油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

MAY  その42

2020-03-14 19:00:13 | 小説
 ガリガリッ、ガリッ。
 突然何ものかが小屋の戸をひっかきだした。
 窓辺で騒いでいた鳥たちが、いっせいに飛
び立っていく。
 「なによ、いったい。誰なの?」
 メイは不安にかられたが、ひょっとしてこ
の小屋から逃れるチャンスかもしれない、と
思い、戸口から離れたところで、様子をうか
がうことにした。
 重い扉がこらえきれないように、内側にば
たりっと倒れた。
 勝ち誇ったように、一匹のヒグマがうおおっ
とほえた。
 ひゅっと何かが飛んで来て、小屋の床にご
とりと落ちた。
 扉をこわすときに傷ついたのだろう。
 ヒグマの口のまわりに、血がにじんだ。
 ヒグマは憎々しげに、右の前足でかんぬき
を踏みながら、うう、ううとうなった。
 メイの耳には、それが意味あるものとして
聞こえてくる。
 「うおっ、ふうふうっ。思ったより、すご
いがんじょうな扉だったな、これは。メイさ
んメイさん、いますか。いたら返事をして」
 ヒグマはのそりのそりと小屋のなかをうろ
つきだした。
 積んであるマキの陰にかくれていたメイは、
ヒグマの声に反応し、すぐにとび出た。
 「まあ、ヒグマさん。あなたが助けに来て
くれたんだ。どうして?どうしてここにいる
のがわかったの?」
 と、礼をいった。
 ヒグマはいったん、首を振ったが、意味が
わかったらしく、ううううっとうなる。
 「いやいや、どういたしまして。ピーちゃ
んが知らせてくれなかったら、わからなかっ
たんだ。礼ならピーちゃんに言って」
 「わかったわ」
 メイは小屋から出た。
 両腕をのばし、二三度新鮮な空気を吸った
り吐いたりしてから、
 「ピーちゃん。ピーちゃん、どこ?どこに
いるの。いたら、出て来てちょうだい」
 ピー、ピピーッ。
 ピーちゃんは、小屋から少し離れたところ
で鳴いているらしい。
 それほど元気のある声ではなかったが、メ
イが長い間耳にしてきたもの、忘れるわけが
なかった。
 「どうしたの。あなたがわたしのもとに飛
んできてくれなかったら、わたし、おうちに
帰らない」
 メイは小屋上り口にある階段にすわりこみ、
あたりを見まわした。
 「じゃあ、わしはもう行くからな。何かあっ
たら、いつでも呼んでおくれ。マーシカって
いうんだ、おれは。じゃあ」
 ヒグマはそう言うと、メイのわきをすりぬ
けて通ろうとした。
 だが、からだが大きすぎる。
 「あら、ごめんなさい。気が付かないで」
 メイはいそいで立ち上がると、ふわりと地
面に飛び降りた。 
 ヒグマが飛び下りたところに、大きな足跡
がついた。
 「ありがとう、メイ。おらはでかすぎて困
ることがおおいんだ。ピーちゃんはな、メイ。
知っての通り、もうかなりの年だ。さっき窓
辺に来たのは、ピーちゃんの子どもだ」
 「ああ、やっぱりそうなんだ。とてもうれ
しかったわ。みんなして来てくれて」
 「そうだろ、そうだろ。あれは気持ちのい
い子だからな」
 「とにかく、ピーちゃんはじきにあらわれ
る。もうしばらくそこで待っててやって」
 メイのほうに巨大な頭を向け、ヒグマはそ
う言った。
 そして再び、森の方に頭を向けると、うお
おっとひと鳴きした。
 しばらくして、メイの目の前の草むらが小
さく揺れた。
 何かが歩いて来るのだろう。
 草の揺れがメイの向かってくる。
 (ひょっとしてピーちゃんかも。でもねいく
ら年老いても、あの子羽があるんだから。こ
れじゃまるで野ネズミさんみたい)
 メイは胸をわくわくさせ、それが草むらか
ら庭先に出てくるのを待つことにした。
 
