ここ数か月、勉強会は事例検討なので、守秘義務の観点から詳しい事はここには書けず…です。
「親鸞」読み終わりましたが、タイトルの「悪人正機」。
歎異抄の有名な一節である 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」についてです。
善人が往生するならば、悪人ならなおさら往生する、救われるという意味です。
はじめはその深い意味、どのように理解すれば、と思っていました。
なので、いつも感じている人間は善人だけの人もいない…そして悪人だけの人もいない…
というところから考えていきました。
悪人(悪いことをしている人)というのは、自分が悪いことをしているという事を知っています。
なので、自分の「悪」もよく知っています。自分の「善」は否定しているかもしれません。
善人は、悪いことをしていないので、自分を悪人だとは思いません。
そりゃそうなのですが、悪い心のない人間はいないので、悪いことをしていなくても、「悪」は存在するという事です。 でもそれに気づかないかもしれません。
どちらにしても「悪」は自分の中にあり、気づかなくても本当は苦しいものです。
なので、その苦しみから「善」に気づくこと。
悪人ならなおさら…はこの気づくことが大切です。
親鸞の本の中で、悪人が自分の善に気づいた時、後悔や懺悔に打ちひしがれながらも自分の本当の良心(中心軸)と繋がるのです。それは感動的ですらありました。
自分の中の「悪」を見つめ、そして認めるところから「善」に繋がるというのは、逆説的であり、でも真実なのだと思いました。
そして、人間は善人か、悪人かという区別はないのだと…
うまく理解できなかった「罪を憎んで人を憎まず」がわかったような気がします。
「親鸞」読み終わりましたが、タイトルの「悪人正機」。
歎異抄の有名な一節である 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」についてです。
善人が往生するならば、悪人ならなおさら往生する、救われるという意味です。
はじめはその深い意味、どのように理解すれば、と思っていました。
なので、いつも感じている人間は善人だけの人もいない…そして悪人だけの人もいない…
というところから考えていきました。
悪人(悪いことをしている人)というのは、自分が悪いことをしているという事を知っています。
なので、自分の「悪」もよく知っています。自分の「善」は否定しているかもしれません。
善人は、悪いことをしていないので、自分を悪人だとは思いません。
そりゃそうなのですが、悪い心のない人間はいないので、悪いことをしていなくても、「悪」は存在するという事です。 でもそれに気づかないかもしれません。
どちらにしても「悪」は自分の中にあり、気づかなくても本当は苦しいものです。
なので、その苦しみから「善」に気づくこと。
悪人ならなおさら…はこの気づくことが大切です。
親鸞の本の中で、悪人が自分の善に気づいた時、後悔や懺悔に打ちひしがれながらも自分の本当の良心(中心軸)と繋がるのです。それは感動的ですらありました。
自分の中の「悪」を見つめ、そして認めるところから「善」に繋がるというのは、逆説的であり、でも真実なのだと思いました。
そして、人間は善人か、悪人かという区別はないのだと…
うまく理解できなかった「罪を憎んで人を憎まず」がわかったような気がします。
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