平成28年12月19日 撮影
上善寺は、平安初期に天台密教の道場として、千本今出川のあたりに創設されたのが上善寺の起こりで、のち室町中期に真盛派春谷盛信上人が中興し、後柏原天皇より勅願所の宣旨を賜った。その後、秀吉の時代に現在地に移され、徳川時代は浄土宗鎮西派の大寺院として栄えた。
板碑形につくった十三仏の碑がある。高さ1.03m、幅52㎝、背面は自然のまま、表面に向背形を彫りこみ、十三諸尊ょ浮彫にしたものである。その尊像と配列は、通常の十三仏と異なっている。通常十三仏の配列は、下烈はしの不動明王から始まり、釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・弥陀・阿閦・大日とすすみ、頂上仏の虚空蔵菩薩までの忌日・忌年仏をあらわし、それらの仏を供養すると虚空蔵の三十三年忌後には極楽往生ができるという信仰である。ところが、上善寺十三仏は特殊な像を配列していて、下段三尊と二段目左右の像は、仏名が判然とせず、特殊な本地仏と考えられ、二段目中央が地蔵で、三段目が不動・文殊・阿閦、上段が弥陀・大日(金剛界)・釈迦と思われ、頂上仏は定印の弥陀と考えられる。
年号銘文は見当たらないが、像容からみて江戸中期ごろの造釣立と思える。十三仏の信仰が南北朝時代からあったことは、遺品から確認されているが、数多く造立されるのは室町中期以後で、大和方面に60点近い遺品があるのに対し、京都市街には3点と少ない。十三仏の信仰衆徒は、大衆的・民俗的な念仏講衆が主をなし、河内大念仏寺系の寺院に多く見られる。天台密教の膝元の京都では、なぜかその信仰は盛んでなかったようである。
平成27年6月12日 記事
第1番 六地蔵尊
入江九一 外 七名 首塚
元治元(1864)年7月19日禁門の変において,鷹司邸附近で戦死した
長州藩士入江九一・原道太・半田門吉・奈須俊平・田村育蔵・
緒方弥左衛門・小橋友之輔と無名の1人計8名を
当時堺町御門警衛隊長であった越前藩桑山十蔵が
主君松平春嶽(1828~90)の許しを得て,越前藩菩提寺の上善寺に葬った。
明治38(1905)年,旧長州藩主毛利家により塚周辺が整備された。
大正4年7月 建立
本堂
右のさらに右へ延びる石畳は 地蔵尊
鞍馬口地蔵尊
天道大日如来 大きい石仏だ
平成29年9月8日 追加
この大日石仏は花崗岩製、高さ1.6m、幅1.1m、奥行65㎝。光背を舟形につくり、背後は自然石のままとなっている。表面に座高1.28mの菩薩形像を厚肉彫りしたもので、かなり磨滅した上に、火災にあったようで、各所にヒビ割れがある。像は頭上に宝冠をいただき、垂髪を両肩に垂らし、条帛を身につけ、両手は胸前にあり、指先が欠損していて判然としないが、左手人さし指を右手の拳で握る院相で、大日如来知拳印と考えられる。
大日如来は、平安時代以後の密教寺院にまつられる主尊であり、かつてこの寺が天台寺院であったころの旧仏と思われる。
全体に粗野の感が深く、細技をほどこさずに雄大な気分を伝えるところは、鎌倉中期の作風に通ずるものである。力強い表現が実によい。結跏趺座した膝下は、土にうずもれているが、おそらく立派な蓮華座が設けられていることあろう。 追加ここまで
左 六地蔵の1つ 鞍馬口地蔵尊
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