 
 
 
 
 
 
  
 
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晩秋に、伊勢を訪ねて。  (12)

2020-03-13 21:42:26 | 旅行
 朝起きると隣のふとんが空っぽ。
 風呂好きのせがれのこと。部屋の浴槽にで
もつかっているんだろう、とわたしは勝手に
思い込んでしまった。
 せがれのいびきやお化けさわぎでゆうべよ
く眠れなかった頭のまま、浴室に行こうとし
て、その扉の少し前で立ちどまった。
 結局、わたしは扉はあけなかった。
 真向かいの洗面所で顔を洗いながら、浴室
の様子をうかがうことにする。
 ことり、ともしない。
 なんとなく背中がぞくそく。
 (おまえは生来の小心者。だから何でもな
いことに、からだが反応するんだろう)
 わたしは鏡に映った自分に向かって、そう
言い、不安にかられ、いらだつ気持ちを、少
しでも落ちつかせようとした。
 「男はね。六十五を過ぎてからの老化がき
わだってくるんですよ。髪の毛が極端に少な
くなるのも、そのあたりからです」
 いつだったか、ある床屋さんがわたしにそ
う言った。
 じっくりと鏡の中の自分を観る。
 その頭の上のほうに、今問題にしている浴
室のドアの一部が映った。
 わたしはちらっとそれを眺め、すぐに目を
そらした。
 思った通り、胸がどきどきしはじめたので、
ああ見なけりゃよかったものを、と悔いた。
 だが、もう遅い。
 思わず、わたしは目を閉じ、右手で水道の
蛇口をさがした。
 ようやくにして、水を落とす。
 それから次第に水量をふやした。
 両手いっぱいに水を受け、何度も何度もね
ぼけ顔にたたきつけた。
 おかげで、それまでのぼんやりした気分が
しゃっきりしたが、顔じゅうひげだらけ。
 旅行前あれやこれやで忙しく、二、三日剃っ
ていなかったのである。
 ちょっとは男前にして、うちに帰らないと、
かみさんの繰り言を、またしても聞くことは
めになってしまう。
 「髪の毛も切らないし、そのひげづら。あ
んたはそれでいいでしょうよ。だけど、嫁さ
んがいるのにって、わたしが世間に笑われる
んよ」
 といった塩梅である。
 灰色に広がったしみや深いしわ。
 わたしは鏡にぐっと顔を寄せると、初めて
自分の顔を見るような気持で、詳細にパーツ
をチェックした。
 美顔に凝っているかみさんのセリフで表す
とこうなる。
 灰色に広がった染みや深いしわ。
 これはわたしが数十年強い陽ざしのもとで、
田畑や車の運転などと、懸命に働いてきたあ
かし。
 そう思うと、なぜか目じりがうるんだ。
 わたしは間もなく、ホテルに備えられてい
る石鹸やかみそりを用い、かみさんがほめて
くれるような、きれいなじじい顔に変身した。
 近頃老人に対する世間の評価が、あまりに
低い。
 テレビを観れば観たで、やれ加齢臭だなん
だのコマーシャル。あんまりひどいこと言う
んじゃない。
 老人という言葉が死語に近い。
年寄りを高齢者と呼び。前期だ、後期だのっ
て、のたまう。
 とにかく敬老の精神がない。
 年寄り自ら、若者に尊敬されるべく努力し
なけりゃならないのは当然である。
 長年積み重ねた知恵で、若者を導いてやっ
てこそ、彼らに尊ばれるんだ。
 年取るだけなら猿だってできる。
 わたしは、鏡の前で、愚痴っぽく、こんな
セリフを長々と繰り返した。
 この日は、旅の最終日。
 もう一件、この部屋で解いておかなきゃな
らない課題がある。このままでそれを放置す
るのはあとあと自分のためにはならない。で
ないと、この先旅行を楽しむことができなく
なる。
 わたしは勇気を奮い起こし、もうひとつの
謎に挑戦することにした。
 ベランダの椅子に腰かけていたやつれ顔の
男のこと。
 あえて洗面所わきのドアを開け、ベランダ
をのぞきこんだ。
 がらんとしている。
 テーブルをはさんで、空のシートがふたつ
あるだけだった。
 カーテンが引いてあっても、ぶ厚いガラス
を通して差しこむ朝の光りが、せまい空間を
温めていた。
 そのせいで、ふわんとした雰囲気が漂う。
 「お父さん。しょうがないな。まだ寝ぼけ
てるんだ。こんなとこで。早く朝飯を食べに
行こう。遅れてしまうよ」
 突然、せがれの声が背後で聞こえた。
 どうやら彼は、今まで大浴場にいたらしい。
 「わるい夢みたいなのを、ゆうべ、いっぺ
んにふたつも見てしもてな。ゆっくりさせて
もろたんで、きっと日頃の疲れが出たんやろ」
 思わず、わたしは関西弁でしゃべった。
 幻をみたのは、自分の疲れのせいが原因。
 そういうふうにすることで、この場面をう
まく乗り切ることができた。
 せがれの健康を、なんとかして、とりもど
すこと。それが旅行の目的。
 どこにでもある、旅館やホテルの幽霊ばな
しにつきあってなぞ、いられなかった。
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梅が咲いても。

