滋賀県に入った。
(もうすぐ琵琶湖が見えるはず、その湖畔
には彦根のお城も……)
そう思うだけで、種吉のこころは、真綿の
つまったふとんの上で寝ころんでいる気分に
なった。
異郷の地に長く居続けてきたせいだろう。
種吉はいつだって、ふるさとに近づけば近
づくほど胸がわくわくした。
「おとう、このパーキングに寄って行くか
らね。もうすぐお昼だし」
一瞬の沈黙のあとで、
「ああ、いいね」
種吉の返事がはずんだ。
「ねえ、あんた、なんだかうれしそうじゃ
ないの。久しぶりに見たよ。そんな顔」
種吉の真うしろに陣取っていた彼の妻は、ぐ
っと上体を前に倒すようにしていった。
「ひぇ、ああ、びっくりした。でっかいト
ラの首が、立派なひげをたくわえた大きな口
が……」
「なんだって、もう一回いってごらん。あ
んたはいつだって、わたしのこと、そんなふ
うにわるく言うんだね。ちょっと被害妄想な
んじゃないの。あんたのこと、ほんとに思っ
ているのにさ」
「あっ、ごめん。き、きゅうに、首を、前
に突き出すからさ。おどろいたんだ。ひとが
たまにいい気持ちでいるからって、おどかす
なよ」
「おどかしてなんていやしない。いい気持
ち?たまに、かい?うちじゃ、わたしといっ
しょじゃ、いい気持にならないんだね」
種吉はうつむき、黙りこんだ。
あまり素直に、自分の思いを、人前でひけ
らかすものじゃないと反省する。家族の前で
あってもである。
「母ちゃん、ほらほら、もう着いたんだし。
多賀のサービスエリアだって。せっかくみん
なで、旅に出てるんじゃないか。うちにいる
ような気分でしゃべられたんじゃ、おれたち
いやだかんね」
Мがいさめるように、言う。
「ごめん」
「おれがいい気持ち、って言うのはね、ほ
ら見て。あんなに夕焼けがきれいじゃないか。
あれを見てたら誰だって……」
「またごまかして。夕焼けなんて、いくら
でもどこでも見られるだろに、あんた。若い
頃はそんなにおしゃべりじゃなかったのにね。
ここ十年ばかり何やかやとものを書いてきた
せいかぺらぺらと……」
「そんなこと関係ないさ。そう思うんなら
勝手にしな。おれはいつだって平常心さ」
「ふううん。へいじょうしん、か。うまい
言葉知ってるね」
ふいに種吉の腹がグググッと鳴った。
「あんた、おなかで返事するんだ。まった
く正直というか素直というか」
種吉の妻があきれたという表情で、下りる
準備をはじめた。
「ものを書くのがわるいのかな。A中学校
創立五十六年とやらで、PTAから頼まれた原
稿だって、お前の代わりにおれが書いてやっ
たんだよな、忘れたろうけど」
種吉がつぶやいた。
「うん?あんた、なんか、今、聞こえたん
だけど。わたしの空耳かな?」
「おれ、知らないよ」
「あらそう、そりゃ良かった」
車が本線をはずれ、左方向に進入して行く。
急激に速度が落ちた。
まわりの様子が次第に良く見えてくる。
人や車で混んでいる。
Мが白い線で描かれた枠の中に車を入れ、
車のエンジンを停めた。
「さあ、着いたよ。車がどんどん入ってく
るから、気を付けてね。おとうさ、朝昼兼ね
たごはんがおにぎりふたつじゃ、おなかもぺ
こぺこだよね」
Мが種吉に救いの手をさしのべた。
かみさんの両親は、ふた親とも、七十くら
いまで生き、病を得て亡くなった。
祖父母と暮らした経験が、種吉の三人の子
どもを優しくしたようだ。
Мの兄たちふたりは、弟にまかせっきり。
どうやら一目置いているようだ。彼がしゃ
べっている間じゅう、ずっと黙っていた。
(はてさて、ここでのコロナ対策をどうする
か。満員の飲食店にだけは、絶対に入るわけ
にいかないぞ)
種吉はそう決心した。
