午後七時、示し合わせた二荒山神社前で、修
は洋子と合流した。
人通りの多いオリオンは使わず、釜川沿いの
小路を行くことにする。
目指すは、東武百貨店付近の喫茶店、あるい
はバー。どちらにするかは、洋子の気持ち次第
と心に決めた。
春の宵とはいえ、辺りは暗い。
ビルとビルの谷間。
イヴェント帰りなのか、あちこちに若者が寄
り集まり、すわりこんで何やら話し込む。
「ここってね、あたし、一度も歩いたことあ
りませんわ」
洋子が心細そうな声をだす。
時折、ザバッと音がする。
きゃっと叫んで、洋子が修の体にしがみつい
てきた。
「いったいなによっ、なっ、なんでしょうね、
あの音って?」
くだけた言い方を、あわてて訂正する。
修は、相好をくずし、
「知らないの?この堀にま鯉がいるのって」
「ええ、まったく、知りませんでした。いっ
つも、オリオン通りを歩きますし……」
言葉じりは丁寧だが、さっき両手でつかんだ
修の右腕を放そうとはしない。
「きみの住まいってこの街の郊外でしょ。だ
ったら、幼い頃からこの辺は馴染んでいるはず
なんだが」
修はちらりと洋子の顔を見た。
「それは確かにそう。でもね、私は郊外のま
ずしい農家の娘です。両親がせっせと畑仕事を
しているのを見て、育ちました」
洋子はうらめしく感じた時にするまなざしを
修に向ける。
しかし、その表情はやわらか。
ゆっくり、ふうと息を吐いてから、
「男の子みたく、お魚には興味ありませんで
したし、母といっしょに歩きながらね、お店に
並んでる洋服や靴に夢中でしたわ」
と言い、幼子のようにはにかんでみせた。
「今だって、ときどきは来るんでしょ」
「もちろんですわ。デパ地下が、あたし、大
好きなんです」
ふいに修は首をまわし、最寄りのビルの陰影
をながめた。
思いのほか簡単に洋子は修の誘いにのり、お
任せしますという風情で、彼の指示に従って
くる。
現代女性ってとことん、じぶんを主張して
譲らないことが多いのにと、修は思う。
例えば彼女たちの車の運転。
修の方に、当然、優先権があるのにもかか
わらず、強引にわりこんでくる。
しかし、当然のように、修は彼女らに合わ
せる。
正当性をつらぬいたら、間違いなくジコっ
てしまうと思うからだ。
現代っ子らしからぬ洋子の態度は、修には
不可思議だった。
古風。
その言葉が洋子にはぴったり。
三歩さがって師のかげを踏まず。
いや、ひょっとしてそれ以上かもしれない。
奇遇に奇遇が折り重なったかのごとく、修は
かつて、若草の山で洋子に会った。
だが、もちろん、もとは他人同士。
歳が二十以上離れているし、洋子について
分かっていることは、履歴書以上でも以下で
もない。
「すみません、課長の指示にはどこまでも
したがいますが、 暗くなるばかりだし」
世の中の約束事を意識して、洋子は突然立
ち止まった。
女の長い髪の毛のように、その小枝の束を
堀深く、ばさりと垂らした一本の柳にぼんや
りした視線を送る。
最寄りの喫茶店のネオンの明かりが彼女の
瞳を照らしだす。
「どうしたの、だいじょうぶ?」
ここまで来て、帰りますは、ないだろなと
修は洋子のはらづもりを測りかねる。
「あっいえ、大丈夫です。いけない、いけ
ない、あたしって……。いくら信頼する方の
お誘いとはいえ……、ああ、わたしどうしよ
うかしら」
修は黙った。
じぶんでもわからないが、こんな場合、不
用意な発言は慎むべきと思う。
しばらく、修は堀の巨岩の上をすべるよう
に流れる水面を見つめた。
「ちょっとジャズバーでも、と思ってね」
直截にそう切り出す。
「ジャズバー、って?あたしそんなとこ行っ
たことありませんわ。なんだかこわい」
「こわくない。きみができるだけ早く、お
となの仲間入りをすればと思ってね。なんな
ら喫茶店でもいいがね。もちろん、デパ地下
なんかに寄ってからだけど」
