2017年12月の記事
小野篁卿墓
遠裔 関係者でしょうか
石川県金沢市・・
東京府巣鴨・・・・ 建立
紫式部墓所
平成2年11月建立 京都洛陽ライオンズクラブ
紫式部墓
紫式部 顕彰碑
紫式部は、藤原為時を父として天延元年(973)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子と言った可能性が多い
祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼児より学芸にも親しみ、穎脱したその才能は夙に認められてゐた。長保元年(999)藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子を産んだが、
同3年、不幸にも夫を喪った。
寛弘3年(1006)頃、内覧、左大臣・藤原道長の長女で一條天皇の中宮として時めいてゐた彰子に仕へ、候名を父の官名に因んで式部と稱した。式部は侍講として中宮に漢文学を教
授する傍、「源氏物語」の執筆に励み、寛弘6年頃、この浩○な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。
寛弘7年頃には、日本思想史の上で稀有な虚無的人生観をめた「紫式部日記」を纏めあげた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院)の側近に仕へまた「紫式部集」を自撰した「源氏物語」は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
歿年については、長元4年(1031)とみなす説が有力である。「河海抄」その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院の塔頭の白毫院の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と傳えてゐるが、この所傳には信憑性が多い。「源氏物語」は、完成後、9世紀に亘って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は廣く海外でも知られ、「源氏物語」は續々と各国語に翻訳された。1964年、ユネスコは、彼女を「世界の偉人」の1人に選んだ。なお、紫式部の居宅は堤第と言ひ、平安京東部の中河に所在した。すなはち蘆山寺のある上京区北の邊町のあたりであるる。
また、一人娘の賢子は、後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙された。11世紀の勝れた閨秀歌人の大成三位とは、賢子のことである。
平成元年(1989)春
文學博士 角田文衛 撰
紫式部、ここに永眠すると聞く
この素晴らしい文化の国
日本の礎を築いた偉人に感謝し
いま追善供養のために
この紫式部顕彰碑を寄進して
報恩行の一つとする。
大阪府豊中市
近藤清一
石匠 山本康裕
小野相公 墓
漢字ばかりで
明治2年3月
加賀 横山政和 建 とある
2015年6月 の記事
墓所入口 堀川通りに面しています
紫式部
小野篁
左が 紫式部 右が 小野篁
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五七五
老武者と指やさゝれむ玉あられ /去来
ことわざ
燎原の火
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