(もうすぐ琵琶湖が見えるはず、その湖畔
には彦根のお城も……)
そう思うだけで、種吉のこころは、真綿の
つまったふとんの上で寝ころんでいる気分に
なった。
異郷の地に長く居続けてきたせいだろう。
種吉はいつだって、ふるさとに近づけば近
づくほど胸がわくわくした。
「おとう、このパーキングに寄って行くか
らね。もうすぐお昼だし」
一瞬の沈黙のあとで、
「ああ、いいね」
種吉の返事がはずんだ。
「ねえ、あんた、なんだかうれしそうじゃ
ないの。久しぶりに見たよ。そんな顔」
種吉の真うしろに陣取っていた彼の妻は、ぐ
っと上体を前に倒すようにしていった。
「ひぇ、ああ、びっくりした。でっかいト
ラの首が、立派なひげをたくわえた大きな口
が……」
「なんだって、もう一回いってごらん。あ
んたはいつだって、わたしのこと、そんなふ
うにわるく言うんだね。ちょっと被害妄想な
んじゃないの。あんたのこと、ほんとに思っ
ているのにさ」
「あっ、ごめん。き、きゅうに、首を、前
に突き出すからさ。おどろいたんだ。ひとが
たまにいい気持ちでいるからって、おどかす
なよ」
「おどかしてなんていやしない。いい気持
ち?たまに、かい?うちじゃ、わたしといっ
しょじゃ、いい気持にならないんだね」
種吉はうつむき、黙りこんだ。
あまり素直に、自分の思いを、人前でひけ
らかすものじゃないと反省する。家族の前で
あってもである。
「母ちゃん、ほらほら、もう着いたんだし。
多賀のサービスエリアだって。せっかくみん
なで、旅に出てるんじゃないか。うちにいる
ような気分でしゃべられたんじゃ、おれたち
いやだかんね」
Мがいさめるように、言う。
「ごめん」
「おれがいい気持ち、って言うのはね、ほ
ら見て。あんなに夕焼けがきれいじゃないか。
あれを見てたら誰だって……」
「またごまかして。夕焼けなんて、いくら
でもどこでも見られるだろに、あんた。若い
頃はそんなにおしゃべりじゃなかったのにね。
ここ十年ばかり何やかやとものを書いてきた
せいかぺらぺらと……」
「そんなこと関係ないさ。そう思うんなら
勝手にしな。おれはいつだって平常心さ」
「ふううん。へいじょうしん、か。うまい
言葉知ってるね」
ふいに種吉の腹がグググッと鳴った。
「あんた、おなかで返事するんだ。まった
く正直というか素直というか」
種吉の妻があきれたという表情で、下りる
準備をはじめた。
「ものを書くのがわるいのかな。A中学校
創立五十六年とやらで、PTAから頼まれた原
稿だって、お前の代わりにおれが書いてやっ
たんだよな、忘れたろうけど」
種吉がつぶやいた。
「うん?あんた、なんか、今、聞こえたん
だけど。わたしの空耳かな?」
「おれ、知らないよ」
「あらそう、そりゃ良かった」
車が本線をはずれ、左方向に進入して行く。
急激に速度が落ちた。
まわりの様子が次第に良く見えてくる。
人や車で混んでいる。
Мが白い線で描かれた枠の中に車を入れ、
車のエンジンを停めた。
「さあ、着いたよ。車がどんどん入ってく
るから、気を付けてね。おとうさ、朝昼兼ね
たごはんがおにぎりふたつじゃ、おなかもぺ
こぺこだよね」
Мが種吉に救いの手をさしのべた。
かみさんの両親は、ふた親とも、七十くら
いまで生き、病を得て亡くなった。
祖父母と暮らした経験が、種吉の三人の子
どもを優しくしたようだ。
Мの兄たちふたりは、弟にまかせっきり。
どうやら一目置いているようだ。彼がしゃ
べっている間じゅう、ずっと黙っていた。
(はてさて、ここでのコロナ対策をどうする
か。満員の飲食店にだけは、絶対に入るわけ
にいかないぞ)
種吉はそう決心した。