京都から山科へ通じる三条通(東海道)の日岡峠は急坂の難所として知られていた。江戸時代には、街道に車石という牛車用の軌道を作ったこともあった。慶応3(1867)年には三条通(東海道)自体が峠の前後で付け替えられ現在の経路になったが,さらに明治になり急坂自体をなだらかにする工事が京都府により実施された。このことを記念して建てられた碑である。同時に三条大橋から滋賀県境までの三条通が整備されている。
碑の南側面に記される本間英一郎はアメリカに留学したこともある土木技術者。のちに碓氷峠の鉄道敷設に尽力している。
1877年建立
修路碑【篆額】
京都三条橋以東抵近江国界道路険仄往
往称不易行而日岡嶺為最甚焉然以当両
京周道車馬旅客之行皆靡不由於此使憧
憧之人永苦往来豈忍乎哉因以明治八年
経始起工越二年而告*計為程一里十九
町五十一間有奇易険為夷易仄為平而嶺
之道高者又低一丈一尺四寸庶幾乎車馬
旅客皆可以免往来之苦也歟明治十年三
月京都府知事従五位槇村正直撰
太政大臣従一位三條實美篆額
京都府四等属中村勤謹書
石工 白川村 内田徳左衛門
土工 同 岡野傳三郎
京都府雇 本間英一郎
主任
森寺廣三郎
京都府七等属角田利永
主事
十等属紀野信存
日岡峠修路碑 碑文の大意
京都三条大橋から近江国との界に至る東海道は険しい坂道が続き,中でも日岡峠はその最たるものであった。しかし京都大津間の車馬や旅行者はこの峠を通るほかはなく,人々は難路に苦しんでいた。よって改修工事を明治8年に起し、ここに完成したのである。1里19町51間(約6km)のあいだ,高低が平均するようにし,最高地点では1丈1尺(3m強)も低くした。この工事により通行する者が苦難を免れることができることを期待する。
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川柳
私の子だけど私のものじゃない /明日勝
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