2020-03-09 16:50:53 | 随筆
 久しぶりの暖かい朝。
 紅白の梅を愛でようと、最寄りの高台
にのぼる。
 坂道のわきは、山林。
 道の先にある墓地を仕切る、お寺さん
の持ち物である。
 先だっての愛宕山のお祭りの際、氏子
連が下草を刈った。そのせいで見通しが
すごくいい。
 (これだと危険きわまりない猪の姿を、
すぐに発見することができるぞ)
 わたしはぐるりと首をまわし、一匹も
いないことを確認してから、ふうっと息
をはいた。
 それでも、足どりが重い。
 原因をつらつら考えてみる。
 先週うちの塾に来てくれた子どもの様
子がおかしかった。
 なんとなく、そわそわしていた。
 今月の第一週目の授業だった。
 四年生の女の子が、もの言いたげな眼
差しで顔をあげた。
 いつもより大きく目を見開き、家から
持参した算数の教科書を机にのせた。
 彼女は今までに教科書を、一度も持っ
てきたことがなかった。
 「どうしたの。きょうは。教科書なん
てめずらしいね」
 「うん。だってコロナで学校休みになっ
ちゃったんだもの。勉強、うちでやんな
さいって。学校の先生が」
 「へえっ、そりゃ大変」
 彼女は、分数のページをゆびさし、
 「ここ、ここなの。わかんないのはね。
分数の仲間らしいんだけど、漢字の意味
がわかんないし」
 仮分数や帯分数。
 それらを初めておそわるらしい。
 子どもにとって、解りにくい領域とい
える。
 「どれどれ、先生がわかるように、黒
板で説明してあげよう」
 「はい」
 算数というのは、階段をのぼるように
勉強するようにできている。
 まず三年生のおさらいをしてから、先
に進むことにする。
 子どもにとって、横棒の上と下に、数
字がのっているのが、なんとも奇妙に思
えるものだ。
 最初わたしはりんごの絵をかき、半分
の量や三等分の量を、分数で表そうとし
た。
 しかし、りんごの表面が丸いのが気に
なった。
 まずいと感じたので、直方体の羊羹を
例にとった。
 「ほら、ここに一本のようかんがある。
これを包丁で半分に切る。二等分するっ
ていうことだね」
 「はい」
 納得がいったようで、彼女の目がぱっ
と輝いた。
 「同じ大きさにふたつに分けたひとつ
ぶん。これを二分の一といい、こうやっ
て書くんだ」
 ここでわたしは短く横棒をひき、上に
1、下に2と書いた。
 「そんなこと三年生のときに習っちゃ
ったもん。知ってるもん」
 「そうだね。真分数って言うんだ。じゃ
あ、三分の一ってのは、わかるかな。知っ
てたら黒板に書いてくれる」
 彼女は、わたしが彼女に手渡した白い
チョークを右手に持つと、
 「こんなの、かんたん、かんたん」