修はやんわりと言い、洋子の肩を抱いた。
は洋子と合流した。
人通りの多いオリオンは使わず、釜川沿いの
小路を行くことにする。
目指すは、東武百貨店付近の喫茶店、あるい
はバー。どちらにするかは、洋子の気持ち次第
と心に決めた。
春の宵とはいえ、辺りは暗い。
ビルとビルの谷間。
イヴェント帰りなのか、あちこちに若者が寄
り集まり、すわりこんで何やら話し込む。
「ここってね、あたし、一度も歩いたことあ
りませんわ」
洋子が心細そうな声をだす。
時折、ザバッと音がする。
きゃっと叫んで、洋子が修の体にしがみつい
てきた。
「いったいなによっ、なっ、なんでしょうね、
あの音って?」
くだけた言い方を、あわてて訂正する。
修は、相好をくずし、
「知らないの?この堀にま鯉がいるのって」
「ええ、まったく、知りませんでした。いっ
つも、オリオン通りを歩きますし……」
言葉じりは丁寧だが、さっき両手でつかんだ
修の右腕を放そうとはしない。
「きみの住まいってこの街の郊外でしょ。だ
ったら、幼い頃からこの辺は馴染んでいるはず
なんだが」
修はちらりと洋子の顔を見た。
「それは確かにそう。でもね、私は郊外のま
ずしい農家の娘です。両親がせっせと畑仕事を
しているのを見て、育ちました」
洋子はうらめしく感じた時にするまなざしを
修に向ける。
しかし、その表情はやわらか。
ゆっくり、ふうと息を吐いてから、
「男の子みたく、お魚には興味ありませんで
したし、母といっしょに歩きながらね、お店に
並んでる洋服や靴に夢中でしたわ」
と言い、幼子のようにはにかんでみせた。
「今だって、ときどきは来るんでしょ」
「もちろんですわ。デパ地下が、あたし、大
好きなんです」
ふいに修は首をまわし、最寄りのビルの陰影
をながめた。
思いのほか簡単に洋子は修の誘いにのり、お
任せしますという風情で、彼の指示に従って
くる。
現代女性ってとことん、じぶんを主張して
譲らないことが多いのにと、修は思う。
例えば彼女たちの車の運転。
修の方に、当然、優先権があるのにもかか
わらず、強引にわりこんでくる。
しかし、当然のように、修は彼女らに合わ
せる。
正当性をつらぬいたら、間違いなくジコっ
てしまうと思うからだ。
現代っ子らしからぬ洋子の態度は、修には
不可思議だった。
古風。
その言葉が洋子にはぴったり。
三歩さがって師のかげを踏まず。
いや、ひょっとしてそれ以上かもしれない。
奇遇に奇遇が折り重なったかのごとく、修は
かつて、若草の山で洋子に会った。
だが、もちろん、もとは他人同士。
歳が二十以上離れているし、洋子について
分かっていることは、履歴書以上でも以下で
もない。
「すみません、課長の指示にはどこまでも
したがいますが、 暗くなるばかりだし」
世の中の約束事を意識して、洋子は突然立
ち止まった。
女の長い髪の毛のように、その小枝の束を
堀深く、ばさりと垂らした一本の柳にぼんや
りした視線を送る。
最寄りの喫茶店のネオンの明かりが彼女の
瞳を照らしだす。
「どうしたの、だいじょうぶ?」
ここまで来て、帰りますは、ないだろなと
修は洋子のはらづもりを測りかねる。
「あっいえ、大丈夫です。いけない、いけ
ない、あたしって……。いくら信頼する方の
お誘いとはいえ……、ああ、わたしどうしよ
うかしら」
修は黙った。
じぶんでもわからないが、こんな場合、不
用意な発言は慎むべきと思う。
しばらく、修は堀の巨岩の上をすべるよう
に流れる水面を見つめた。
「ちょっとジャズバーでも、と思ってね」
直截にそう切り出す。
「ジャズバー、って?あたしそんなとこ行っ
たことありませんわ。なんだかこわい」
「こわくない。きみができるだけ早く、お
となの仲間入りをすればと思ってね。なんな
ら喫茶店でもいいがね。もちろん、デパ地下
なんかに寄ってからだけど」
修はやんわりと言い、洋子の肩を抱いた。