工房八重の部屋

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アス二ー山科講座 「信長が見た戦国京都 ~永禄2年の上洛~」

2012年08月24日 | Weblog
山科アスニー講座 8月22日(水) 615回

「信長が見た戦国京都 ~永禄2年の上洛~」

講師は奈良大学文学部教授 河内 将芳氏

「信長が見た戦国京都 ~永禄2年の上洛~」は信長がまだ26歳位の頃で

有名にはなっていない時期に、京都に上洛した様子の講義でした。

その模様を記述した資料が3つ残されていますが、

公家の山科言継の日記「言継卿記 (ゆきつぐきょうき)」によると

永楽2年(1559年)2月2日に500人位の信長の一行は、風体が異形の人達で

京都に到着! 2月7日に帰国の途についたとの記述があります。

13代足利義輝に挨拶に来たとのことですが、急に思い立ち、京都に来て、

義輝の家来達に取次ぎの御礼等を用意してないので、多分会えなくて、

一週間で帰ったようです。

レジメにはその当時の京都の地図が記載されていましたが、

戦火により京都は繁栄した時代からは、大きさは1割位の都市となり、

周りは麦畑となり、米でないのは、麦には税金がかからなかったためとか!

足利幕府は240年続いたのですが、13代義輝の時代には、陰りが出てきて、

永楽8年には、三好三人衆・松永久通らに急襲され、30歳で死去しています。

13代義輝の弟、義昭が15代将軍となりますが、信長に京を追われ

足利幕府は幕を閉じました。

一般には室町幕府は滅亡したと、みなされてしまったのですが、

豊臣政権確立後に将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として認められ、

前将軍だった貴人として、豊臣政権下で遇され余生を送ったのは、予想外でした。

足利幕府が後世に残したもので、有名なのは、3代将軍義政が築いた金閣寺と

その孫の8代将軍足利義政の時代、部下の対立や義政の妻日野富子の政治への口出し等で

政局は混乱し、後継者争いから応仁の乱が起こり、政治に嫌気がさした義政は、

応仁の乱で焼失した浄土寺の跡地に、文明14年(1482年)に東山殿を造営。

今の銀閣寺です。京都で冗談に、「さきの戦争」というと、京都が焼け野原になった

応仁の乱のことを言います。

立命館大学の南にある等持院は、足利尊氏の菩提寺で歴代の将軍の像があり、

その表情は個性的です。240年も続いた室町時代の足利幕府に興味がありました。

講義は面白く、先生の講義を聞いていると、その時代の様子が、よく理解出来ました。


講師は奈良大学文学部教授 河内 将芳氏

講義の内容が、目の前にその時代の様子の情景がありありと浮かぶような講義で、
面白く、その時代にタイムスリップしたようでした。
講義時間はあっというまにすぎました。