 と言い、黒板に三分の一をさらさらと
書いた。
 「よし、よくできた」
 「こんなの、誰だってできるわ」
 「そうかな。じゃあこれはどうだ。三
分の一の量が三つ分では?」
 「三分の三。楽勝、楽勝」
 「それじゃ、三分の一が四つ分では?」
 「三分の四」
 彼女は、黒板に、すばやくふたつの分
数を書いた。
 「すばらしい」
 うれしそうに、彼女は自分の席にもどっ
て行った。
 「そこで、だ。三分の三とか、三分の
四とか。ちょっと変だと思わないかい」
 ううんっとか、ええっとか言いながら、
彼女は懸命に考え始めた。
 「ここで質問。三分の三ってね。ほか
の数字でね、つまり整数なんだけど、そ
れで表すと、どうなるかな」
 わたしは黒板に描かれた羊羹をゆびさ
しながら問いかけた。
 彼女は小首を傾げた。
 ふり向きざま、彼女はすぐ後ろで算数
のドリルの難問に挑戦中だった兄に助け
を求めた。
 彼は小声で、ようかん、ひとつぶんだ
よ、と言う。
 「わかった先生。一本分でえっす。だ
から、答えはいち。それでいいですか」
 「はい、ご名答。じゃあ三分の四は?」
 「ひとつ分と、残りは、ええっと三分
の一だから。ええっとええっと」
 ここで、わたしはこの量を、一と三分
の一だと言い、黒板に帯分数で表した。
 「えっなんだろね。それって」
 「これってたいぶんすうって言うんだ。
つまりね。横棒の上の数字(分子)が下
の数字(分母)と同じか、それより大き
い分数を仮分数(かぶんすう)それからね。
整数と真分数でできてるのは帯分数」
 「そうなんだ。よくわかりました」
 と言い、彼女はほほ笑んだ。
 (まだこの子らはしあわせだ。食べるも
のが充分にある。しかし、かの国の子ど
もたちは今、こんなに笑えるだろうか) 
 それまで坂道の表面ばかり見ていたわ
たしは、ふいに顔を上にあげた。
 灰色の雲が、空を半分くらいおおって
いる。それでも、カラスが飛び交ったり
とんびが上空で輪をかいたりしている。
 けきょ、けきょけきょと、うぐいすが
鳴きはじめた。
 警戒せよ、となかまに呼びかけている
のである。
 (人間だけがなあ、まったく。こうもり
やねこを食べるなんてこと、どうしてま
た?そんなものをどうして・・・。ひょっ
としてほかに食べるものがなかったんだ
ろうか)
 わたしは古くからなじみのある、隣国
の庶民の生活を思いやった。
 「今になってお互いのことを、世界中
で思いやるなんて。もっとずっと前から
そんな具合にできなかったんだろうか」
 わたしはそうひとりごちた。
 右前方に視線を移した。
 紅白の梅が、人間界の騒ぎを知ってか
知らずか、今が盛りと咲きほこっている。
 
