ここは五条大橋と正面橋の間、 北方向 の橋は 五条大橋
南方向の橋は正面橋
処刑の場は まさに 手前の岸・西岸 足元です
保元の乱(1156年)における源為義・平忠正、
忠正は甥の平清盛の手で首をはねられた。
忠正の長男新院蔵人の長盛、
2男皇后宮侍長の忠綱、
3男左大臣勾当の正綱、
4男平九郎道正ら4人も父と運命を共にした。
平治の乱(1159年)における源義平・
藤原信頼、平重盛は信頼の助命を清盛ら再三申し入れたが聞き入れられなかった。処刑日になって信頼は「重盛殿は慈悲者と聞いていたが、なぜ助け給わぬか」とのたうちまわったという
これ以降は 「しばりくび」「逆張り付け」「くしさし」「のこひき」「ウシさし」「車さし」「火あぶり」「にこみ」など想像するするだけでも恐ろしい処刑があったと伝えられている。
治承・寿永の乱(源平合戦)(1180~1185年)では平能宗・藤原忠清、
荒木村重の一族(1579年)
本能寺の変における斎藤利三
大泥棒の石川五右衛門(三条河原という説もある)もここで処刑された。油を煮立てたカマの中に投げ込まれた。
関ヶ原の戦いにおける石田三成・小西行長・安国寺恵瓊、慶長5年(1600)10月1日
石田光成は僧から授けられた浄土宗の十念を差し出されて「手前は法華宗でござれば念佛はいり申さぬ」といったという。 行長も「身供は切支丹で」と銅で造った十字架のイエスを胸にかけて十念をはねのけたという。
後、長束正家の首とともに、三条大橋に晒された。
大坂の役における長宗我部盛親・豊臣国松らをはじめとする豊臣方の残党など、
豊臣秀頼の子の豊臣国松はわずか8歳だった。 墓所はこちら ⇒ 太閤坦(たいこうたいら)
著名な武将や政治家がここで最期を迎えている。
処刑後、彼らの首級は全て三条大橋のたもとに晒されている。
なお、平宗盛・平清宗親子は近江国で処刑された後、六条河原にて首を晒されている。
なお、六条河原の刑場にて祀られていたと伝えられる「駒止地蔵(首斬地蔵)」が、
現在、当地の付近にある蓮光寺で祀られている。
この寺の墓地には、六条河原で処刑された長宗我部盛親の墓がある。