長年生かせていただいていると、実にさまざまな
憂き目にあう。
若い頃より恩師としてあがめた方が、ふいに身ま
かられた。
(すでに九十才を超えられている。この先何がある
やもしれぬ……。その時は決して驚いたりあわてた
りするまい)
こころの底では、そう思っていた。
しかし実際、ぐいとその事実を突きつけられると、そ
んな気持ちがあっけなく崩れ去ってしまった。
「夫がなくなりました。あなた様には大変お世話にな
りました。葬儀の日程は…」
呼び出し音四回のあとで、そう、留守電にしたためら
れた恩師の奥様の言葉に愕然とする。
このところ変な電話が多いせいで、迷惑防止装置を付
けたり、もっぱら留守電にしている。
丁重に話されてはいるが、ご自分の感情があらわにな
らぬよう、必死に理性で抑え込んでおられるご様子が伝
わってくる。
恩師の塾を退いてから、もうかれこれ三十年になる。
何をなすべきか。
わたしはためらったあげく、みずからの気持ちに正直
に動くことにした。
わたしはすぐにコールバックし、受話器をとりあげて
くれた男性に、
「今からすぐに訪ねてよろしいでしょうか」
と問うた。
彼の声に覚えがあった。
「はい、どうぞ」
長男さんのMに違いなかった。
おおむね、この辺りでは、自治区がいくつかの班に分
かれていて、一戸一人、不祝儀の際は参加することになっ
ているが、恩師家族の現住所はもう数十年前に、都内に
移されている。
だから、飛脚さえ、人任せにできなかった。
恩師の子どもは、男ひとり女ふたり。
K市に住まわれている、恩師の旧友のO氏の援助がある
ものの、重々しく、葬儀の際の負担が、彼らにのしかかっ
てきた。
件の三人はわたしのかつての生徒。
わたしは四十代半ばまで、恩師が経営される学習塾で主
に数学を任されていた。
「お父さんがたいへんなことになって……」
わたしが言うと、
「はい。K先生にはお世話になりました」
と気丈に答えた。
「お母さんは……?」
そう尋ねたが、しばらく誰の返事もない。
(この際は誰しも平常心ではいられぬもの。知り合いの声
を聞いただけで、こらえていた感情があらわになってしまう)
奥様は逡巡されておられる。おそらくそのせいで……。
「K先生。父が父が、お世話になって……」
Mくんにつづいた女性の声は若々しいものだっ
た。
はて、こんな声の持ち主がご家族におられたのやら、とし
ばし考えているうちに、電話の主が自ら名前を告げられた。
合点がいった。
「母は……」
「そうだろね。行ってもいいかい。今から?」
「お願いします」
自分の身体の都合など考えてはいられない。
わたしはわっとばかりにマニュアルの軽キャブに向かって
走り出した。
数日後の本葬はさびしいものだった。
参加者から親せき連中を差し引きすると、残りはたったの
数名。
わたしがその中に含まれていた。
最初の東京五輪が済んでまなしに、恩師はK市で学習塾を
始められ、このたびの新型コロナの大流行が始まる前まで、
粘り強く授業をつづけられた。
生徒数はのべどれくらいだろう。
わたしは正直、落胆した。
一介の私塾とはいえ、人を集めていろんな道筋を、必死の
思いで、示して来たわけである。
卒塾生のそれぞれの人生にさまざまなことがあったろう。
しかし、しかしである。
恩師の想いが伝わらなかったはずがない。
そう信じたい。
かつての生徒は、S新聞のおくやみ記事を見て、さまざまな
感慨にふけられたはずである。
なにはともあれ……。
麻屋与志夫氏へ
あなたがこれまでに、わたしにかけてくださった言葉を宝物
として、残された人生をあゆんでいくつもりです。
憂き目にあう。
若い頃より恩師としてあがめた方が、ふいに身ま
かられた。
(すでに九十才を超えられている。この先何がある
やもしれぬ……。その時は決して驚いたりあわてた
りするまい)
こころの底では、そう思っていた。
しかし実際、ぐいとその事実を突きつけられると、そ
んな気持ちがあっけなく崩れ去ってしまった。
「夫がなくなりました。あなた様には大変お世話にな
りました。葬儀の日程は…」
呼び出し音四回のあとで、そう、留守電にしたためら
れた恩師の奥様の言葉に愕然とする。
このところ変な電話が多いせいで、迷惑防止装置を付
けたり、もっぱら留守電にしている。
丁重に話されてはいるが、ご自分の感情があらわにな
らぬよう、必死に理性で抑え込んでおられるご様子が伝
わってくる。
恩師の塾を退いてから、もうかれこれ三十年になる。