 
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MAY  その41

2020-03-07 16:23:09 | 小説
 陽が沈むとすぐに、小屋の中はほとんど闇
に近くなった。
 ひやりとした空気が、メイの体にまといつ
いてくる。
 メイは、今や、なんらの束縛もなかった。
 大男に目隠しされたが、それをはずした。
 彼女の両手を縛っていた荒縄は、彼女の丈
夫な歯で、とっくに食いちぎっている。
 「ゴン、ゴン、こっちよ、こっち。聞こえ
たら来てちょうだい」
 窓のすき間に口をおしつけ、メイは大きな
声をだした。
 ちょっとの間、メイは待った。
 だが、いくら待っても、ゴンの声が聞こえ
てこない。
 メイはふうとひとつ、ため息をつき、小屋
の中を振り返った。
 床に、マキの束がいくつか転がっている。
 そのひとつに、彼女は腰を下ろした。
 (ウサギの肉でたぶらかされるなんてね。ゴ
ンって、そんなおばかだったんだ。ああもう)
 メイのこころの中に、ゴンをうらむ気持ち
がわいてくる。
 しかし、たちまち、彼女は首を横にふった。
 (ばかって?自分がばかじゃない。なにさ。
あいつらから逃げようとした?あの大男の手
を、思いっきり噛んでやればよかったじゃな
い。そうしたら、どうなったかしら?あいつ
痛くて、わたしの手を離したかもかもしんな
いじゃない。こんな森の奥まで連れてこられ
ないで済んだかもしれないわ)
 打ちのめされ、しおれた気持ちを立て直そ
うとするかのように、メイは丸まった背中を
まっすぐにし、正面を見た。
 まるで自分のこころから、邪念や弱気を追
い出そうとするかのように、彼女は深呼吸を
くり返す。
 ほら、その調子、その調子。いい子ね、今
に見てごらん。きっと助けがやってくるから。
 風の音にまじり、かすかに、女の人の声が
聞けたように感じたメイは、ふとあることを
思い出した。
 お母さん?の言葉である。
 「あなたには力がある」
 それは、彼女が窮地におちいったとき、い
つも彼女を支えてくれた。
 「よし、こうなったらなんだってやるわよ」
 メイは元気な声で言うと、すくっと立ち上
がった。
 こころの奥で、なにかが煮えたぎる。
 そのひとつが、すうっと、メイの意識のお
もてに立ち昇って来た。
 (そうだわ。わたしにはピーちゃんがいるわ。
ゴンがだめでもね)
 メイは窓辺に歩みよった。
 その窓の木枠に、彼女の低くて小さな鼻が、
ほとんど触れている。
 「ピーちゃん、ピーちゃん。メイよ。ここ
にいるわ。わたしを忘れないで。子どもたち
の世話もたいへんでしょうけど。お願い、聞
こえたら助けて。閉じ込められたの。出られ
ないの。ここで死んじゃうなんて、耐えられ
ないわ。わたしにはやるべきことがあるの」
 と、一所懸命、訴えた。
 だがすぐに、あきらめの気持ちが、彼女の
こころに芽生える。
 (昼間じゃないんだし、ピーちゃん、飛べ
るわけないわ。それにたとえ飛べても、ピー
ちゃんは小さくてかよわい。とてもあんな重
いかんぬきをひとりで抜くなんてことはでき
ない)
 だが、メイの決意は固い。
 すべて徒労に終わっても、全力でことに当
たろう。そう思った。
 小屋はヒグマの襲撃を恐れるのか、とても
頑丈に造られていた。
 窓も鉄の格子が入っていて、たとえガラス
を割ったとしても、抜け出せそうにない。
 メイは、散らばっているマキを一か所に集
めたり、枯葉を、その間に敷きつめたりしは
じめた。
 一晩小屋で過ごすためである。
 火の気がなけりゃ凍え死んでしまいそうに
思える。さいわいにもマキストーブがあった
が、火を起こすマッチなどが見あたらない。
 ふいに窓のあたりが騒がしくなった。
 ピー、ピー、ピピーッ。
 (ピーちゃん?)
 メイの顔にようやく、ほほ笑みがもどった。
 鳥の羽音は、ピーちゃんひとつのものでは
ないらしい。
 だんだん大きくなってくる。
 大柄の鳥もいるようだ。
 バタバタッ、バタッバタッ。
 彼らの羽を懸命に窓ガラスに打ちつけた。

 
 
 
  
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晩秋に、伊勢を訪ねて。  (11)

