか。ちょっと変だと思わないかい」
ううんっとか、ええっとか言いながら、
彼女は懸命に考え始めた。
「ここで質問。三分の三ってね。ほか
の数字でね、つまり整数なんだけど、そ
れで表すと、どうなるかな」
わたしは黒板に描かれた羊羹をゆびさ
しながら問いかけた。
彼女は小首を傾げた。
ふり向きざま、彼女はすぐ後ろで算数
のドリルの難問に挑戦中だった兄に助け
を求めた。
彼は小声で、ようかん、ひとつぶんだ
よ、と言う。
「わかった先生。一本分でえっす。だ
から、答えはいち。それでいいですか」
「はい、ご名答。じゃあ三分の四は?」
「ひとつ分と、残りは、ええっと三分
の一だから。ええっとええっと」
ここで、わたしはこの量を、一と三分
の一だと言い、黒板に帯分数で表した。
「えっなんだろね。それって」
「これってたいぶんすうって言うんだ。
つまりね。横棒の上の数字(分子)が下
の数字(分母)と同じか、それより大き
い分数を仮分数(かぶんすう)それからね。
整数と真分数でできてるのは帯分数」
「そうなんだ。よくわかりました」
と言い、彼女はほほ笑んだ。
(まだこの子らはしあわせだ。食べるも
のが充分にある。しかし、かの国の子ど
もたちは今、こんなに笑えるだろうか)
それまで坂道の表面ばかり見ていたわ
たしは、ふいに顔を上にあげた。
灰色の雲が、空を半分くらいおおって
いる。それでも、カラスが飛び交ったり
とんびが上空で輪をかいたりしている。
けきょ、けきょけきょと、うぐいすが
鳴きはじめた。
警戒せよ、となかまに呼びかけている
のである。
(人間だけがなあ、まったく。こうもり
やねこを食べるなんてこと、どうしてま
た?そんなものをどうして・・・。ひょっ
としてほかに食べるものがなかったんだ
ろうか)
わたしは古くからなじみのある、隣国
の庶民の生活を思いやった。
「今になってお互いのことを、世界中
で思いやるなんて。もっとずっと前から
そんな具合にできなかったんだろうか」
わたしはそうひとりごちた。
右前方に視線を移した。
紅白の梅が、人間界の騒ぎを知ってか
知らずか、今が盛りと咲きほこっている。