何をなすべきか。
わたしはためらったあげく、みずからの気持ちに正直
に動くことにした。
わたしはすぐにコールバックし、受話器をとりあげて
くれた男性に、
「今からすぐに訪ねてよろしいでしょうか」
と問うた。
彼の声に覚えがあった。
「はい、どうぞ」
長男さんのMに違いなかった。
おおむね、この辺りでは、自治区がいくつかの班に分
かれていて、一戸一人、不祝儀の際は参加することになっ
ているが、恩師家族の現住所はもう数十年前に、都内に
移されている。
だから、飛脚さえ、人任せにできなかった。
恩師の子どもは、男ひとり女ふたり。
K市に住まわれている、恩師の旧友のO氏の援助がある
ものの、重々しく、葬儀の際の負担が、彼らにのしかかっ
てきた。
件の三人はわたしのかつての生徒。
わたしは四十代半ばまで、恩師が経営される学習塾で主
に数学を任されていた。
「お父さんがたいへんなことになって……」
わたしが言うと、
「はい。K先生にはお世話になりました」
と気丈に答えた。
「お母さんは……?」
そう尋ねたが、しばらく誰の返事もない。
(この際は誰しも平常心ではいられぬもの。知り合いの声
を聞いただけで、こらえていた感情があらわになってしまう)
奥様は逡巡されておられる。おそらくそのせいで……。
「K先生。父が父が、お世話になって……」
Mくんにつづいた女性の声は若々しいものだっ
た。
はて、こんな声の持ち主がご家族におられたのやら、とし
ばし考えているうちに、電話の主が自ら名前を告げられた。
合点がいった。
「母は……」
「そうだろね。行ってもいいかい。今から?」
「お願いします」
自分の身体の都合など考えてはいられない。
わたしはわっとばかりにマニュアルの軽キャブに向かって
走り出した。
数日後の本葬はさびしいものだった。
参加者から親せき連中を差し引きすると、残りはたったの
数名。
わたしがその中に含まれていた。
最初の東京五輪が済んでまなしに、恩師はK市で学習塾を
始められ、このたびの新型コロナの大流行が始まる前まで、
粘り強く授業をつづけられた。
生徒数はのべどれくらいだろう。
わたしは正直、落胆した。
一介の私塾とはいえ、人を集めていろんな道筋を、必死の
思いで、示して来たわけである。
卒塾生のそれぞれの人生にさまざまなことがあったろう。
しかし、しかしである。
恩師の想いが伝わらなかったはずがない。
そう信じたい。
かつての生徒は、S新聞のおくやみ記事を見て、さまざまな
感慨にふけられたはずである。
なにはともあれ……。
麻屋与志夫氏へ
あなたがこれまでに、わたしにかけてくださった言葉を宝物
として、残された人生をあゆんでいくつもりです。
私の父の一つ上の方だと思いました。
ご家族の方々は本当に悲しみの中におられることと思います。
種吉さんのお気持ちが癒されますように。
こんにちは。私も今年早々に恩師との哀しい別れを体験したばかりです、なので、到底ひとごととは思えず拝見しました。
私の恩師は90歳になられたところでした。年賀状を差し上げ、奥さまから喪中葉書が届いたことで知ったのです。かねてから、遠方でも、もしものことがあればはせ参じたいと考えていただけに、余計にショックでした。
数年前にゼミ会でお会いしたのが最後となってしまいました。教え子達に囲まれ、穏やかに笑っておられた姿が今も蘇ります。別れ際、「来年のゼミ会で」とご挨拶したのに、翌年からコロナ禍が始まり、ゼミ会も中断されたままで、その間に亡くなられたことになります。
私に文筆の道を指し示して下さった生涯の恩師でした。
油屋様のお悲しみに心から共感です。
恩師様のご冥福をお祈り申し上げます。
こんにちは。私も今年早々に恩師との哀しい別れを体験したばかりです、なので、到底ひとごととは思えず拝見しました。
私の恩師は90歳になられたところでした。年賀状を差し上げ、奥さまから喪中葉書が届いたことで知ったのです。かねてから、遠方でも、もしものことがあればはせ参じたいと考えていただけに、余計にショックでした。
数年前にゼミ会でお会いしたのが最後となってしまいました。教え子達に囲まれ、穏やかに笑っておられた姿が今も蘇ります。別れ際、「来年のゼミ会で」とご挨拶したのに、翌年からコロナ禍が始まり、ゼミ会も中断されたままで、その間に亡くなられたことになります。
私に文筆の道を指し示して下さった生涯の恩師でした。
油屋様のお悲しみに心から共感です。
恩師様のご冥福をお祈り申し上げます。