2020-03-04 13:15:33 | 旅行
 せがれのいびきは、夜を徹してつづくよう
に思われた。
 これはかなわん、なんとかしずめる方法は
なかろうか、と、せがれの鼻をいくどかつま
んでみる。
 すると、何を勘違いしたのか、せがれはに
こっと笑った。
 わたしのほうに、両手をのばしてくる。
 こりゃしくじった。彼の夢にまでわたしが
立ち入ってしまってはならぬ。
 そう思い、わたしは彼のいびきをとめるの
を断念した。
 せがれは今では、立派な中年男。
 しかし親からみれば、子は子である。
 彼がいくつになろうと、手塩にかけた日々
を忘れることができない。
 眠っていたって、こんないたらないわたし
を頼りにしてくれているんだ。
 熱い想いがひとかたまりになって、こころ
の奥底からわきあがって来る、
 それがのどのあたりでつかえ、胸がいっぱ
いになった。
 就寝中、その人の意識はどうなっているの
だろう。大脳生理学の見地からすると、細か
く説明がつくのだろう。
 「寝言に返事をしてはいけないよ」
 先年、鬼籍に入った母がよく言っていた。
 それはどうしてだろう。
 その疑問は、いまだにわたしの脳裡にこび
りついて離れない。
 眠っている人はもちろん、起きがけの寝ぼ
けまなこでいる人を、むやみに驚かしてはい
けないのは、わかりそうな気がする。
 驚きが、なにか、彼の大切な何かを奪って
しまいそうだ。
 人は夢うつつの世界にいるとき、彼の意識
は、こころの深い海で漂っているようなもの。
 あまりにびっくりさせると、命綱が中途で
切れてしまい、二度と水面に浮かんでこれな
くなる。
 潜在意識にかかわることなのかもしれない。
 過ぎ去ってしまい、はるか遠くになった若
き日をふり返る。
 せがれを追いつめたのは、未熟なわたしで
はなかったのか。
 彼に対して放った言葉が、つぎつぎとよみ
がえってきて、いたたまれなくなった。
 どうせ眠れないなら夜景でも観ていようと
思い、わたしは立ち上がった。
 ふとんに入る前に考えたことを、不意に思
い出し、背筋がひやりとする。
 枕もとの塩をラップから取り出し、左の手
のひらに盛った。
 右手で塩を少しだけつまみ、浴衣の胸にふ
りかけた。
 寝室のふすまを開け、浴室につづく廊下を
歩きはじめた。
 スリッパの音が、やけに耳奥で響く。
 浴室のドアは、閉ざされている。
 中に、だれかがいるはずもない。
 わたしの胸が高鳴る。
 不意にコーンと桶がどこかにぶつかる音が
して、わたしはぎょっとした。
 ザザザッと水音がつづいた。
 黒い人影が浴室内で動く。
(わるい夢でも観ているのだろう)
 わたしはそう思い、ベランダにつづくドア
を開けた。
 ひんやりした空気が、顔にふれる。
 小さな卓をはさんで、席が向かい合わせに
なっている。
 わたしは手前の席にすわり、向かいの席を
じっとみつめた。
 そこに、ホテルの浴衣を着た、ひとりの中
年の男の姿があった。
 やつれた顔。
 しばらく剃っていないのか、顔じゅう、髭
だらけである。
 「さぞ、お疲れでしょう」
 わたしが問うと、彼はひと呼吸おいてから、
ふうっとため息を吐いた。
 「ううん」
 とうなり、猫のように背伸びをした。
 彼の瞳の奥で青白い炎がちろちろ燃える。
 突然、大きな足音がして、ドアが開いた。
 ベランダの空気が、急激に圧縮される。
 一瞬で、わたしの眼の前にいた旅人が姿を
消してしまった。
 「お父さん、ま夜中だよ。なのになんでこ
んなところにいるんだ」
 せがれの剣幕に気おされ、わたしは一言も
発することができない。
 「おれのいびきのせいか?」
 わたしは何とも答えられない。
 ほとんと泣き顔になり、あわわわっと悲鳴
に似た声を発した。
 
 
 
 
  


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